第4話 真っ赤な怒り
……‥ちゃん。……ちゃん。
誰かが呼んでいる。懐かく優しい声だがひどく嫌悪感を感じる。
呼びかけに応じ目を開こうとするが、あまりにも眩い光にまともに目を開く事が出来ない。数度瞬きをしてゆっくりと目を開くと、ボヤけた視界の先ににこやかに微笑む女性が確認出来た。
「……ちゃん!新しい服買ってきたから着てみて!絶対に似合うと思うから!」
女性の手に握られていたのは、フリルのついたピンク色のワンピース。それを着るのを催促するようにこちらに突き出している。腕を前に突き出すタイミングに合わせて花の様な香水の香りも流れてきた。
(あぁ。そうか……もう顔すらもはっきり覚えていない目の前のこの人間は僕の母親か)
「それ」を母親だと認識した時、脳の中で蓋をしていた記憶の箱がゆっくりと開いていくのが分かった。
僕の母親は子供が出来たら女の子が欲しいとよく言っていたらしい。しかしなかなか子宝に恵まれず、ようやく授かる事が出来て生まれてきたのが僕だった。男として生まれてきた僕を見た母親の顔に喜びの感情は宿っていなかった。
髪を切る事を禁じられ、買ってくる玩具は人形やおままごと道具。着せ替え人形のように女の子の服を買ってきては僕に着せていた。僕を女の子に作り替え、僕で遊ぶ母親の顔は笑顔で溢れていた。
元々小柄だった事も加味して、小学校に進む頃には誰がどう見ても普通の女の子に作り替えられていた。子供とは残酷なものだ。性別と見た目の異なる僕を見た児童達は一斉に私を虐め始めた。
殴る者。蹴る者。言葉汚くなじる者。日々様々な暴力に晒され、僕の心は徐々に削れていった。
「なんで……ちゃんを虐めるの?可哀想に……きっとみんな……ちゃんの可愛さに嫉妬してるのよ。だってあなたはお人形さんの様に可愛いんだから」
そう言いながら涙を流して僕の頭を撫でる母親の目には、憐れみや慈しみと言った感情は全く見られず、ただただ自分の玩具を汚されて悲しんでいるだけのように見えた。
だがそんな日々も長くは続かなかった。母親によって女の子の様に育てられていた僕の体は、少しずつ男性らしい体へと成長しつつあったのである。
するとどうだろう。顔と体付きのギャップから女の子と言うには程遠くなっていく僕の姿を見て、母親は少しずつ僕と距離を置きはじめ、そして何の躊躇いもなく捨てた。飽きられてしまったおもちゃのようにただ「そこにあるだけ」の存在。誰も触れることもないし見ることもない。
部屋の隅にポツンと置かれた僕は学校へ行く事も無くなり、ただただ無意味な毎日を過ごしていた。
僕は完全に感情というものを無くしてしまっていた。正確に言えば怒りや悲しみ、喜びと言った感情を僕の中の奥深くに封印してしまったという方が正しいのかもしれない。
それが自分を守る一番の方法だと思ったからだ。誰にも感情を向ける事なく無関心で、人形の様にそこにいるだけの存在になってしまった方が生きやすいと感じたからだ。だが時にその封印した感情は、自分の中で別の人格として僕の中にもう一人の自分がいるような、そんな感覚に陥る事もよくあった。そいつが表に立てこない様、必死に抑え込んでいた。
無感情に無関心に毎日を過ごしていく中、世界は少しずつ色を無くし、一枚の葉にすらなれず、枯れ落ちようとしていた僕を救ってくれたのは父だった。
母に弄ばれ飽きて捨てられた僕を父だけは見捨てなかった。会社から帰ってきたらキャッチボールをしたり、バドミントンをしたり。夕食を食べる時も僕に話題を振ってくれて、登校する事の無くなった僕に夕食後は勉強を教えてくれた。
父のおかげで、少しずつ彩りを取り戻してきた世界に僕は勇気を出して飛び出した。中学生になった僕は、そこら辺にいる普通の生徒と同じ様に生活する事が出来た。
それが凄く嬉しかった。母に作り替えられ、女の子として過ごした小学生の頃とは、比べ物にならないほどに楽しい毎日だった。少しずつ感情を出す事も覚えて自分の中にいるもう一人の自分の存在も少しずつ消えて無くなろうとしていた。
そんなある日、友人と寄り道をして少し遅い時間に自宅に帰った。
玄関のドアを開けた時、母親の甲高い怒鳴り声が聞こえてきた。
僕は気付かれないように静かに部屋へと戻ると、聞き耳を立て両親の会話を聞いていた。母は父への不満を矢継ぎ早にぶつけているようだった。どうやら父が僕にばかり構っているのが面白くないらしい。あれやこれやと父や僕を事をなじり続けている。
自分の事は黙って聞いていた父も、僕の事を言われると激しく反論していた。普段は大人しく温厚な父の怒鳴り声を初めて聞いた僕は、激しく動揺し隠れる様に布団に潜り込んだ。それでもなお耳元で怒鳴られているように響く金切り声に、激しい頭痛と目眩を引き起こし気を失ってしまった。
次の日の朝、目を覚ますと僕の荷物と父の荷物がまとめられていた。後から聞いた話だが、父は僕を引き取る代わりに母に家を渡したのだと。
家を後にした僕達は、これまで住んでいた田舎を離れ都会のビルに囲まれたマンションで暮らし始めた。
裕福とまではいかなかったが、父と僕、そして窓際には父が大事に育てていたサボテン。何不自由のない暮らしを送っていた。仕事を変えた父は前にも増して忙しくなり、以前のように僕に構ってくれる時間は少なくなったが、それでも父と二人の生活は、僕の人生の中でも一番幸せで満ち足りた時間だった。午前七時に起きてハンガーにかけてあるスーツを手にリビングへと向かう。ワイシャツ姿で朝食を作る父の横で僕はコーヒーを淹れる。毎日の日課だった。いそいそと朝食を平らげるとスーツを羽織り足速に駅へ向かって行く。僕はコーヒー片手に毎朝ベランダから父の姿を見送った。
高校へ進学しなかった僕は、ほとんどの時間を家で過ごし、父の買ってきた問題集や参考書を読んで勉強していた。父は僕が勉強をしている姿を嬉しそうに眺めていた。そのにこやかな父の顔を見るだけで満たされた気分になり、更に勉強をする意欲が湧いた。こんな一日を、毎日をずっと過ごしていけるだけで僕は幸せだった。
だが、僕と父の平和で幸せな時間は長くは続かなかった。僕が高校を卒業するであろう年齢になった時、突然現れた一人の人間によって僕達の生活は粉々に破壊された。
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