第33話 鳴間綴の七月十五日➁
中学時代の妖狐に見守られながらの練習。峠兎。そして昨日の言霊。どれもこれも、近くには怪異がいたが、今はそれらよりもこの鳥居を超えるのが怖かった。
一時的には妖怪になってしまったが、今はただの人間。人の本質を食ったように見抜いてはそれを利用して用事を済ませる性悪で狡猾で最低最悪なひねくれ者なはずなのに、顔を合わせて拒絶されたらどうしようなんてそんなことばかり浮かんでくる。
やれるのは、十五メートルの鳥居から境内への石畳へ背を向けて走っている姿を外から眺めることだけだった。
小さな体躯で一回り大きな選手から逃げ切るように先頭を切っている姿は脱兎の如くという言葉が適切。今思うと、七星奈々とは兎のような少女だった。
それが要因となったのかは不明だったが、そうであってもそうでなくとも、七星奈々は天才で己の穢れから妖怪変化の儀式を発動させてしまった。そういう逸話は綴の中には残ってしまった。いらない逸話だった。
フードを目深にかぶったまま、七星は境内から鳥居へと入ってきた。途中で減速してしまって、鳥居へと歩くように足を止めた。
向かい合ってもフードは目深なままで俯いたままだった。踵を返すとクラウチングスタートを構えた。じっとしている。走り出す様子はなく、誘っているようだった。
「一年くらい、俺は本気で走ってない。そもそも才能が違うし、勝負にもならない。やる意味ねーって」
「た、体力測定のときは……?」
「それは走ったけど……」
「クラスで何位だった?」
「他にやってるやつがいなかったら一位。井の中の蛙の結果。大海を知らせようとするな」
「その回りくどい言いかた、好きじゃなかった」
「俺も嫌い。でも治らなかった。これは不治の病なんだ。だから、受け入れることにした」
「うん」
七星は構えたままだった。峠兎の条件には相方の消失が含まれていた。なんで俺なんだろう。どうして天才は凡才を相方に選んだのだろう。
綴は鳥居に入ってから七星の横に立った。木陰に鞄を投げてから同じ構えを取った。
「合図は?」
「鳴間くんが走ったら。私は天才。それくらいしないといけない」
「やっぱ七星はかっこいいよ。賽銭箱に先に触れたほうの勝ちな」
「うん」
走り出すと、すぐに七星はすれ違っていった。本気で走っているのに、差は開いていくばかりだった。
先に七星は賽銭箱に触れた。息はさほど上がっていなかった。綴も続いたが遅れていたのに肩は大きく上下してしまっていた。日頃の鍛錬の差だった。
やっぱ玲はしんどい道を選んでるよな。そう嫌いなやつを思い出してしまったのは、その辛さを身をもって体験済みで再確認したせいかもしれなかった。
「遅いね」
「……ぼ、凡人にしてはよくやったほうだろ……げ、月曜からここで練習してるらしいな……」
「昨日も昼間までやってた。でも、不思議なことがあってさ。穴があったんだ」
七星は、地面を覗いた。昨日、穴が開いていたところだった。
綴は七星が出入りしていたことを知らなかった。皐月も綴がここで祓うことを知らなかった。それによって生じた、昨日だけ存在していた不思議な何かを掘り出されたような穴のことを差しているのだろう。
「今日は無いな」
「うん。それで、やっぱここってそういう場所なのかなーって。なんか、昨日の夕方も急に行く気がなくなったし。だから、休んだ。一応、病み上がりだし」
妖狐は髪を金色の狐に変えて外を見張らせていた。あれにはそういう効果があるようだった。
「不思議だな」
「不思議だね」
「そんなことがあったのによく今日も来たよな……」
「鳴間くんは休みのたびにここで練習してた。不思議だけどこうして生きてるから安全ではあるのかなって。ここ、いいね。距離は足りないけどフォームチェックに使える」
「俺と七星は中学時代にずっと同じ部活で種目も被ってたけど、挨拶とか顧問からの連絡を伝える程度の関係性。なんで知ってんだよ」
「なんでだろうね。なんか、気付いたら知ってた」
