2 しぐれ、名乗る

 亜流途戸路仁。

 それは伊勢屋本店が秘蔵する、妖怪画集である。

 伊勢屋はこの本を決して公開せず、存在も秘匿され続けてきたが、一部ではまことしやかに噂が流れていた。

 その本には半丁いちページごとに九十九体の妖怪が描かれており、妖怪の姿と名前が記されている。

 問題は、その妖怪の姿と、名前にある。

 噂の中で真っ先に名前が挙がるのが、「ぬりかべ」である。

 ぬりかべは柳田國男の「妖怪名彙」で紹介されたものが広く知られており、より人口に膾炙したものとして、水木しげるが柳田を参照し、『墓場の鬼太郎』『ゲゲゲの鬼太郎』に登場させたキャラクターが知られている。

 巨大な壁に目と手足がついたぬりかべは、六期にわたりテレビアニメ化されてきたこともあって今では知らぬ者のほうが少ないとまで言える。

 一方で、もうひとつ、ぬりかべとして知られる画像が存在している。

 2007年、アメリカのブリガムヤング大学が所収する妖怪絵巻の中に、「ぬりかべ」と名前が書かれた三つ目の白い犬のような妖怪が発見される。同様の絵巻自体は国内でもすでに発見されていたが、そちらには名前は書かれておらず、妖怪の姿も類例のないものであったため、詳細不明の妖怪とされていた。「ぬりかべ」の名前が与えられたこの妖怪は、時の流れとともに「妖怪ぬりかべの本来の姿」という言説のもととなってしまっていた。

 そして亜流途戸路仁には、この三つ目の犬のような妖怪が「ぬりかべ」として描かれている――という噂が流れていた。

 民俗語彙としてのぬりかべが採集されたのは昭和になってからであり、「妖怪名彙」のぬりかべとブリガムヤング大学の絵巻ぬりかべが同一の存在であると断定できる材料はまったく存在しない。名前が同じだけでまったく異なる性質のものである可能性のほうが大きいとさえ言える。

 絵巻ぬりかべは存在が一箇所にしか確認されておらず、これが当時――跋文には享和二年(1802年)と書かれている――民間にも知られていた妖怪であるという保証すらない。

 だが、まったく別の妖怪画集に同じデザインの妖怪がぬりかべとして描かれていたとしたら――話は大きく変わってくる。

 亜流途戸路仁が公開されれば、妖怪の歴史は大きく変容する。狩野派でも土佐派でもない絵で、画像情報しか存在しない妖怪が名前を伴い、名前だけしか確認されていない妖怪が絵を伴い、大量の情報をもたらすだろう。間違いなく妖怪のミッシングリンクでありマスターピースとなるこの本を、喉から手が出るほど欲しがっている者はいくらでもいる。

「――というわけでゲスな」

 長々とした説明を盗んだ当人から聞かされた私たちは、唸ったりうなずいたり顔を顰めたりと様々な反応を見せる。

 そんなご大層なものが伊勢屋の蔵書庫に眠っていたというのは初耳だった。みずきなら知っていたのかもしれない。あの子も相当な妖怪好きだ。

 ではなくて。

 なんで亜流途戸路仁という伊勢屋秘蔵の書物を盗みだそうとした泥棒から講釈を聞かされているのかというと、この泥棒がどうやら一番事情に詳しそうだから――と伊勢屋会長の父が発言の機会を与えたからだ。

 伊勢屋本店ビルの上階にある応接室で、黒鵜さんやガードマンが厳しく目を光らせる中、客用のソファに座った泥棒と、その向かい側に座った父。私とギャルは、ソファから五歩ほど離れたところで静かに話を聞いていた。

