第31話 蘆屋玲の七月十五日➁

「ど、どうして……昼休みに既読を付けてくれなかったんですか!」


 放課後、玲は屋上でスマホを耳に当てていた。相手は皐月だった。


「ごめん、ごめん。通知では読んでたんだけど……」


「だったら既読まで付けてください……」


「この時期、相談者が多いんだよねー。ついには昼休みまで浸食されちゃってて……」


「嘘ですね」


「ホント、ホント。なんでもかんでも綴にやらしてるわけじゃないし。自分でやれることはやってるってことよ」


「じゃあ、私の相談にも乗ってください」


 えー、と、とてもめんどくさそうにされてしまった。


「京都は射程外なんだけど……」


「調べ物をしながら、少し相手をしてもらえれば」


「それって、自分を陰陽師だと思い込んでる相談?」


「……まぁ、そうなりますね」


「だったらそれこそ私の射程外。目安箱の目安箱にやらせるべき相談だよ」


 それでは意味がなかった。綴がやったように、皐月とどこまでやれるか試したかった。


「一緒にやってください」


「粘るね」


「私は、これしか意地の通しかたを知らないので」


「それは、やりたいやりかたしか試してないからだよ。今日一日だけ、意地は閉店がらがらさせなよ」


 これ以上、納得させる言葉が浮かんでくれなかった。


 雰囲気が悪くなりそうだった。気持ちを切り替えようとグラウンドを見下ろした。


 運動部が部活をしていたが、いつもよりも少し人が少なかった。くしゃみをしている生徒もちょくちょくいた。


「すみません、無理をお願いしてしまいました。一人でやってみます」


 お前さぁ……。と、不快な気持ちを吐き出したような男子高生の声がした。皐月は匙を投げてしまったようだった。


「人間関係下手すぎ。相手が嫌がってんのに強要したら空気も悪くなるし、顔も合わせにくくなるだろ。人に期待過ぎなんだよ。そういう世の中なんでも思い通りになるって自惚れてるところが俺がお前の嫌いなとこの一つな」


「そうですね。嫌われたからあなたが登場したんでしょうね」


「嫌ってはないけどな。今週の土曜から夏休み。マジで今日は皐月のとこには人がすげー訪れてる。もう駆け込み寺だ。あいつの本分は目安箱だろ。余裕が無いんだよ」


 空気を切るような音がした。ごめーん、ありがと。秤守さーん。あ、先客がいたのか次は俺だから。うわぁ、人多すぎ。と、男女入り混じった声がしていた。


「みんな、夏休みまで引きずりたくないから、この時期はすげー混むんだってさ。皐月だって、手が空いてたら一緒にやってたはずだぜ。少し前、自分だけ仲間外れみたいだって拗ねてたし」


「……あとで、皐月には謝っておきます」


「そうしろ。そもそもこっちは俺らみたいな変わったやつしかやれない。極力、関わらせたくないのもあるしな」


「あなたは、それでも皐月に頼っているようですけどね」


「お前よりは巻き込みすぎないようにやれるからな」


 言葉は強かったが、そこに正しさもあったのがむかついてしまった。やっぱり口では勝てないと、今日は意地を閉店がらがらさせておくことにした。我慢できればではあるが。


「まぁ、事情が事情なので、あなたとやるとしましょう。人の少ない場所に移動してください」


「ここ以上に人の少ない場所はそうはないぜ。図書室だし」


「それにしては私語が多すぎるかと……」


「張り紙は機能してないな。でも、あいつがいなきゃ、もっとみんな穢れてる。それって祓ってるようなもんじゃん。それくらいよくね」


 そうして軽口の中に友人への賞賛を混ぜてくるのが、綴がいいやつなのか悪いやつなのか惑わしてきた。いや、悪いやつだ。そうに決まっている。


「始めさせてもらっていいですか?」


「その前に、環さんの許可は取ってるんだろうな……」


「取っていません。あとで取ります」


 あーあー、と、綴は喉を濁ったように鳴らした。


「お前って基本的に事後報告だしなぁ……怒られたくないんだけど」


「窮鼠猫は臆病で命を奪うほどに追い詰めなければそこらの鼠や猫と変わりません。陰陽師的にはという意味にはなっていますが。なので、そう危険ではありませんよ」


「俺の座学の先生はお前だしそこは信じるけどさぁ。まぁ、怒られたら怒られたでいいか……」


 ペンがテーブルに落ちた音がした。課題の手を止めたようだった。それがわかる程度には、綴を知ってしまっていた。別に知りたくはなかったが。


「窮鼠猫を噛む。追い詰められると、猫よりも弱い鼠も足掻くという例えですが、これは実例によって作られた言葉。その場面で鼠が猫に勝ってしまえば、『窮鼠猫』という妖怪が生まれてしまう。人よりもずっと優れた嗅覚と聴覚を持っていて、猫の姿で鼠の毛をしています。目は猫で尻尾は鼠でした」