要領の得ない返事だった。昨日と同じ場所にいるのに、相手が違うからか強く詰める気にはなれなかった。
「そっか」
「ねぇ、どうして短距離を辞めたの?」
「中学最後の大会が地区予選決勝が限界だったから。推薦、欲しかったんだけどな。まぁ、七星は天才だし、俺に才能が無いのはとっくに見抜いてたぽいけど」
フードを目深に被ったままなので顔は見えなかったが、賽銭箱に背を預けながら俯いている姿はそう言っているようだった。
「……うん。走ってる姿を見るとね、こうすればもっと早くなるのにとか、私ならこうするのにとか、靴が合ってなさそうとか、筋トレサボってそうとか、やっぱそういうのわかっちゃう」
「それは、七星が天才だからだよ。もっと合理的にやれよって効率わりーよって見下してしまうよな」
「見下してたね。中一のときに鳴間くんって……その、言いづらいんだけどさ……」
「デブの肉団子だろ」
「コンプラ、無視しすぎじゃない?」
「自分が自分に言った台詞。問題ない」
七星は身体を揺らしていた。不服そうだったが、小さく頷いた。
「……ま、まぁ、そうかな。だからかな、ダイエットするなら別に筋トレでもいいじゃんって思ったんだ。あの走ってるよりも転がってる姿は……やっぱ、バカにされちゃうから。明るい性格でもなかったしね」
「走るって誰にでも許されてる権利だろ。それを卑下するって、俺からすればそっちに問題がある認識。不自由に走ってる自由が可笑しいなら勝手に笑っとけ。ごめん、回りくどくなった。どうでもよかったってこと」
「それは嘘だよ。私が見てるのに気付いたときだけ、鳴間くんは恥ずかしそうに走るのを辞めて休憩してたから」
嫌いなやつやどうでもいいやつには騙して搦め手で落とせるのに、好きな子の前では醜態を晒したくなくて見栄を張ってしまう。しかもバレていた。過去の自分はやっぱりカッコ悪いと再認識させてきた。
「気のせいだよ」
「そんなことない。鳴間くん、私のことをちょくちょく見てたし。今だから言えるけど、マジできもかった」
「きもいな。俺も当時の自分をマジできもいと思ってる」
「秤守さんから鳴間くんのことを口にしちゃいけないってお願いされてた。だから、みんな黙ってたけど、心では思ってたんじゃないかな」
また皐月の箝口令は綴を守ってくれていた。ここへ来るように促してくれたのも皐月だった。皐月は皐月で七星とは違う凄さがあるよな。と、友人でいたくれたことに感謝してしまう。
「それ、学校じゃ話したら殺すって脅し文句として扱われてるらしいぜ。七星、殺されるかも」
「月曜の放課後にね、秤守さんがここへ来たんだ。鳴間くんにだけは言ってもいいって許可してくれた」
「それ、教えられてないなぁ……あいつの打算さにちょっと腹が立つかも……」
「でもその条件も提示された。鳴間くんの為に本音を話してあげてって」
恋の目安箱は、やればできると言葉ではなく、行動ですでに示してくれていた。
「言いたくないなら言わないでいいぞ」
「言う。たぶん、もう二度と合わないし。今は恥ずかしくても、あとで絶対に言ってよかったって後悔はしないから」
だから、鳴間くんもそうして。口にはしなかったが、そう求められていそうだった。
「この体型になれたのは、中二になった頃だった。さすがに徐々に痩せてきたからか、みんな気にしなくなってたけどな」
「それくらいから私を見なくなった」
「マイナスがゼロになったからな。あとは残された時間でどれだけプラスに持っていけるかだった。制限時間が減るたびに余裕が無くなってきてた。授業中に空気椅子とかやり始めたのもその時期。常時つけてたアンクルウェイトを一キロ増やしたり、食事も続けてたブロッコリーとササミとゆで卵とオートミールのままで、放課後も休日もほとんど走ってた。テストも赤点でも叱られるだけで練習に出られるからって、全教科足しても百点に届いてないくらい放置して時間も作ってた」
「そこまでやれる人、なかなかいない。そのストイックさ、尊敬する」
