田中伊知子④

「例えば、座席が一つしかなくて、自分が座りたいと思っているその席に、他にも座りたがっている人がいて、交替で座るのは不可能といった場合は、どちらが座るかを何かで競い合って決めるのが望ましいときもあるだろう。しかし、どこかの国の経済状態がひどくなると、その影響で世界各地の経済が同様に悪化し、反対にどこかがすごく良くなると各国の経済も好転するように、他人に良いことがあると波及効果で自分にも恵みがあり、他人に悪いことがあると自分の苦しみにつながってしまうということが少なくない。いや、大半の人がおそらくそう思っていないだろうが、実際は、競争によるレベルの向上や、誰かが脱落することで自分に喜ばしい結果がもたらされるケースよりも、そうしたウインウインなかたちで物事が良くなったり得をするほうが、それももしかしたら圧倒的に、多いのかもしれない。悪いことが反面教師となって良くなるなどという場合もあるにはあるが、人間がそんなに的確に学習してプラスにできる器用さを持ち合わせているならば、とっくに世の中は平和になっているはずであろう。優しくされたほうが、そのしてくれた相手だけでなく別の人にも優しくしようと思うものだし、だから親切や善行は積極的に行うべきなのだ。倫理的にはもちろんだが、損得のみで考えたとしても、やる価値は大いにあるのだから」

 今日、夫がしゃべっている相手は、社会人になってまだ日が浅いといった感じで若い、サラリーマンふうのハンサムな男性だ。

 その人と顔見知りでないことはほぼ間違いない。知っている人でまともに話を聴いてくれるのなんて、植田さんの奥さんしかいないのだから。すべて見てるわけじゃないから確実ではないけれど、夫もそれを自覚しているから、近頃は植田さんの奥さん以外の近所の人には話しかけないのだろう。

 うちの目の前の道は大通りではないが、人の往来はけっこう多い。にしても、よくああやって見ず知らずで得体の知れない中年男の語りに耳を傾けてくれる人を見つけられるものだ。ある意味感心する。以前は目にすることもあった、話しかけて無視されるところを最近はまったく見ないし、ずっとやっているうちに聴いてくれる人間を嗅ぎ分けられるようになったのか? だとしたら、くだらない能力を身につけたもんだ。

 夫も、話を聴いてくれているあの男性のようにスーツを着て、昔はまともに働いていたのだ。今も働いてはいるけれど、誰かに馬鹿にされたりすることなど決してない、立派な立場、十分な給料で。

 だからこそ結婚したのだ。でなければ、いくら私が他に結婚してくれる相手を見つけるのが難しい華のない女だからって、あんな人と結婚なんかするものか。

 あー、駄目駄目。そんなことを考えてもむなしくなるだけなんだって。

 ……はーあ。

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