第10話 鳴間綴の七月五日➁
「俺、もうあいつと会いたくない……」
玲が去ったあとにすぐ浮かんだ感想はこれだった。言葉の意味を直感的に受け取りすぎだった。感謝として述べたすみませんを謝罪と受け取りそうなタイプ。こっちこそやりにくかった。
「それは環次第だからなんともだが……顔を合わすたびに仲裁するのは疲れる……仲良くはしないでいいからケンカにまでは発展させないでくれ……」
「それこそあいつ次第」
「あいつは感情の機微に鈍感なとこがある。綴のが器用なんだからコントロールしてやってくれ……」
「はいはい……」
会わなければ発生しない問題。それはそのときでいいと、考えないようにした。
綴は手を妖狐へと伸ばして、右へ寄るように動かした。賽銭箱の左半分に並んで座った。
「すぐに手伝ってくれたな。粘るつもりだった」
「とっくに環と決めていたからな。いつの時代も陰陽師の数が足りたことはない。才能のある人間を放置しておく余裕がないということだ」
「勝手に話を進めんなよ……けど、それって陰陽師の道理で妖狐には添わなくね。妖怪だし」
「私は人が嫌いではない。娯楽を生み出してくれるからな。けれど怪異はそれらを蝕んでは壊そうとする。陰陽師の敵で私はその怪異の一つであるが、私にとって陰陽師は必要悪なところもある。手伝えば、それだけ私が生きやすくなる世界になるかなぁと」
「俺よりも人らしい動機を持ってんじゃん」
「綴は穢れすぎているからな。陰陽師になどしたくなかったが、最終的にはそっちのが綴の為になりそうだと至った。しばらく、流れに逆らわないでいてほしい」
妖狐の台詞は気遣っているものだったが、その妖狐は妖怪だった。妖怪とは化物とも呼ばれ、化けすとは誑かすという意味。誑かしてくる者ということ。今一つ、信用できなかった。
「お前、悪巧みしてるだろ」
「人は根源的に穢れている。以前、綴がここにで練習しているときに言った台詞だ。覚えているか?」
「覚えてるし、今もそう思ってる。表に出ていないだけで、口に出せば他人に拒絶される願いを持ってるはずだ」
「それが表に出る場合があるということだ。穢れ。黒い靄のような形をしていて、妖怪変化の条件の一つ。綴は、ふとしたきっかけで妖怪になってしまう」
「いつ壊れるかわからないなら、いつでも壊せるように近くに置いておけばいいってことな。害を為さないように妖怪が見張るって立場が逆転してんじゃん……」
「その発想がすでに壊れているがな。少しは自分を大事にしろ」
自分が綴がそんなに好きじゃなかった。なりたいものがなければ、なるようにしかならない。そんな性格で自分を大切にするのは難しかった。けれど、陰陽師的に言わせれば、これがもう穢れているということだった。
「やっぱ悪巧みしてた」
「あのなぁ……陰陽師は怪異の専門家で怪異の元である穢れを祓ってきた。環は性格に難はあるが天才でもある。怪異の形をしていなくても、穢れを祓うなど造作もないということだ」
「まぁ、穢れた人生だったとは自覚してるけどな……」
「だからよく耐えていると感心した。普通の人間ならば、何かしらの条件を勝手に踏んでしまって妖怪変化してしまっているだろうからな。いや、綴なら新たな妖怪変化の条件も発見していそうだ」
それでもいいかも。そう思ってしまったのは、どこか自分に穢れたところがあって、それ自体が人に話せば拒絶される意見でもあった。
確かに、流れに任せていたほうが迷惑はかけなさそうだった。
「ということは、妖狐も元は人間だったってことか」
「人の噂も七十五日。これは妖怪変化から人間に戻せる期限。私はとっくに過ぎてしまっている。もう戻れないがな」
「後悔したことはあるのか?」
「穢れが表に現れたということは、その時点で自己肯定感を喪失している。人であることも、その悩みである記憶も、妖怪変化の際に捨ててしまうんだ。人だった頃の記憶はとっくに失っている。後悔するにもするものがない。まぁ、プレイヤーの変わった強くてニューゲームのようなものだからな」