「短距離走はちょーシンプルで一位以外は褒められにくい競技。才能の無いやつが付け入る隙もそれだけ少ない。そこで一位を取れば、隙ばっか狙ってるゴミカスの自己啓発になってくれるんじゃないかなって。でも才能が足らなかった。結果はこの通りだよ」
「最初から痩せてたら、もっと結果が伸びてたかもよ」
「マイナスから最強になるから意味があったんだよ。俺の中に存在しないはずの全能感は存在してしまっていて、そいつは脳を焼いてた。あの頃の俺はどうかしてた」
七星は肯定してくれたが、綴はそれを否定した。皐月からのルールは本音を話すこと。だから、これはお互いの本音。残念ながら、天才と凡才の本音は噛み合ってくれなかった。
「一位なら、中距離でも長距離でもよかった。どうして、短距離を選んだの?」
「七星奈々がやってたから」
「そっか」
「七星のことは、皐月からすげー子がいるってどうでもいい話をしてるときに教えてもらってた。そしたらすぐに授業中にグラウンドで体育の授業を受けてるクラスを見かけた。大差をつけてゴールをしてるやつがその中にいた。確認しないでも七星だってわかった。すげーなって思ったから。かっこいい。ああなりたい。ないものねだりをしてしまったんだ」
綴にとって七星は美女で綴は野獣。美女と野獣だったら、この恋は実っていたのだろう。けれど、そうならないのが現実だった。
「うん」
「それから七星のことしか考えられなくなった。そのたびに胸にすげー鈍痛があって頭もふわふわした。完全に恋煩い。ここままじゃダメだよなって、色々と考えて陸上部に入部して短距離走を始めてみた。正直、過剰にやりすぎてだいぶきもいなって思う。こんなものは、想いを伝えていないだけでストーカーと変わらないからな」
「……私は、鳴間くんが見なくなってからも目で追ってしまってた。この人は本気だったんだ、どうしてこんなにメンタルが強いんだろうなって。才能が無いのになんで立ち向かえるんだろうなって。私も途中から鳴間くんが好きだったんだよ」
「いや、だから俺は異常者だって。動機も行動も壊れすぎてる」
「それは受け取る側の問題。逆恨みして危害を加えられてもいないし、私と同じになれなかったからって認めらなかったからって何も言わずに去ってもくれた。自分の為にそこまでしてくれるとかかっこよすぎるから。私が天才であれたのは、鳴間くんが本気だったのもあるんだよ」
報われる台詞だったが、七星が峠兎になってしまったのは、その綴の消失も原因。七星を誑かしてしまったことによる弊害だった。だから思う。七星に憧れなければ、怪異になどならずに今も天才としてあれたのではないかと。
「今年の全国、出られなかったみたいだな」
「中学最後の全国のあと、鳴間くんはこの世の終わりみたいな顔をしてた。続けないのはなんとなくわかってた。私が天才を続けるには鳴間くんにも続けてもらわなきゃいけなかったから」
「なんかごめん」
七星は、ううん、と、首を横へ振った。
「いやぁ、タイムが伸びなるとね、今までの腹いせにちょっとイジメっぽいのを食らっててさ、ただでさメンタルが持たなかったのにもっと落ちちゃって、鳴間くんならどうするんだろうとか考えだしてた。でも、もしかしたら短距離を続けてるかもだし、それがモチベになるかもって友達に聞いてみたんだ。卒業しても短距離を続けてる子がいたら教えてって」
「俺のことを話すのが禁止されてても、それなら答えは出るな」
けれど、そこに綴の名前は無かった。七星が完全に壊れてしまったのは、その瞬間なのだろう。
「それから、授業を受けずにウサギを眺めてる時間が増えた。人の訪れない場所ならどこでもよかった。それが偶然、そこだった。だからずっとそうしてたんだ」
「そこからの記憶は?」
「ウサギが黒い靄に変わってた。私の全身を覆うと、身体がとても軽くなった。誰よりも早く走れそうで、誰かに抜かれることが妙に気に入らなくなった。去年、私が全国大会の最後の試合で走ってるときの感覚にそっくりだった」