「穢れはどこにもであるってことな……というか、でしたって見たことがあるのか?」


「妖怪はいい道具に化ける場合もありますので。窮鼠猫も捕獲されて色々と悲惨な目に遭ったことがあるのですよ」


「そういや、環さんも眼球をくり抜いてたな……」


 どうせ、また良からぬことに使うのだろう。使い道など浮かばない。怪異に恐れられる陰陽師の考えることなど触れないほうが利口だった。


「窮鼠猫からは作れませんでしたけどね。しかし、その過程で取扱説明書は完成しました。猫の命は九つあると伝えれていますが、猫は一つしか持っていない。けれど窮鼠猫は持っていました。見た目が似ているせいで一緒くたにされたのでしょう」


「表に出さないこともそこそこやってそうだな」


「だから隠れているのですよ。祓うたびに生き返っては特徴が強化され、九回目には窮鼠猫ごと周囲は酷く汚れてたそうです。能力は、鼻を穢しているときは耳を穢せない、耳を穢しているときはその逆は。という感じらしいです」


「その穢しかたも教えてくれ」


「鼻はぐずぐず。耳はキンキン。窮鼠猫は祓うな見逃せ。けれど悪さをしていたならば、ちょいと脅してやめさせろ。これ、昭和初期に陰陽師の間で流行ったんですよね。格言であって対処法。こちらに倣ってみればいいかと」


 祓わなければ、気まぐれに人にくしゃみか耳鳴り程度の軽い病しか与えない妖怪。下手に駆逐を目指して存外な被害を出すくらいならば放置するほうが安全だと判断されていた。


「玲の学校のやつらはそうなっているのか?」


「くしゃみと鼻水に悩まされている慢性鼻炎の患者が少しずつ増えていますね」


 うーん……。と、綴は引っかかったのか、少し間が空いた。


「それ、窮鼠猫って心当たりは他にもあるのか?」


「窮鼠猫は臆病者。命を増やすほどに死を恐れているとされています。ならば、陰陽師の本拠地である京都を目指します。我々が祓えないの知ってしまえば、そこほど安全な場所はない。他所にいては他の妖怪に難癖をつけられて命が減りかねませんからね」


「そして他の妖怪は陰陽師が鬱陶しいから寄り付きにくい。陰陽師が多い場所にこそ窮鼠猫は集まるってことな。お前らの中じゃ常識だったってことか」


「そういうことです。問題はどうやって発見して脅すか。詰んだのはそこでした」


「皐月のスマホを借りてるおかげで俺のスマホが使いやすい。鼠と猫についてちょっと調べてみる」


 綴は黙ってしまった。暇になってしまった。いや、人任せにしてはいけない。


 猫は暖かいとこを好む。この夕方の屋上などごろごろと日向ぼっこをするのにちょうどよかった、人でも寝転んでしてしまいそうなほど落ち着くときだってあるくらいだった。


 では、鼠はどうだろう。薄暗い下水道の中を徘徊しては、ゴミ漁りをするような不衛生な習性があった。人がまず行わない行為で、それ自体が疫病の原因にさえなったこともあった。


 真逆だった。だからこそ、規則性が生まれてくれなかった。綴はどういう答えを出してくれるのだろう。そう諦めてしまった。ダメだなぁ。と、陽当りのいい夕暮れの空気は、憂鬱を誘いながら気を強く持つのを辞めさせようとしてきた。


「鼠と猫の習性って真逆だな」


 綴の結論は玲と同じだった。


「そうなんですよね」


「でもぐずキンどっちかってことは、片方の能力しか使えないってことで、鼠の能力を発揮しているときは、そっちの気持ちに寄りやすそうではあるよなぁ。薄暗い場所にいる不気味な猫。お日様の下を闊歩していない反対の行動を取っている猫。そんな猫が銀色の毛をしていたならば、そいつが窮鼠猫だって可能性があるかもしれない。そいつは下水道に入るにも猫の身体のせいで上手に潜入が難しい。それでも日陰が多くて人の少ない不衛生な場所を求めるはず。学校のゴミ捨て場の中にいる猫。そこ、ちょっと確認してきてくれ」