冗談ぽく口にしていたが、すー、と、小さく息を吐いたせいか、どこか思うところがあるようには映ってしまった。
「楽してちやほやされたいだけなのに、どうしてみんなわかってくれないんだ。こんなひどい願いをしてそう」
「自我が芽生えるのは人に戻せなくなってから。それまでは本能に忠実。今の私がこうあるのは本能がベースになっていそうではある。たぶんそうだな。もうそれでいい」
「適当だなぁ……でもそれなら白兎はその本能に従ってるってことになる。穢れるだけの理由に目星は付いてるのか?」
「人が妖怪変化してしまうには条件が必要。人であることすら嫌うほど気持ちが落ちた状態で特定の手順を踏むと発動する。大体は逸話をなぞればそこに答えは落ちている」
逸話の中には、人が妖怪になる方法が隠されているということらしかった。
「曖昧な方法と結果だけは伝わってしまっている。それは過去の事例。だから、偶然か」
「今回の場合だと、山口県の小さな地方伝承。峠兎。これに由来している。二人の足の早い飛脚から始まったとされていてな、そいつらは自分ことが最速だと常に競い合っていた。けれども、片方が忽然と姿を消した。勝ちに固執しすぎて不注意で崖から落ちた。そんな噂が広まった。残された相方は深く悲しんだ。そいつは失ったことで気付いたのだろう、自分は最速になりたかったのではなく、死んだ飛脚と本気で競って勝利することが楽しかったのだとな」
「残された飛脚はどうなったんだ?」
「なぁ、綴。単位について深く考えたことはあるか?」
「いや、ないかな」
あるわけなかった。妖狐はそれもそうかと責めてくるようでもなかった。
「魚は一匹ではなく一尾。牛は一匹ではなく一頭。鳥は一匹ではなく一羽。こう呼ばれることがある。当時、人が人の都合で食したり道具にしたときに使えずに残るものが由来だとされている。では、兎には何が残る?」
「耳が残りそうかな。珍味として食えそうか。ごめん、やっぱわかんない」
「まぁ、耳というのは正解だな。兎は一匹ではなく鳥と同じく一羽。大昔、兎の耳は羽と認識されていた。脱兎の如くという言葉も残されているほど、軽やかに飛び跳ねては素早い生き物。その姿はまるで飛んでいるように見えていたらしい」
「今じゃ考えられない理屈だな」
「けれども当時はそうじゃない。残された飛脚は、兎になろうとした。それから、そいつは一匹の兎を飼い始めては、小屋で四六時中一緒に暮らし始めた。仕事もせずにな。この時点で正気の沙汰じゃない。大きな喪失感からすでに壊れてしまっていたのだろう」
「なんでなろうとしたんだろうな」
綴は人の機微に敏感だった。けれど、それでもわからなかった。この異常行動は、一般社会の倫理観からかけ離れ過ぎていたからだった。
「そこまでは私も知らない。まぁ、相方の死体を発見して弔いたかったのか、以前とは見違えるような足の早さをあの世から見ていて欲しかったのか、空を飛ぼうとしたのか、それとも私たちの理解不可能な理由なのか、推測でしかここは語れない部分だな」
「でも峠兎って名前が付けられてる。その飛脚は、兎になってしまったんだろうな」
「そいつも忽然と姿を消したからな。というか、兎ごと消えていた。その時期だ、峠に現れた兎と目が合うと動けなくなったと噂が流れた。それは逸話として、旅人や行商人や他の飛脚などを通じて全国各地に拡散される。当時の陰陽師の登場というわけだな」
「峠で出会った兎。だから峠兎な……襲われた人たちに共通点はあったのか?」
「足が早いとされていた者たちだった。峠兎は見かけられるたびに足が早くなったとされていた。対象から、ある程度の速度を奪えるのだろう。なるべくして選ばれていたということだな」
皐月の情報では、被害者の共通点は全て陸上部に所属していたというものが入っていた。峠兎は、それを知っている人物がなっているということのようだった。
