名塚②

「はい。申し訳ございませんでした……」

 真弓が通話していた電話を受話器に置くと、ドアが開いた。

「行くよ。話し声が聞こえたけど、大丈夫?」

 部屋に入ってきた名塚範子は尋ねた。

「あ、はい」

 そして真弓と範子に男性二人を加えた計四人が、ワゴン車に乗って今いた建物を後にした。

 真弓はNPOで働いている。その事務所から出てきたのであり、範子が団体の代表だ。主に引きこもりやそれに近い状態の人が、就労あるいは就学できるまでのサポートをしている。真弓は過去に友人が外へ出られなくなったのがきっかけで、そうした活動に足を踏み入れたのである。

 この仕事を行ううえで必要なのは、なんといっても忍耐だ。まずは閉じこもっているところから普通に生活することができるように、そして働いたり学んだりの領域へ、という簡略化すると大きい山が二つあるなか、なかなか前進できない人もいれば、順調かと思いきや一気に元に戻ってしまう人など、もちろんたやすく現状から抜けだせるならば他人のサポートなど要らないわけだが、時間がかかると、本人に焦りや失望感が生まれたり、家族等からプレッシャーをかけられる場合もあるし、それらが目標への到達をさらに遅らせるときもある。

 一方で、急ぐのも好ましくない。そうすると、わからないようにしても、支援してもらっている人々は敏感に察知する。彼、彼女たちは、過剰なくらい真面目だったり優しかったりして、周囲に気を遣って自分を押し殺し、それが限界に達して、精神疾患を発症するなどした結果、社会から外れる立場になったというケースが多い。無理をせず、普通の状態で社会に復帰できるようにしなければ、やはりふりだしに戻ってしまうのだ。

 ただ、同じような活動をしている人たちと比べれば、自分は苦労は少ないんじゃないかと真弓は思っている。それは範子が非常に頼りになるからだ。

 範子のやり方は、特に当事者以外からの相談の場合は必ず、支援する相手にまず手紙を書いて、家族などを通じて渡してもらい、当人にコミュニケーションを行う許可を得る。そもそも他人に対する不安や不信感が強いためにこもる生活になっているのであって、いくら手助けする気持ちがあって、何かを無理強いするつもりはなくても、いきなり訪れれば嫌悪感を抱かれて、相当なマイナスの関係からのスタートになってしまうおそれが大きい。

 そして、「何かを薦めることはあっても、強要はしない。なぜなら、あなたが自分でやることを決めたり、できるようにならなければ意味がない。だから、あなたが許可を出さないならば会いにもいかない」と文面に記すのだ。もし手紙を受け取るのさえ拒絶されてしまったら、読まなくていいからと言付けしてもらい、圧力に感じさせない程度の間隔で定期的にその後も手紙を送り続ける。すると、現在の状態をどうにかしたいと最も思っているのはやはり本人であって、多くの場合手紙のやりとりから始め、顔を合わせてのサポートも受け入れてくれるようになる。

 会うことができても、すぐに就労や就学を目指すほうへは向かわない。先に手紙でも伝えておくが、まずはその人が人生は楽しいものだと感じられることを一緒に行う。そういうものがすでにあるならやればいいし、ないならいろいろ試してみて見つける。それが心の回復と今後のエネルギー源となるからだ。プラス、臨床心理士の協力を仰いだりしながら、ストレスに対処できる考え方や行動を身につける。

 そうして普通に生活するのは問題ないレベルまで達して、いよいよ働いたり勉学に励んだりとなるわけだけれども、ここの段階ですごく苦労する人も当然いる。その原因の多くが、人間関係だ。元々性格的に他人に対して不安や緊張を感じやすかったり、以前に職場や学校でいじめに遭ったことが現在の状態になった理由であったり。

 また、彼らのように仕事をしていない相手に、働く重要性や意義などを説きたがる人は大勢いるが、これは大概意味がないし、逆効果になる可能性も高い。もし働くことを軽く考えていたとしても、働かなければ経済的に困ったり、社会的信用を失ったりするわけで、そういう人は職に就いたうえでサボるなど、楽に仕事をこなす術を考えるはずである。まったく働かないというのは、先に記したような対人不安があるか、働くのは立派だし大変なことであって、駄目な自分にはきちんとできないのではないか、だから会社や同僚らにひどく迷惑をかけてしまうかもしれないといった、軽く考えているどころか反対に重く考え過ぎているゆえ回避するのであり、仕事をする重要性や意義の話は「やっぱり自分が働くのは無理だ」とさらにハードルを上げてしまうからだ。そして、働くことを重く考え過ぎているのも、迷惑をかけてしまうということは結局、人間関係に不安や原因があると言えるだろう。