「それこそ昨日まであったここの穴よりも不思議な話だな」
ふふ、と、楽しそうに七星は笑った。
「そうだね。同時に嫉妬と危機感を覚えた。早くしないと、知り合いが私を追い抜くかもって。気付けば目が合った相手と場所を選ばずに勝負を挑んでた。すぐにスタート。逃げ切れば私の勝ちってルールだった」
「勝負した相手は覚えてるのか?」
「私をイジメてた寮の子。全部勝ってた。あとは地元の子かな。山口から東京まですごい距離があるのに休み無しで走ってた映像が頭に残ってる」
確認しなければわからないことだが、七星と一緒に暮らしていた寮生たちも足首を麻痺させられていそうだった。
「人間じゃ無理そう」
「そう。でも最後の記憶は敗北だったんだよね。金色の狐に睨まれて、すごく怖かった。本能的に逆らっちゃダメだって悟った。それでここまで連れて来られて、鳴間くんに触れられた。あと巫女さんもいたかな。そこから病院生活が始まって……病院で私の捜索願が出されてて、なぜか東京で発見されたって警察の人と少し話して……って感じで……」
「夢みたいな話だな」
「でも妙に実感があって、それでここで練習を始めてみたんだ。夢か現実かはっきりするかなーって」
「俺は七星に触れた記憶がない。やっぱ、夢じゃね」
「そうだね。夢だね」
ネットにも書いてない答えは知らないでいいこと。そっちのがずっと幸せだった。
「短距離、続けるのか?」
「悩んでる。鳴間くんは、やりたいこととか見付かってるの?」
「最近、バイトを始めたんだよな。なんか、店長が才能あるとか言ってくれてるから、やる気が出たり出なかったしてる」
「おー、高校生っぽいね。しかも向いてるとかいいじゃん。どんなバイト?」
「ペット探し。少し前も捕まえた。ちなみに兎だった」
冗談のように口にすると、七星は楽しそうにしてくれた。心地良さしかなった。
「なにそれ。やっぱ触ってそうじゃん」
「七星は兎じゃないだろ」
「それはそうだね」
「それで、同い年の店長の姪っ子と一緒に働いてるんだけど、才能が無いんだ。たまに噛み付つかれてる。それが鬱陶しいのが最近の悩み」
「私の鳴間くんみたいな関係だね。恋愛感情は無さそうだけど」
「うん。だから七星に教えて欲しいんだ」
「なにを?」
「天才の立ち振る舞いかた」
難しい質問だったのか、見えている口元が尖がった。
「これは私の考えなんだけど……才能のあるなしは状態で天才は称号なんだよね。だから、才能のある人間はそれを誇示して、自分よりも弱い人間を踏みにじっていくしかないんだと思う。恨まれても妬まれても、そうしてダーツの真ん中みたいに的になるしかない。残酷だけど、優先座席はどこの世界も少ないから」
「勝負事でずっと勝って来た七星らしい発想だな。そこまで覚悟が決まってなかった」
「覚悟はすぐについてくるよ。落ちぶれたら優しくされないって気付いたときが、自分が天才だって自信を持った瞬間でもあるからね」
「すげー参考になった。やるだけやってみるよ」
「まず、鳴間くんには自分を好きになってほしいけどね。じゃないと、自分を嫌いな人を好きになったのがバカみたいだし」
「それもやっとく」
この何もかも、もう会わないから言える台詞なのだろう。先ほど、七星は短距離を辞めるか尋ねたときに迷っていると返事した。
けれど、綴の憧れた天才は、一度の挫折で壊れるほどもろくないはずだった。でなければ、アドバイスだってしなかったし、綴と同じように中学時代の穢れを祓おうと、その綴を待つようにここで練習するはずなどなかった。
綴は賽銭箱から少しは離れた。もう、七星と話すことは何も無かった。七星は、止める様子もなく俯いたままだった。
「明日、皐月にお礼を言っとくよ」
「私も言ってたって伝えといて」
「うん」
「ねぇ、鳴間くん。私と付き合ってよ」
「ごめん、それは無理」
「ありがと、死ぬほど恥ずかしくなれた」
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