やっと始まります。あ、まだかも。
新幹線から在来線、私鉄へと乗り換え終点まで。バスに乗り、また終点まで。そこからしばらく歩いて、タクシーを拾う。運転手がこれ以上は車じゃ無理だよ、という地点まで行ってもらい、そこから徒歩で山道を進む。途中、村に向かう車がいれば運が良い。大体の場合乗せてもらえるだろう。しかし、運悪く誰にも会うことが無ければ、なんの面白みも無い山道を歩いて行くしかない。そうしてやっと着いたのが、山村という名前のとおり山奥にある小さな村だった。
山の谷底を這うように流れる川に沿って、細長く興った村である。ポツポツと家屋があり、その住民のほとんどが林業を営んでいるが、稼ぎを使うような商店は存在してない。自給自足とほぼ変わらない生活をしており、数ヶ月に一度だけ山を超えて買い物に出かけるような具合だ。
まあ所謂、過疎化した山奥の村だ。
川には三つの橋が架かっていて、上流から上橋、中橋、高橋という。なぜ三つ目の橋は下橋ではなく高橋なのかというと、それには諸説ある。高橋という男が一人で作ったという説や、嵐を鎮めるために人柱になった男が高橋という名前だったという説もある。しかし、もっとも有力な説は、上橋、中橋、下橋では芸が無いしつまらないということで、冗談として高橋にしたのではないかということである。
中橋の側には一見すると掘っ立て小屋にしか見えない集会所があり、回覧板も兼用している掲示板が建っていた。内容のほとんどは、行方不明者の捜索情報の張り紙である。ここら一帯は、昔から神隠しの噂が多く、よく人がいなくなるそうだ。三男は掲示板を見つめながら、相変わらず気味の悪い村だと思っていた。
午後三時をまわろうかという時間、太陽はまだまだ高い位置にある。東京ではそこら中から人の会話が聞こえてくるが、ここで聞こえてくるのは、セミと上空を旋回するトンビの鳴き声だけだった。山から吹き下ろす風が、湿気と熱気によって不快な塊となり、三男の体にぶつかってくる。着ているグレーのシャツは、汗で濡れて、ダークグレーに染め上げようとしていた。暑さからにげようにも、ここにはコンビニも何もない。せいぜい木陰に入るくらいである。
中橋から上橋の方に向かって歩き、そこからさらに上流へと道沿いを進むと、三男の生家である大鼠家が見えてきた。村では一番大きな建物であり、見るからに地主という感じがする。恐ろしく大きな茅葺きの屋根が建物のほとんどを覆っているので、正面から見ると地面から屋根だけがボコリと生えてきたようだ。見慣れない車が駐まっているのは、兄たちのものだろう。
玄関前で脱帽し、一礼してから中に入った。線香の匂いにすぐ気がつく。ずらりと並んだ靴を見ると、正月を思い出したが家の中はしんと静まりかえっていた。靴を脱いでいると、仏間と広間に面している廊下横の障子が開き、兄の太郎が出てきた。もみあげと眉毛のしっかりした、顔の大きな男である。
顔を合わせるのは十年ぶりだったが、別段、久しぶりの挨拶もせず三男が言った。
「親父は?」
「今朝、死んだよ。お前に電話した後、すぐだった」
それなら急いで帰る必要も無かったなと思いながら、仏間に入ると、線香の匂いはさらに強くなった。開け放った縁側に座って、次男である次郎、その奥さんである玉恵がいた。二人とも、コップに入った麦茶をすすっている。四皿分の食べ終わったスイカが、傍らにあった。鼻の横に大きなほくろがあり、それを気にしているのが次郎で、じとっとした目をこちらに向けているのが玉恵だ。
「おう、着いたか。親父もう死んじゃったよ」
「おかえりなさい三男さん。スイカ食べる?」
いや、これがあるから大丈夫と、バッグからコーラを取り出した。完全にぬるくなったコーラを一口飲み「やっぱり貰おうかな」と言った。
微笑しながら返事をして、玉恵は仏間を出て行った。
仏壇の前に敷かれた布団の上に、父親であるジョン太郎が横たわっていた。すでに真っ白な死に装束になっている。無駄に立派で腹の立つあごひげは、だらりと横にしおれていた。
「もう色々と済んでる。明日には墓の中だってよ、早いもんだよ」
「親父は、何か言ってた?」
「いつも通りなにも。倒れてからもずっとむっつりしててよ、意識が無くなってもむっつり、死ぬ直前までむっつり、死んでどうだと思ったらやっぱりむっつりしてるよ」
「もしかしたらとっくに死んでたのかもしれないな」仏間に戻ってきた太郎が笑いながら言った。
さっき死んだばかりだというのに、誰も悲しむ者がいないというのはなんとも悲しいものだ。生前、人から好かれ人望があり、暗いことが嫌いな人物が亡くなった場合に、周りの人間が明るく送ってやろうというのは多々あることだ。しかし、このジョン太郎の場合は決してそんなことではなく、単に人望が無く、亡くなったとて誰も悲しむ者がいなかったというだけである。
