山野④

「いや、人生というのは、何があるかわからないものだね。ずっと労働者の権利向上に尽くしていながら、僕自身は過労死するくらい働かされても転職なんてしないんじゃないかと内心思っていたんだ。それが、いろいろな企業で働くことになって、新鮮で楽しくて、ほとんどの会社は問題なく良い職場環境だから快適で、それでいて組合のメンバーからは感謝されて、なかにはいずれまた腰を据えて働く会社を見つけるのを手伝うと言ってくれる人もいて、という素晴らしい毎日を送ることになろうとはさ」

「ほんとに満足そうで、紹介してよかったよ」

 前回とは異なる店だが、またしてもおしゃれで落ち着いたレストランで、鳥居と後藤はディナーを食している。店を選んだのはもちろん後藤であるが、会おうと声をかけたのは鳥居だ。鳥居は食事の際、基本的に誰とでもきっちり割り勘にするが、後藤の選ぶ店は高級なところが多く、後藤が自分がチョイスしたのだからといつも多めにお金を出すのだけれども、今回はこれまでの支払いの差額を清算する意味合いも込めて全額払わせてほしいと鳥居が事前に頼み、後藤は気持ちをくんで承諾したのであった。

「しかし、組合員という点で考えるとやっぱり以前のほうが、なんてことはないのかい?」

「ああ、そういったこともないよ。今は単純に仕事を頑張って会社に貢献すれば、すぐに皆に見返りがあったりして、労働者のためになっている実感がある。それに、他の楽しみもできたんだ」

 すると、後藤は軽く引きつった表情になって、尋ねた。

「それはもしかして、今日のきみの格好と関係があるのかい?」

 いつもは別れたらどんなだったかまったく思いだせない地味なスーツ姿の鳥居が、この日はシルクハットのような帽子や蝶ネクタイなどを身につけており、ちょっとおかしな紳士、もしくはマジシャンとでもいった出で立ちなのだった。

「ビンゴ。きみは知っているかわからないけど、ワイワイ労働組合では、上からの命令のみならず、自ら必要以上に仕事を行っての長時間労働や過労死も、働くことをとにかく優先しがちな日本では多いだろうということで、メンバーに趣味を楽しむよう推奨しているんだ。だが、僕には趣味がなかったろう? それで代表の山野さんが愛する、アニメはいかがですかとDVDを貸してくれて、ハマってしまったんだよ。ちなみにこれは『ましゅ麿くん』という作品の、海原月彦というキャラクターを模したものなんだ。そして今口にした、『ビンゴ』が決め台詞なのさ」

「……ほう」

 後藤は困惑して、続けて発する言葉を見つけられなかった。

「月彦はロク太が憧れる名探偵でね。っと、いけない。そんなことを言われても、わからないし、困るよな。だけど機会があったら観てみるといいよ。僕も初めはアニメなんて子どもが楽しむものだろうと気が進まなかったけれども、予想に反して大人でも鑑賞に堪えられるどころか目を離せなくなったし、断言はできないが、アニメ作品はバリエーションが豊富で、気に入るものは必ずあると思うんだ」

「そうかい。じゃあほんとに、機会があったら観てみることにするよ」

 アニメ好きになるのは問題ないが、鳥居のまっすぐな性格からして、このコスプレのような姿など、手がつけられないレベルまでエスカレートしてしまうのではないかと後藤は案じた。それゆえ、あの労働組合を勧めたのはまずかったかなという思いもわき上がった。

 しかし、組合の活動以外にも心を満たすことができるものと出会えて非常に嬉しそうな表情の、目の前の鳥居を改めてよく見て、やっぱり紹介してよかったかもなと思い直した。

 もし歓迎できない域に達したら、そのときはまた助け舟を出せばいいのだし——。

 労働者に対してではないけれど、後藤も他者のために頑張ることに高揚感や達成感を覚えるタイプの人間なのであった。

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