山野①

「誤った情報じゃないのかい? 信じられないよ」

 毛先を遊ばせたヘアスタイルの後藤が言った。

「きみが労働組合を辞めただなんて」

「ああ。本当の話だ」

 対照的にきっちり整った髪の鳥居は答えた。

 広くはないが、上品で落ち着いた雰囲気のレストランで、その二人の中年男性が向かい合ってディナーを味わっている。すぐそばにある窓からは、東京の「これぞ都会」といった、きらびやかな夜景を満喫できる。

 他の席の客はすべて男女の組み合わせで、デートとみられるように、場所柄彼らもカップルと受け取られそうであるが、普通の友人の関係で、異常なほどのおしゃれ好きな後藤のほうが食事に誘って店を選んだために、そんな具合になったのだった。

「いったい何があったんだい? 僕が役に立てることがあるかわからないけれど、訳を言ってごらんよ」

 天然なのか、意識してやっているのか、後藤のしゃべり方は、相手が友達だというのに、芝居をしているように気取っている。気性が荒くて機嫌が悪い男性が目にしたら、鼻について「いけ好かねえ野郎だ」などとケンカを吹っかけられてもおかしくない態度だ。

「うん……世間に労働組合嫌いの人は多いが、そういう人たちの意見にもちゃんと耳を傾け、働く人みんなのため、活動する意味はあると思って、ずっとやってきたわけだけど、非正規の割合が労働者の半数近くにまでなるなかで、頑張れば頑張るほど正社員と非正規との格差が開くことに貢献しているという事実を受け入れられなくなってきたんだ。そもそも非正規がそこまで増えたのは、正社員を雇う負担感が大きいからに違いないしさ。それは法律や経営者側が考えるべき問題だと言う人もいるだろうし、非正規の待遇改善を優先している組合もあるけれど、本気でやるなら、ひとまず正社員の賃上げなどの要求はいったん棚上げするくらいじゃないと駄目なんじゃないか? 少なくとも僕はそう思ったけども、正社員だって現状では困る人がたくさんいて、そういった主張や行動をとるわけにもいかないし、どうすべきかわからない中途半端な気持ちで活動し続けることはできないと判断したんだよ」

「ほーう。相変わらず目を見張る真面目さだねえ」

 鳥居は外見からもその実直さや人の善さがにじみでている。腰が低くて善良な、典型的な日本のサラリーマンといった印象の男である。

「そんなことはない。組合には僕より真面目な人なんていっぱいいるよ」

「しかし大丈夫なのかい? 親の代からで、生粋の労働組合の人間という感じだったのに、辞めちゃって、きみのアイデンティティーというかさ。精神面は」

「確かにその通りなんだ。この先何に打ち込んで生きていけばいいんだって状態で、気持ちが滅入ちゃってるよ」

「やっぱりな」

 後藤はグラスを手にし、入っていた白ワインを口に含んだ。

「でも、安心しろよ。今日こうして誘ったのは、きみに元気がないことを見越して、おいしいものを食べさせてやろうっていうものもあるが、辞めた理由もそんなところじゃないかと想像がついていたんで、間違っていなかったら聞かせようと、いい話を用意してきたからなんだ。これを見ろよ」

 後藤は着ているジャケットの胸ポケットからメモを取りだし、鳥居の前に置いた。

「何だい? これは」

 その紙には、どこかの住所に、電話番号とメールアドレスが書かれてある。

「とある労働組合の連絡先だ」

「え?」

 今、辞めた話をしたばかりなのに、という表情を鳥居は見せた。それに対し後藤も、もちろんそれはわかっているさ、という顔をつくって応えた。

「労働組合は労働組合でも、いっぷう変わったところらしいんだ。きみに良さそうと思ったわけだけれど、説明はアポを取って足を運ぶなりして、直接受けるといいよ。僕だと誤った情報を伝えてしまう可能性もあるしね」

「でも、また労働組合というのは、やっぱりちょっと……」

「だからさ、一般的な労働組合とは違うようなんだよ。それとも、これから女のコがたくさんいる店に行って飲み明かすかい? それじゃあ絶対にきみの気持ちは微塵も晴れない、だろう?」

「そうだけどさ」

「なら、だまされたと思って、とりあえず話を聞くだけでもしてみてくれよ。せっかくきみのために探したんだからさ」

「……ああ。そうだね、わざわざありがとう。感謝するよ」

 くり返しになるが、後藤はキザで印象の悪い人間だ。しかし、少しでも近い間柄になると、誰に対してもすごく親切で気が利くために、女性にはモテるし、男性にも敵はいないのだった。

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