5 たぬき、化ける
夜。八雲に通る者はいないといわしめた紀国坂に再びやってきた私たちは、へとへとに疲れていた。
都会には金を払わずに座れる場所が少なすぎる。金を払って座席で映画を観ていた夢は、続けて同じ映画を三本観たせいで軽いノイローゼになっているようだった。私とみずきは中華料理屋を出てそのへんをぶらついていたが、ゆっくりできるような場所が見当たらず、日が暮れるまで延々ぶらつき続けるハメになった。
「よ、ようし、じゃあ逆むじなを捕まえてさっさと帰るぞぉ……」
夢の覇気のないかけ声にめいめいが反応したりしなかったりする中、しぐれがひとり坂を上っていく。
しぐれは坂の中程で立ち止まり、うずくまる。
これは私とみずきが有り余る時間を使って練った作戦だ。
名づけて、「逆には逆の、逆むじな作戦」。
向こうが逆むじななら、こっちだって逆むじなで勝負に出る。どういうことかというと、しぐれが八雲の『むじな』に出てくる女中と同じ行動をする。幸い、しぐれは普通の人間には見えない。これに釣られるのは、しぐれを認識できる限られた人間か、しぐれの身体を奪った妖怪だけだ。
しばらくすると、紀国坂を上ってくる人影が現れた。顔は確認できない。『むじな』でも話している間は普通の顔だった蕎麦売りが顔を撫でるとのっぺらぼうになったので、現時点でのっぺらぼうではなくても、むじなである可能性はある。人影はうずくまっているしぐれに気づき、声をかける。
「もし。お女中。お女中」
声が聞こえてきて、私たちは当たりを確信する。見事にむじなが幽霊に引っかかる、逆むじなの成功だ。
「気をつけなよ。相手も『むじな』の文脈を利用している」
夢が声を潜めて忠告する。私たちのほうから『むじな』のシチュエーションを作っておいたが、相手はそれに乗っかってきている。本来の逆むじなは自分のほうだと主張するかのように。
しぐれがすっと立ち上がり、相手に背を向けたまま動きを止める。
「ねえ、ここからどうするの……?」
「考えてなかったな。しぐれちゃんのアドリブに任せるしか……」
逆むじな作戦の発案者にあるまじき会話をしている私とみずきの心配をよそに、しぐれは腕で顔を隠しながら声をかけてきた相手へと振り返る。
ぱっと、閃光が走った。しぐれは隠し持ったスマホのライトを点け、その光を相手の目に向けた。ぽん、と鼓のような音がして、しぐれの背後に立っていた人影は一瞬で消えてなくなる。しぐれは虚空に向かって手を伸ばし、消えていく霞を抱き寄せる。
『むじな』に声をかけた商人は、蕎麦売りの提灯の灯りに誘導されて再度のっぺらぼうに出くわす。しぐれはその話を覚えていたのだろう。泣いている女から、逃げた先の蕎麦売りへと、灯りという装置を使って場面をショートカットした。そしてクライマックスは、灯りが消えてなにもなくなる――。
「うらら、はよして」
こちらに向かって駆けてくるしぐれの胸の中には、ハクビシンの鼻のライン、タヌキの顔の模様、アライグマのしましま尻尾をした動物が収まっていた。暴れる様子はなく、観念したかのようにうなだれている。
私はしぐれに言われて、やっと自分の役目を思い出す。リュックサックから亜流途戸路仁を取り出して開き、自然にページが開くに任せる。勝手にページがめくられていく亜流途戸路仁がぴたりと動きを止め、しぐれの胸の中のむじなが開いた
そこに現れた絵には、先ほどの異獣と同じ特徴を持った妖怪と文章が描かれていた。
夢に翻刻してもらった内容は以下のようなものだった。
狸
唐土に
「すごいよこれ! おそらく最も古いしましま尻尾のタヌキイラストだ!」
タヌキがイラスト化される際、尻尾がしましま模様に描かれる場合は多い。それはアライグマの特徴的な尻尾と混同されるために起こるのだが、その起源をどの程度遡れるのかはまだわかっていない――というようなことを、夢は早口でまくし立てた。
「しぐれ、身体のほうはどう?」
私がたずねると、しぐれは首を傾げて唸った。
「わからん。特に変わった感じはないんやけど」
「まあ九十九分の一だからなー。とりあえず今日は解散にしようよ。うらら、腹減ったからどっか付き合って」
「わかった。夢……ちゃん。ありがとう。おかげで一体捕獲できた」
「あ? うん。またねー! 明日もよろしく!」
そうだった。しばらくは秋葉原店を拠点に、都内で確認されている亜流途戸路仁妖怪収集が続くことになっている。
今はとにかくどこかに腰を落ち着けたい。
紀国坂を下りながら、私たちは明日の筋肉痛の心配をしていた。
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