「そういった理由で私どもにコンタクトをとろうとしてきた集団には心当たりがありますね。あなたもその一員ですか?」

「吾輩はあちこちに顔は利くのでゲス」

 どんな泥棒だ。

「――妖怪優生思想」

 泥棒の表情が強張る。

「そうでゲスな。吾輩は妖怪優生思想のひとり、うたげと名乗っている者でゲス」

「その通り名コードネーム、どうやら間違いないようですね。協力を仰いでも?」

「請け負うでゲスよ。吾輩のせいで貴重な妖怪をみすみす逃がしたとなれば、合わせる顔がないでゲスからな」

 立ち上がった父は泥棒と軽く握手を交わす。すぐに手を離すと私のほうを振り向き、白紙になった和綴じ本を差し出してくる。

「うらら。君にはこれからこの本から抜け出した九十九体の妖怪を回収してもらいたい」

 意味がわからず固まっている私に、安心しなさいと父は穏やかに言う。

「伊勢屋全店が全力でサポートに回るし、妖怪の専門家集団との協力も取り付けた。うららはただ散らばった妖怪のもとに赴き、この本の中に妖怪を取り戻すだけでいいんだ。急げという必要もない。そうだな、伊勢屋の各店舗の視察も兼ねて、というのはどうだろう。経営者としての経験も重ねられるいい機会だ」

「会長っ、お嬢様にそんな危険なことは――」

 見かねた黒鵜さんが口を挟むが、父がにこやかに睨みを利かせると途中で言葉を呑み込む。

「この本は本来伊勢屋当主だけに閲覧が許されている。持ち出すことも同様だ。今は白紙になっているとはいえ、これを頼めるのはうららしかいないと、私は考えているよ」

 それに――父は私の右隣に目をやる。

 ギャルが立っているのは私の左隣だ。

 やはり――。

「事故に巻き込まれたというお客様への対応もしなければならない。私には見えないが――」

「吾輩は『視える』ので確認できているでゲスよ。吾輩が亜流途戸路仁を開いた時に飛び出した妖怪たちが、彼女の肉体をバラバラに持ち去っていってしまったのでゲス。彼女は今や生身の肉体を失い、生きたまま幽霊になってしまっている状態でゲス。元に戻すためには、肉体を奪った妖怪たちを亜流途戸路仁に回収し、肉体を取り返すしかないでゲスな」

「あんな」

 ギャルがおずおずと口を開く。私以外に反応した者はいない。泥棒には聞こえているのかもしれないが、あえて反応を示さないのか。

「ウチな、別にな、そんな困っとらんやんか。やからな、そのな、聞きたくないようなことをわざわざ聞くことなんかないんやに」

「え――」

「見た感じ、仲悪いんやろ? やりたくもないようなことを言われて無理矢理やるなんて、やったらあかんに。ウチはまあ、なんとかなるやろし」

 このギャル、この短時間で私と父の確執と、自分が人質に使われていることを見抜いている。

 でも、そんなの駄目だ。私の個人的な感情のせいで、なんの関係もないギャルの人生が失われてしまうなんて。その選択をしたら、私は一生自分を責め続けてしまう。

「名前を、聞かせて」

「えっ?」

「あなたの名前。これから長い付き合いになると思うから」

 ギャルはかなりの間逡巡していたが、一度私の目を見ると、意を決して口を開く。

「江馬しぐれ――やけど」

「ありがとう。よろしく、しぐれ」

 私は父に向けて手を差し出す。

「わかりました。引き受けます。ただし」

 父を睨み、亜流途戸路仁に手をかける。

「九十九体の妖怪をすべて回収したら、以後一切の干渉を行わないと約束してください。これが終わったら、ちゃんと縁を切ってくれると誓ってくれない限り、引き受けることはできません」

 黒鵜さんが白目を剥きそうになっている中、しぐれはどこかほっとしたように胸を撫で下ろしている。父は――相変わらずの柔和な笑みを崩さない。

「そうだね。すべての妖怪を回収し終わった時に、うららがまだそう考えているなら、それでいいだろう」

 父から差し出された亜流途戸路仁を受け取り、私は応接室をあとにする。

 すさまじい遠回りをすることになるが、少なくとも一歩は前進した。そう、信じることにした。

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