「倫理観の欠片も持ってないな……すげークソじゃん……」
「本能に忠実なだけだ。人の噂も七十五日。まだ人に戻せる。一体、誰が峠兎なのか、答え合わせはもうすぐだ。綴の知り合いでなければいいのだがな」
「妖狐は俺が運がいいと思うか?」
「ふふん、悪いな」
即答だった。そして、綴も自覚していた。確定していないのに、気分が落ちてしまった。
「戻す方法は?」
「目が合った瞬間から、かけっこが始まる。見失うまでに触れれば、綴の勝ち。逃げ切られると足首が麻痺。私が脅しておいてやったからすでに勝っているがな」
「さすが大妖。ちなみに、殺した場合はどうなるんだ?」
「人に戻せないだけ。穢された者たちから足首の麻痺は消える。けれど、救えるものは救っておいたほうがいい。あとでお前の知り合いだと判明すると、いい気分はしないだろうからな」
「そうだな……」
鳥居から気配がした。振り返ると、金色の狐がてくてくと向かってきた。背には兎が乗っていた。正確には跨っているというほうが正しかった。
峠兎は、テーマパークで見かけるウサギの着ぐるみのような人型だった。酷い目に遭わされたのか、両手を胸の前に構えながら小さく震えていた。
「……イ、イメージと違いすぎるぞ」
「妖怪とはそういうものだ。すぐに慣れる。おい……なんかすでに綴にも怯えているぞ。お前、なんかしたのか?」
「俺のメンタルがぶっ壊れそうだった。殴って引き剥がした」
「ぎゃ、逆上して反撃して来たら大変だったぞ……」
「ま、前もって教えといてくれよ……」
綴と妖狐の間まで移動してくると、妖狐は顎をくいっとやった。触れろということのようだった。綴は目を合わせながら触れた。峠兎は、前に倒れるように金色の狐へ身体を預けた。
黒い靄が全身から上がっていた。風に流されるように揺れている。霧が晴れる様にそのたびに人の姿を見せてくれた。
見慣れない、どこかの学校指定のジャージ姿だった。うつ伏せで顔は確認できなかったが、一学年年下のような小柄な少女だった。
一つ年下というのがわかってしまったのは、残念ながら彼女が綴の知り合いだったからだった。
綴が歯を食いしばると、妖狐はそれへ憐れむような目を送った。
「知り合いだったようだな」
「うん」
「仲がよかったのか?」
「いいや。一方的に俺が見てただけ。短距離を始めた理由。中学時代のほぼ全てをこいつに捧げたと言っても言いすぎじゃないくらい好きだったやつ。俺は七星みたいになりたかったし、認められたかった。なのに、なんで妖怪になんてなってんだってすげー気分が悪い」
妖怪になんて。これは妖狐に相手には失言だった。けれど、そんなことに気が回らないほど動転していた。
間違えた。と、綴は妖狐は頭を下げておいた。
「ごめん」
「気にするな。そこが、まだお前が人間らしくいられる部分でもあるからな」
「……七星は天才だった。実際、去年の全国大会で優勝して、いい学校から推薦だって貰ってそこに進学もしてる」
どこかは皐月は教えてくれなかった。綴が知りたくないのを察していたのかもしれない。
「妖怪変化の条件には土地という場合もある。この娘の進学先は、おそらく山口県なのだろうな」
もう終わったこと。どうでもよかった。これ以上、深追いしても、七星奈々という天才の穢れが浮かぶだけだった。そんなものに触れたくなどなかった。
「七星はどうなる?」
「陰陽師が回収し、そういう夢を見ていたことにされる。息のかかった病棟に送られ、しばらくすれば何事もなく退院だ」
「そっか。なんか、陰陽師ってつまんなそうな仕事だよな。というか、つまんねーよ。あー、穢れそう。イライラするから帰るぞ」
「あぁ、そっちのが助かる。あとは、玲でもやれる仕事だ。今は、ゆっくり休めばいい」
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