てらてら夏

中野半袖

え、なんですか? プロローグ? ……知らないなぁ。

 コンビニの夜勤が終わった。昨日の蒸し暑さは、まだ残ったままだ。東京、高円寺の通りは朝五時だというのに、たくさんの人が歩いている。飲み屋が多いというのもあるだろうが、暇な人が多いというものあるのかもしれない。自転車に乗った警官も、顔全体を口にしてあくびをしていた。

 半袖シャツのサラリーマンが地獄のような顔をしながら、せかせかと駅の方へと進んでいく。男か女か分からない、大仙人みたいな老人が、明けたばかりの空を見上げている。プリプリした女が、プリプリ歩いている。大鼠三男は、そんな人たちの間をぬって自宅に向かっていた。

 道のど真ん中で、酔っ払い数人が騒いでいる。三男は、それをちらりを見ては開けたての五〇〇ミリリットル入りのコーラを飲んだ。店を出てからまだほんの数分しか経っていないのに、ペットボトルの表面にはびっしりと水滴が張り付いている。三男の額にも、同じような汗がじわじわと染み出てくるのがわかった。

 交差点を二つ越え、脱帽し、アパートの玄関を開ける頃には、飲み干したコーラが汗に変わっていた。暑苦しい室内を歩きながらTシャツを脱ぎ捨て、だいぶ古いクーラーのスイッチを入れた。ごんごんと今にも止まりそうな音を出しながら、外よりはましだと思えるほどの頼りない冷気が漂ってきた。冷風の直撃ポイントでしばし、ぼーっとする。コンビニで廃棄になった菓子パンをかじったあと、シャワーを浴びた。

 畳の上に腰を据えて、書きかけの小説に手をつけたのは午前六時をまわろうかという頃だった。昨日までの分を頭から読み、話の続きを考える。おおまかな下書きはあるのだが、いざ書こうとすると細かい部分ばかりを気にしてしまい、話が一向に進まないでいた。それでもとりあえずペンを握り、原稿用紙に一文字目を書き付けた。頭に浮かぶまま二文字目を書いている途中で、電話が鳴った。けたたましいベルの音が部屋に充満する。苦情を恐れて、慌てて受話器を持ち上げた。こんな時間に誰なんだ。

「……はい、もしもし」

 すると、受話器の向こうから返ってきたのは懐かしい兄の声だった。久しぶりの挨拶も無しに言われたのは、父親の危篤の知らせだった。かなり悪いらしく、今すぐに帰ってこいという。

 しかし、三男は拒否をした。正直、父親のことなどどうてもいい。「悪いけど、帰るつもりはないよ」そう、はっきりと言った。ところが、向こうは帰ってこいの一点張りで、取り付く島もなかった。とにかく帰ってきてほしい。百歩譲って父親のことはいい、それでも帰ってきてほしい、ということだった。いったいどういうことだ。危篤だから帰ってきてほしいのではないのか。

 これ以上話していても仕方ない。三男は、電話を切ろうとした。しかし、架台に触れかけた受話器から聞こえた言葉に、手が止まった。

「遺言状がある」

 三男は再び受話器を耳にやった。もう会うこともないだろうと生家を飛び出したが、遺言という言葉の重みには反応してしまった。そういうものにはいったい何が書いてあるのだろうか、という興味も沸いた。

 話を聞くと、父親の遺言を見るには兄弟が三人揃う必要があるらしかった。なるほど、長男と次男は向こうで暮らしている。そういうわけで、今すぐに帰ってこいということだった。話しぶりから、父親が助かる見込みは無さそうだった。

 お前にもいくらかの遺産が入るだろう、という兄の声は、どこか周りを伺っているような気配を感じた。父親は田舎の大地主だ。そう思うと、少ないとは言えないほどの金額かもしれない。

 悪い話では無いと思った。小説に集中できるまたとないチャンスかもしれない。それに、田舎に行けば面白い着想があるかもしれないとも思った。三男は了承し、電話を切った。

 冷蔵庫からコーラを引っ張り出し、蓋を開けた。さっき脱いだズボンに脚を通し、近くに落ちていた穴だらけの靴下をはいた。コーラを飲みながら、財布と部屋の鍵をズボンのポケットに入れる。古本屋で買った小説を適当にバッグに放り込み、コーラに蓋をした。着替えも、と思ったが今日中に帰れないこともない。クーラーは稼働限界の一時間を超えたので、自動的に止まった。

 三男は脱帽してから玄関扉を開け、一礼してから扉を閉めた。

 純情商店街を、社会人の流れに沿って駅に向かう。さきほどの酔っ払いのひとりが、電柱の横で眠っている。誰も気にかける者はいない。男か女か分からない大仙人が喫煙所で、美味そうにタバコを吸っていた。

 高円寺駅から中央線に乗って、東京駅へ。安くない切符を購入し、新幹線に乗り換えた。

 自由席の窓際、夜勤明けだというのに妙に目が冴えている。バッグに手を突っ込み、最初に触った小説を取り出した。読んでいるうちに眠くなるだろう。少しでも寝ておこうと思った。ところが、小説が面白い。まるで眠れる気がしない。めまぐるしい展開、それでいてリアルな描写。ページをめくる手が止まらない。

 新幹線も止まらない。

 眠気を部屋に忘れてきてしまった。

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