山野③
後日、やはり他にやることもないしと、鳥居はワイワイ労働組合への加入を決めた。
肌に合わないと思ったら、また辞めればいいんだからな——。
そうして結果はどうだったかというと、ケチをつけるところはまったくなかった。
最初に聞いた説明の通り、無理強いされることなく、自分の意思で組合認定のホワイト企業の製品やサービスを利用した際に、その感想のアンケートの提出を頼まれるだけだ。
山野は当初から礼儀正しかったままの基本まともな人間だし、彼女以外の多くのメンバーとも顔を合わせたが、皆いい人であったし。
だけど……。
「鳥居さん、どうかされましたか? 先日お会いしたときも気になったのですけれども、今日はなお一層、表情が暗いようにお見受けするのですが」
「はあ……」
「お体の具合がよろしくないのでしょうか?」
「いえ、至って健康です」
「では、職場で何かあったとか?」
「何も」
鳥居は大きく首を横に振った。
「でしたら、当組合に問題でも?」
「はあ……まあ……」
「何かありそうですね。遠慮などなさらず、ぜひおっしゃってください。企業や社会を変えようとするだけでなく、私たち自身も好ましくないところは積極的に改善していこうという心積もりですので」
「いえ、その、不満というようなものはないんです。ただ、毎日が、何と申しますか……ほのぼのとし過ぎていて張り合いがないんです!」
涙は出ていないものの、泣きそうな表情で鳥居は訴えて、今回は山野のほうが唖然とした顔になって、目をしばたたかせた。
「以前所属していた労働組合では、会社側と闘うことを楽しんでいたわけではないのですが、ある種の使命感からの高揚感や達成感もあったんです。最近それをすごく自覚しているのですけれども。それが現在は、自分の行っていることが労働者の役に本当に立っているのか実感が乏しくて気持ちが乗らず、こんな精神状態でこちらのメンバーでい続けては、皆さんの士気を低下させ、ご迷惑になってしまうかもしれないと考えるようにもなってしまいまして」
山野は柔らかい表情を彼に向けた。
「そうでしたか。鳥居さんは加入されたばかりですので、まだ話しておりませんでしたけれども、他にも業務はございます。例えば、表向きではなく本当に労働者に優しい企業であるかを確かめるために、そこを退職された方への聞き取りや、事前にそういうことを行う可能性があると通達しているうえではありますが、覆面調査的にその会社で働いてみるであるとか、ホワイト企業になる意思はあるものの、現在の経営状態では難しい会社に対する相談や支援、利用した製品やサービスの改善や向上に役立てられるようホワイト企業に送付する、通常提出していただく感想よりも詳細でしっかりした内容の報告書を記したり、素晴らしい製品やサービスを多くの方にもっと知って購入してもらえるようウェブサイト等で紹介するために、こちらもより完成度の高い文章を執筆するであるとか……」
「今おっしゃられたの、やります! ぜひやらせてください!」
「ええと、申しましたなかの、どれでしょう?」
「本当にホワイト企業であるか確認するために、覆面調査的にその会社で働いてみるやつを、ぜひ!」
「え? ですが、鳥居さんは大手企業の正社員でらっしゃいますよね? それは無理ですよ」
「今の会社を辞めるくらい、どうってことはありません。私は親の代からの筋金入りの労働組合人間ですので」
「でも……」
「大丈夫ったら大丈夫です! 私は労働者のために活動するのが生きがいなんです! 一度組合を辞めて、はっきりわかりました。趣味など使い道もなく、これまで働いて得た貯金が十分ありますし、少々生活が不安定になるくらい、なんてことはありません。お願いします! ぜひともやらせてください!」
鳥居はこれでもかというくらい目一杯頭を下げた。
「そんな、頭を上げてください。本当にやっていただけるなら、こちらのほうこそありがたいです。では、よろしくお願いいたします」
そう言うと、山野も鳥居に負けないくらい深くおじぎをしたのだった。
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