「はい。飛び降りてすぐに向かいます」


「お、お前こそ見付からないようにな……」


 グラウンドの反対側は体育館の屋根が見下ろせた。跳躍してフェンスを飛び越え、そのまま落下しながらそこへ着地した。すぐに裏のゴミ捨て場の前へと飛び降りた。


 格子の燃えるごみと燃えないゴミのボックスが並んでいる。どちらにもゴミ袋が積み重なるように捨てられていた。


「到着しました」


「じゃあ、燃えるほうを蹴ってみろ。鼠も猫も生ゴミを漁るのは公害問題になってるからな」


 言われた通りにやってみた。ガシャガシャと音がするだけだった。


「変化がありませんが? 見当違いかもですよ」


「そう玲が呟いた台詞を窮鼠猫はほくそ笑んでるぞ。あいつらは祓えないのを知ってやってるからな。だからこう言ってやればいい。別に祓わないでも四肢をもいで逆さ吊りにしてやることはできるってな」


「性格が悪いですね」


「終わってないだけマシだよ。で、窮鼠猫は耳がいい。俺の声も届いてる。わざわざ京都に向かってやるとかだるい。玲がやっといてくれ」


 ゴミ袋が少し揺れた気がした。遠く離れていても言葉で制圧。令和の陰陽師らしいやりかただった。


「では、アンコウの吊るし切りの要領でやってみますか」


 また玲は道具にされただけだった。けれど、前ほど嫌な気持ちはしなかった。一人ぼっちでクラスにいるよりはずっとマシだからだった。


「それ、食ったことないな」


「時期になったら鍋を作ってあげますよ」


「報酬がやばすぎ。手伝ってよかったよ」


「左様で」


 ボックスの上蓋が開いた。銀色の毛の猫だった。縦に開いた瞳孔と細長い毛の生えていない尻尾。窮鼠猫のそれだった。


 すれ違って逃げようとしていた。玲は反対の手で首根っこを摑まえると、ボックスの蓋が閉まった。


「捕獲しました。感謝します」


「ん」


 通話終えて、スマホをシャツのポケットへ入れた。窮鼠猫はじーっと覗きながら瞼をぱちぱちさせていた。


「窮鼠猫は下手に祓えない上に臆病なせいで長命なものも少なくありません。人の言葉は話せるのでしょう? でなければ、綴の脅し文句が機能していないはずです」


「……い、い、い、い、いいのか……? 俺を祓えば祓うほど、人がいっぱい死ぬことになるんだぜ?」


「だから、祓わずに逆さにして放置するんですよ。さっさとみんなの鼻炎を治してください」


「放っておけば勝手に治るぜ。最近の陰陽師はそんなことも知らねーのかよ。いや、言葉が過ぎた……お前らが長い休みに入る頃には元に戻ってますです。ごめんなさい……」


 ぺこり。と、頭頂部を見せると、そのままだらーんと、身体の力を抜いた。降参したようだった。


「勉強不足でした。取扱説明書に追加しておきます」


「信じていいのか?」


「騙されるやつが悪いと言ったやつは、自分のことを棚に上げてそこそこ信じようとしていました。真似してみるのも一興かと」


「騙してたらどうする?」


「アンコウ吊るし切りの刑に処しましょう」


 玲がゴミ捨て場のほうへ放り投げると、窮鼠猫は逃げずにボックスの上でお座りをしていた。


「変な陰陽師」


「そういう設定ですからね。どうして人に迷惑なんてかけたんですか?」


「お前、学食は食べたことはあるか?」


「ありますよ。お弁当の日もあるので、常連というほどではないですが」


「じゃあ、日替わりのメニューが変わったのも知っているな?」


 最近、学校を休みがちだった。七月になってからはほとんど出席していない。その間の出来事のようだった。


「すみません、知らないです」


「そうか……アジフライが消えたんだよ……おかげで腐った魚が食えなくなった。大好きだったのに。生徒が食わないせいでメニューから消されたらしい」


「そういえば、私も食べたことがないですね。一度食べておけばよかったです」


 窮鼠猫はじーっと睨んだ。お前も原因の一端だと言っていそうだった。


「アジの時期は三月から十二月。この学校の学食は、冷凍じゃなくてちゃーんと生のアジを下処理してたんだ。だから、腸がここに集まってくれた。腐らせて食べていたのに……」


「食べ物の恨みはなんとやらですね。その逆も然りですが」


「そういうことだ。お前らにも問題があった。アンコウ吊るし切りの刑は勘弁してくれ……」


「ただの脅し文句ですよ。まぁ、いちいち腐った腸など用意したくないですが、魚の干物ならたまに持ってきてあげましょう。だから、悪さはよして好き嫌いせずに適度に生ごみを漁っていてください」


