菊池①

 朝の八時を数分過ぎた時刻に、滞在していた漫画喫茶から用瀬が路上へ出ると、一人の男が話しかけてきた。

「きみ、この名称は耳にしなくなったけど、いわゆるネットカフェ難民じゃない? そうでしょ?」

「あ、はい」

 突然の見知らぬ人物からの問いかけにもかかわらず、用瀬は素直にうなずいた。そのとき彼の頭にあった言葉は「やっとか」であった。

 声をかけた三十代に見える目の前の男性は、ホームレスなど困窮者を支援しているのに間違いなさそうで、活動的な印象だ。

 実はこうやって手を差し伸べられることを期待して、トラブルや面倒も考えられるので不潔過ぎないけれども、綺麗とも決して思われない装いで、いかにもという目立つ大きなリュックを背負い、漫画喫茶やネットカフェに頻繁に出入りしていたのだった。

 話せば長くなる、紆余曲折があって現在の状態になってしまったが、用瀬は己の人生を諦めてはまったくいない。年齢は、後半ではあるものの、まだ二十代であるし。しかし、自力で今の状況を脱するのは厳しい。それゆえ力を貸してくれる善い人が現れるのを期待した行動をとっていたのである。

「あなた、ネットカフェ難民を援助なさっている方ですか?」

 用瀬は尋ね返した。

「いいや」

 男は首を横に振って、あっけらかんとそう答えた。

 あれ、違うのか。チェッ。じゃあ、なんで声をかけてきたんだよ、と用瀬は心の中でつぶやいた。

 もしかして、人の足もとを見て「稼げるよ」なんて言って、やばい仕事でも持ちかけようって魂胆か?

 でも、悪い人間には全然見えない。すごく健全な善い人といった雰囲気で、だからこそ助けになってくれると思ったのに。

「違うなら、用はないでしょうから、行きますね」

 何を考えているかわからないし、こういう人間のほうがタチが悪いかもしれない。そうでなくても、無駄なエネルギーや時間は使いたくない。

 そのように思い、用瀬はそそくさと離れかけた。

「いや、用はあるんだ」

 男はなおも絡んできた。

「俺は菊池っていうんだけど、俺たちの政党に入らないかい?」

 はあ?

「なんすか? せいとうって」

「政治の団体、グループのことだよ。わかるよね?」

「あー……」

 そっか。けど、何だよ。悪人じゃなくて、頭のおかしな奴か?

「俺、頭が悪いからそういう難しいことはわからないし、行きますんで、すみません」

 用瀬は再び去る動きをした。

「そう? まったく難しくなんてないし、そんなに急いでるわけじゃないならご飯をおごるけど、それでも駄目かな?」

「え?」

 マジかよ。うーん……。

「とりあえず話を聞くだけでもいいんなら……」

 用瀬は警戒心を解いてはいなかったが、最近とんと満たされていない食欲には勝てなかった。

「もちろんOKだよ。ただ、好きなものを食べていいけども、俺もそんなにカネを持ってるわけじゃないから、そこんとこはちょっと考えてくれよ」

 答えた菊池はほおをゆるめた。その笑顔は誰が見てもやはり善人にしか感じられないものであった。

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