 ワゴン車が一軒のマンションの前で停まった。

 これから真弓たちが会うのは、三十代の辺見という男性で、過酷な長時間労働などによって会社を辞めている。

 四人が訪れた、その彼の自宅に入ってまもなく、範子が口を開いた。

「こちらが八代さんです」

「どうも、よろしくお願いします」

 真弓たちとやってきた男性のうちの一人が、そう言って頭を下げた。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 辺見も同じようにおじぎをした。

「フフフ、まるでお見合いですね。まあ、よくそんな感じになっちゃうんですけどね」

 範子の明るい一言で、場の雰囲気が和らいだ。

 車で来たもう片方の男はNPOのスタッフだが、八代は辺見と同様に支援を受けており、これから働こうという立場なのである。

 仕事をしていない人の就労を後押しする方法として、このNPOが行っているのは、述べたように人間関係の心配が大きいことを踏まえて、いわゆる引きこもりやそれに近い状態にあった彼ら複数人を同時に雇ってもらえる会社を探して、承諾してくれたところを紹介している。

「いくら不安が大きくても、何人かで一緒に働き始めるなんて、子どもの習い事や部活じゃないんだから」というふうな否定的なことを言われるときもあるけれども、友人や兄弟などで学生時代から何をするにも行動をともにし、一緒に商売を始めるといったケースもあるのだし、あくまでも最初の不安を少なくする目的であって、職場や仕事に慣れてしまえば、入社した者同士いつまでも近くにいなければ駄目などということにはまずならない。性格は真面目で人一倍働き、会社への貢献度が高い人も多いため、親切心よりも良い人材を一度にたくさん得られるというので、その申し出にOKをくれるところは着実に増えているのだ。そうして承諾してくれた企業に、働きたい意思の人が複数に至ったら、その旨を伝えて面接などを行う運びとなるわけである。

 やってきた四人は現在、辺見宅のダイニングテーブルの椅子に腰かけている。

「わあ!」

 真弓が歓声をあげた。

「お待たせしました」

 辺見がキッチンから実においしそうな食事を運んできたのだ。

 今日は辺見と八代の顔合わせがメインだが、範子の誕生日でもあり、辺見がこれまでお世話になった感謝の印に得意な料理を振る舞いたいということで、彼の自宅に招待するかたちになったのである。

「お口に合うかわかりませんが」

 辺見が照れた様子で四人に言った。

「ほんとおいしそう。早く食べたいな。辺見さんも座って」

 範子が言葉を返した。

「はい」

「でも、範子さんの誕生祝いでもあるのに、ケーキがありませんよね。俺、買ってきましょうか?」

 男性スタッフの襟口が訊いた。

「いいの。要らなかったんだよ。私、そんなに甘いもの好きじゃないし、ロウソクの数で歳がバレちゃうから」

「えー。そんなの気にしない人だと思ってましたけど」

「まあ、確かに、そこまで気にしてはないけどね」

 そこで辺見が口を挟んだ。

「私が一番得意なのが和食だとご存じで、それが食べたいからケーキはいいとおしゃってくださったんです。しばらく働いていなかったわけで、できるだけ出費しなくていいようにとのお気遣いだと思います。名塚さんの心配りには本当に感謝しておりますし、そんなところまでよく気がつくなということが多くて、驚きさえしますよね」

「ま、ま、ま。とにかく、いただきましょう」

 範子が半分照れたように言った。

「あ、ちょっとお待ちください」

 辺見が離れていき、すぐに何かを手に戻ってきた。

「ですが、やっぱりケーキも用意しました。せっかく気を遣っていただいたので、小さいものですけども」

「まあ」

 範子はおどけた感じで驚いて笑顔になった。

「これだとロウソクは年齢分は挿せないから、いいですね。辺見さんも素晴らしいお気遣いじゃないですか」

 真ん中に一本だけ立っているロウソクを見て襟口がしゃべった。

「あら、襟口くん。今日で私は一歳になるのよ。バブバブー」

 一瞬の静寂の後で、皆は爆笑した。

 八代も、一番控えめだが、心から笑っていた。彼は二十代後半で、対人恐怖症気味であり、職歴はアルバイトを何度かやったことがある程度だ。サポートを受けてかなり良くなったものの、初めての人や場面にはやはり不安が強く、この日もずっと緊張した面持ちだったが、だいぶリラックスできた様子だ。

 つけたロウソクの火を吹き消した範子は、全員にお茶の入った湯のみを持つよう促した。

「じゃあ、みーんなの幸せを願って、かんぱーい!」

 他の面々が後に続いて声を発した。

「かんぱーい!」

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