 おおー。と、窮鼠猫は前足で拍手をした。


「どうして、俺が干した魚も好きなのを知っているんだ?」


「大昔の陰陽師が取扱説明書を作ってくれていました。ただし条件があります。この学校を守ってあげてください。これから、私の出席率は落ちてしまうかもなので」


「京都は日本でもっとも安全な場所だぜ。陰陽師が多いからな。そうそう危険なことになんねーよ」


「保険ですよ。あなたもそう考えているのですから、それくらいやってください」


「俺はまだ一度も死んでない。軽いくしゃみと耳鳴りを起こせるだけの猫と変わらない妖怪。期待しないほうがいいぜ」


「しかも臆病。期待なんてしていませんよ」


 玲の肩に飛び乗ってきた。顔の近くに来ると不衛生な匂いがしていた。く、臭いなぁ……。と、顔の全てのパーツは勝手に中央に集まろうとしていた。


 そんな玲を気にもせず、窮鼠猫はくんくんと玲の匂いを嗅いでいた。すると、怯えたように元の位置でお座りをした。身震いしていた。


「どうしてあなたが震えているんですか……しかし、臭いですね……定期的に水浴びをしておいてくださいね!」


 うんうん。と、同意はしたが、それどころではなさそうだった。


「わ、わかった……」


「少し声を張っただけでしょう? どこまで怖がりなんですか……」


「俺は臆病でしかも耳と鼻がいい妖怪。だから、やべーやつの匂いは絶対に忘れない。ずっとお前から『焦げた獣の匂い』が漂ってた。やっぱ気のせいじゃなかった……。これは人にとって加護みたいなもんなんだ。気付いたやつは手を出しちゃいけないって警告。鼻の良い妖怪の常識。九回死んでも殺せない大妖……。お前、九尾の妖狐と会ったことがあるのか?」


「えぇ、食事当番をさせられていました」


 窮鼠猫は土下座をするように丸まってしまった。ぶるぶると震えてしまっている。なんかもふもふの丸い物体で可愛い。と、愛らしさを覚えたが、その物体はそれどころではなさそうだった。深呼吸をするようにゆっくりと上下を繰り返すと顔を上げた。


「……少し前、妖狐が人に憑いたって噂を耳にした。それ、お前なのか?」


「いいえ。それはさっきの電話の相手。私がやりたいこと、やろうとしてもやれないことを息をしているだけでやってしまう天才でした」


「あ、あいつか……まともそうじゃなかったしな……お前、いじめられてそうだな……」


「都合のいい道具にされてばかりですね。それをイジメと思うかは個人の判断によるところですが」


「そうか……」


 憐れんでいるようだった。こんな弱い妖怪にまでそうされるとは、つくづく自分の才能の無さが嫌になった。


「だから、私は臆病で弱い妖怪にしか話を聞いてもらえないのです」


「いやいや、親しそうだったじゃねーか。それってお前も強いってことだろ」


「これが私には才能が欠けていまして、補欠合格の陰陽師なのです。しかもそれは彼のおかげ。そのせいでしょうね、他の者から辛辣な態度を取られてばかりですよ」


「だったら妖狐はお前に匂いを残さない」


「気まぐれでしょう。あれは主と同じで何を考えているかわかりませんから。ただ、どちらも私の食事を美味しそうに食べてくれた。良くしてくれるのは、それくらいしか思い浮かびません」


 窮鼠猫は首を傾げてしまった。臆病者は臆病なりの理由を探しているようだった。


「わからん」


「ですよね」


「俺は腐ったものしか口にしない。だから、もっとわからない」


「私と同じような妖怪は、私の唯一の長所を受け入れられなかった。妖狐の言っていた通りでこの世はなかなかに理不尽で地獄かもです」


「胃腸が爛れるから食えねーんだよな……」


「人でいうところのアレルギーのようなものでしょう。気にしないでください」


「手、出してみろ」


 玲は右手を窮鼠猫の近くに持っていった。くんくんと匂いを嗅いだ。続いてべろべろと舐めた。そのたびに、手の甲にはざらざらとした感触が残った。


 窮鼠猫は顔を遠ざけたので、玲は腕を降ろしておいた。


「猫には未来を予知するような逸話が多い。陰陽師なら知ってるよな?」


「えぇ。規則性は発見されていませんが。おそらく、窮鼠猫を素材に色々と試したのもその名残なのでしょうね」


「そういうことだ。だが、俺らにそんな力はない。同族連中と匂いの情報交換をしていて、そこから規則性を出していただけ。これ、取扱説明書に追加しておけよ」


「はい、そうさせてもらいます」


「だから、妖狐の匂いは知っているし、他の危険な匂いも知ってる。その匂いが漂えば、そこを去るからな。人間からはそれが災いの予兆を察したと映っていただけ。実際、天災は自然によるものか妖怪によるものか判断が難しいとこがあるからな」