「で、俺が帰ってくれば何か見られるものがあるんだろ」
三男はあえて、遺言状という言葉を使わなかった。金目当てで帰ってきたのは間違いないが、金目当てだと思われたくない。三男は眉根を寄せながら、指で空中に謎の計算式を書き、首をかしげては「あれ?」とか「おかしいな」とか言っていた。
「それじゃあ揃ったことだし見てみるか……」
にっこりと黄ばんだ歯を見せてから、太郎は仏壇に置いてあった、白い封筒を手に取った。表には、筆字で遺言状と仰々しく書いてある。裏返すと「兄弟が揃ってから開封せよ」と、これまた筆字で記してあった。
「——じゃあ、開けるぞ」
太郎は目だけで次郎を見、そして三男を見た。それを今度は三男を見てから次郎へと視線を動かし、もう一度、次郎、三男へと視線を動かした。そんなことを何度も繰り返したが、ふたりはいつまでも太郎をじっと見ているだけで何も言わない。いつの間にか戻ってきた玉恵は、スイカを持ったままその様子をじっと見ていた。太郎はいよいよ我慢できなくなって、
「なんか言えよ。遺言状をいよいよ開けるぞって言ってんだから、なんか言えよ」と、怒鳴った。
「ああ、ええと。よし、じゃあ開けましょう」次郎は拳を握って、ガッツポーズをしてから三男を見た。
「あ、うん。あの、そうだね、よっしゃ」三男もつられてガッツポーズをした。玉恵もした。
「じゃあ、今度こそ本当に開けます」
太郎が遺言状の封を切ろうとしたその時、廊下をバタバタと誰かが走ってきた。勢いそのままに仏間へと飛び込んできたのは、太郎の嫁である純だった。どこから走ってきたのか、長い髪の毛はボサボサになり、顔は真っ赤である。肩を上下にしながら、荒い呼吸をしていた。
「ちょっと」純が太郎を手招きした。
「あ、今から遺言状を開けようかと思ってるんだけど」
「いいから、ちょっと」
純は、太郎を無理矢理ひっぱって部屋の隅へと移動した。
「ちょっとちょっとちょっと。今から遺言状をだね」
「ああもう、それはいいから」言って、太郎に耳打ちをした。
三男たちが、何事かとふたりを見ていると、
「ええっ」驚いて太郎が飛び上がった。
「ちょっとアンタ、しっ」バシッと太郎を叩きながら、大きな小声で純が言った。
ふたりは後ろを向いて、こそこそと何かを話し始めた。
「ねえ、何かあったの?」次郎が言った。しかし、太郎と純はこちらをチラリと見ただけで、再びこそこそ話しはじめた。そして、お互いが小さくうなずいた。
「あのー、あれだ。あの、ヨネ婆さんに明日の段取りを聞いてくるのを忘れてた。忘れちゃってた。あははは……。ちょっと行ってくるわ」
太郎と純は、不自然なほど早歩きで仏間から出て行こうとした。
「え、遺言状はどうするの」次郎が言う。
「そうだよ、そのために帰ってきたんだけど」三男も言った。
「あ、ああ……。あ、じゃあ先に見といて。俺は後でいいや」
「そうはいかないよ。兄弟が揃って見るって話なんだろ?」
「そうだよ、そのために帰ってきたんだから」
「だから、兄弟は揃ったじゃん。揃ったんだから見ていいじゃん。たとえ俺がいなくても、見ていいじゃん。揃ったのは事実なんだから。じゃあ、これよろしく」太郎は遺言状を次郎に渡して、さっさと出て行こうとした。
「いや、ちょっと待てよ」次郎が太郎の肩を掴むと、「うるさい! うるさいんだよ!」と太郎は突然叫びだし、地団駄を踏み始めた。
「遺言状なんてな、もうどうでもいいんだよ! どうでもいいんだ! なんだよ遺言状って! 遺言状? 知らないよそんなもの! もう帰る!」
太郎はこれでもかと目を見開きながら、他にもバカとかアホとか田舎者とか言いながら、怒って出て行ってしまった。
「なんなんだよ」と次郎。
「なんなんだろうね」と三男。
「なんなんでしょうね」と玉恵。
次郎は遺言状に視線を落としてから、三男の顔を見た。三男も、同じことをして次郎を見た。玉恵はふたりの顔を見た。
「どうする、これ」
「どうするって言っても、ねえ」
「あ、私は兄弟じゃないから」
次郎はひとまず、遺言状を仏壇に戻した。見てもいいと言われたものの、そう言われると見る気が起きないのだろう。
三男は、縁側に座ってスイカを食べ始めた。種が多いな、でもそれがスイカの良いところだよな。なんてことを考えていると「あ!」という、玉恵の大声が仏間に広がった。
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