ツチノコまだ出ません
玉恵の絶叫に三男はひっくり返った。持っていたスイカは天井近くまで放り投げられ、畳の上に落ちて真っ二つになった。次郎は仏壇に頭をぶつけた。家の周りにとまっていたセミが、全て逃げたかどうかは分からないが、鳴き声は一瞬だけ止んだような気がした。
三男の鼓膜の奥に「あ!」が残響となってキーンと響く。キーンは頭の中をぐわんぐわんと周り、果たしてどちらの鼓膜からその音がするのかと考えている間に、後頭部の辺りで消えていった。
「あいたた……。なんだよ、急にでかい声出して」額を手で押さえながら、次郎が言った。
玉恵はそれに答えず、次郎にすすすと近づくと、耳元でこそこそと何かを言い始めた。チラチラと三男を見ているのは、明らかに聞かれて欲しくないのだろう。
しばらく怪訝な顔をしていた次郎だったが、その表情は次第に驚愕という言葉がぴったりな顔になっていき、目をカッと開いたと思うやいなや「えええっ」と驚いた。そしてやはり、「シッ、声が大きい」と大きな小声で玉恵に叱られた。
三男はふたりをじっと見ている。ふたりも三男を見ていた。お互いが見つめ合ったまま、妙に気まずい沈黙が流れた。アブラゼミのジーという鳴き声が徐々に小さくなり、代わりにミンミンゼミが鳴きだした。
玉恵は手のひらをぽんと叩いて「そうだったそうだった」と言いながら、そそそっと仏間を出て行った。次郎も玉恵にくっつき、金魚の糞の如く一緒に出て行こうとした。しかし、それは三男が許さなかった。
「遺言状! 遺言状あるよ!」三男が言う。
「え、ああ。遺言状ね、遺言状か」次郎は顎に手を当てて、眉根を寄せた。チラチラと見ているのは、玄関にいる玉恵の方だろう。何かしらの合図を送られているのか、小刻みにうなずいている。
遺言状、遺言状ねぇ。と何度も繰り返しながら、仏間をうろうろした。縁側に立って、空を見上げた。麦茶が入っていたコップを口につけ、あ、空っぽか、と二回言った。
「いやー、まいったね。遺言状ときたもんだ。こりゃ参りましたね」などとブツブツ言ったりした。
そんなことをしばらく続けた後、両手を大きく広げて「わああああああああ」と叫んだ。
三男は驚いてまたひっくり返り、次郎はそのまま走って仏間から出て行った。廊下をどどどっと走り玄関辺りでガシャンと何かが割れる音がした。玄関の外に出ても叫び声はずっと続いたままで、次郎が見えなくなってもしばらく聞こえていた。
どうなってんだこりゃ、どうしたもんかな。と三男は考えた。しかし、考えたところで当然なにか思いつくはずもなく、さっさと遺言状を見て帰ろうと思った。
仏壇の前に立ち、遺言状を手に取った。ところが、どうしても中を見る気が起きない。太郎も次郎も出て行ってしまい、残された遺言状がとても価値の無いものに見えてきた。
振り返れば、父親のジョン太郎が死んでいる。三男はなんとなく、遺言状をジョン太郎の額にぴしゃりと貼り付けた。まあだからといって、それでどうにかなるわけもなく、妙に遅れて眠気がやってきただけだった。
今夜は好きな子と一緒のシフトだし、一眠りして帰ろう。なんてことを考えながら、扇風機を近くに持ってきて、二つ折りにした座布団を枕に目を閉じた。
あー眠れる、これは間違いなく眠れるな。暑さよりも眠気が勝つのは久しぶりのことだったが、その眠気も負けることがある。
三男の意識が消えかけたとき、玄関から呼び鈴が鳴った。
目が半開きになったが、意識はまだ向こう側にある。ああ、また眠る。目が再び閉じ始めたそのとき「すみません」という声がした。声がしたのは分かるが、あまりの眠さに体が反応しない。するともう一度「すみません」という声が聞こえてきた。
「へい」と三男はなんとか声を絞り出し、返事をした。
「すみません」
「はい」今度こそちゃんと返事をした。