 場合によっては妖怪の仕業でも天災ということにもしていた。そっちのが都合がいいからだった。


「あなたのおかげで陰陽師はほんの少しだけ進歩しました。感謝します」


「おう、感謝しろ。というわけで、お前の匂いを妖狐の匂いの奥から探ってみた。俺らの知っているすげー陰陽師に似た匂いがしてたかもしれないしな」


 環と妖狐の職業診断は不適正だった。もしかすると。と、期待が湧いてしまう。


「結果、教えてください」


「どの匂いにも該当しなかった。やっぱお前、才能が無さそうだ」


「そうですか……」


 三回目の職業診断の結果も同じ。いや、綴にもバレているから四回目。肩を落としてしまった。


「一応、どんな匂いか教えてやろうか?」


「陰陽師とは取扱説明書を作成するのも役目です。参考になるかもしれません。教えてください」


「お日様と土を混ぜたような匂いだった。遅れてツンとした腐臭が少し。俺が知らねーだけかもだし、他のやつらと会ったら聞いておいてやる」


「いえ、やめてください」


 もし弱い陰陽師に該当してしまっていたら、きっとそのときは心が持たない。なんでもかんでも暴けばいいというものではない。知って壊れるくらいなら、壊れる前に蓋をしておきたかった。


「お前も臆病だな」


「臆病で弱い。だから意地しか張れないんですよ。どこか偉そうなあなたと同じです」


「九回死んだら、強くなれるかもな」


「八回で勘弁してください。まだ消えたくはないですから」


「餌を貰うのに見失いたくない。お前の口から名前を教えてくれ」


「蘆屋玲。魚の干物は、その日の特売のやつを用意しますよ」


 あー、と、窮鼠猫はついでにあくびをした。


「四十七都道府県でそこそこ名のある妖怪が一体ずつ祓われた日があった。妖怪連中の間で噂が広がるたびに、それらはほぼ同時刻だと確定されて、どいつもこいつも白黒の恰好に眼鏡をかけたやつだって口を揃えた。四十七人に分裂したようだった。単独の陰陽師の祓い技。蘆屋環。玲と同じ苗字だな」


「私の叔母ですからね。あなたの名前は?」


「吾輩は猫である。名前はまだ無い」


「学校で暮らしているだけあって、つまらないことを覚えていますね」


「名前をくれ。そうすれば、玲も俺を探しやすくなる」


 『式神』。妖怪に名を求められ、与えた名を口にしてから命じれば、その妖怪は逆らえない。そういう儀式だった。


 綴と妖狐の間には交わされていないのだろう。綴は腹の底を探るのに長けていて、それくらいやれぬ者を妖狐もまた認めはしない。だから、綴と妖狐には交わさないほうが自然でそうしなかったような気がしていた。


 けれど、窮鼠猫は憐れんで、何の得もないというのに差し出してくれた。


 ふざけた名など与えてはならなかった。


「江戸の中期頃でしたでしょうか。正確な時期までは覚えていないのですが、とある船頭がいましてね、とても腕利きで櫂を手にするとすらすらと流れるようで少しも酔わずにむしろ心地よかったとか。評判に評判を呼んで聞きつけた大名が自分のものにしたくらいです。けれど船頭は言いました。私が偉いのではなくこの猫が偉いのですと。その猫は斑に毛が剥げ落ちていて酷い身体していましてね、顔を見せたくないのか、船の先でずっと背を向けながら行先を眺めていました。不思議なことにその猫は船頭が櫂から手を離すといつも姿を消したらしいのです。船頭はその猫へ『現』という名を与えたと大名へ教えました。現とは、正気、目が覚める、隠れていたものが現れるという意味。猫が船頭を助けてくれていたのです。その猫の妖怪としての名は知られていない。けれど『現』という名と船頭にだけは懐いて行先を教えてくれていたのは伝わっている。だから、あなたの名前も『現』がいい」


「俺はそんな上等な猫じゃないぜ。鼠も混ざってるしな」


「いいんですよ。私が似たような逸話を語りたいだけですから」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る