体を起こし、廊下に頭だけを出して玄関を見た。しかし、誰もいない。
おかしい、確かに声がしたのに。すると、また「すみません」と聞こえてきた。抑揚の無い、か細い声だ。
見れば、声がしたのは玄関の外からだった。曇りガラスが貼ってある引き戸にはうっすらと人影が見える。誰だろう、近所の人間で間違いないと思うのだが。
「すみません」
また同じ調子の声だ。男か女かも分からない。ガラスに写った人影も、かろうじて人の形が分かるだけで他に特徴が無かった。
「あの、どちら様ですか」三男は廊下に出て、訪ねた。
「すみません」
耳が遠いのだろうか、呼びかけには答えなかった。仕方なくたたきへ裸足で降りて、引き戸を開けようと手をかけた。
「すみません」
耳のすぐ側で声が聞こえた。
瞬間、体が固まり動けなくなった。
「すみません」
また、耳元で声。三男は背中に冷たいものを感じた。
カシャン、と音がした。見ると、全身が泥のように真っ黒の女がガラス戸にぴったりとくっついている。
「すみません」
カシャン。
「スピリチュアル」
カシャン。
「すみません」
ガラスに体を当てては同じ言葉を繰り返す。抑揚の無い声が、嫌悪感を抱かせる。それと一回、スピリチュアルって聞こえた気がする。
三男は考えても答えは出ないと分かっている、しかし、恐怖でそれくらいしか考えられない。
セミは相変わらずジージー鳴いている。外も明るい。ところが、この場所だけ寒く感じる。おかしい、何かがおかしい。
女は同じ言葉を繰り返す。ただ、ガラスに体を当てる音が少しずつ強くなっていた。
ガシャン、ガシャン、ガシャン。
音が鳴るたび、引き戸がガタガタと揺れる。
「すみません、すみません、すみません、すみません」
「うわあああ」
三男はついに耐えきれなくなった。目をつぶり、力いっぱい取っ手を引っ張る。
外の光と一緒に、むわっとした夏の空気が入り込んできた。
——三男がゆっくりと目を開けると、そこには誰もいなかった。
暑さとセミの声が聞こえるだけで、人がいた気配すら無い。残っているのは、薄ら寒い背中の気持ち悪さだけだ。
今のはいったい何だったんだ。引き戸を閉め、踵を返す。三男の目の前に、全身真っ黒の女がこちらを見て立っていた。
「うわああああああ」と叫んで三男は目を覚ました。
あれ、なんで自分が実家に?
そこでようやく、自分が寝ていたことを思い出した。しかし、あまりの現実感に安心できず、廊下に頭だけを出して玄関を確認する。当然、誰もいない。
そこでふと思い出した、今の夢の内容と、今朝読んだ小説の内容がそっくりなことを。
新幹線の中で読んだのだが、面白さのあまり一気に読んでしまったのだった。ホラー小説はいくつも読んでいるが、最初から最後まで止まらずに読んだのは初めてのことだった。まさかそれが夢に出てくるとは。自分にもそんな話が書けたらいいのに。三男はそんなことを思った。
ちらりと目をやると、中身の空っぽになった布団一式があった。
あれ、親父のやつトイレに行ったのか。声くらいかけてくれればいいのに。
あんな夢を見たせいで飛び起きてしまったけれど、まだまだ眠い。もう少しだけ寝よう。
三男は再び横になり、目を閉じた。そして眠りに落ちながら考えた。親父のやつ相変わらずトイレが近いんだよな。相変わらず?
そうだ、今日は久しぶりに実家に帰ってきたんだった。
あれ、どうして久しぶりなんだ。
ああ、そうだ。自分は家を十年前に飛び出したんだ。
飛び出してそれで、十年経って、親父が死んだから帰ってきたんだ。
そうだった、親父は死んだんだった。
親父は死んだ……。
三男は、光よりも早く目を開きこう叫んだ。
「親父がゾンビになっちまった」
ミーンミンミンミー
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