亜流途戸路仁 女ふたり、妖怪狩り
久佐馬野景
1 うらら、キレる
残念ながらその日の私は正気ではいられなかった。
大学四年生、最後の一年が半分終わろうかという秋、私は内定がひとつも決まっていないという現実に押しつぶされそうになり、その裏にあった恐るべき事実へと目を向けることとなった。
別段真面目な学生というわけではなかったが、ひとりだけ内定が出ないまま周囲がさっさと内定を決めて就活を終えていくのを見続けるのはかなり堪えた。私だけが特別に劣っていたり欠陥があったりするわけではないという周囲からの客観的な評価で励まされつつ、それでも自己肯定感はゴリゴリ削られていって、こんなにつらい行為をいつまで続けなければならないのか、と茫漠たる不安の中にひとりで突っ立っていた。
周囲はそんな私に向かって、でも、と明るく励ましらしき言葉を口にした。
――でも、
伊勢屋は全国規模のいわゆる新古書店チェーンで、テレビでも頻繁にコマーシャルを流している。もともとは長く続いていた地方都市の古本屋だったのが、先代が一念発起して事業を拡大。「本と言ったら伊勢屋」「ゲームもおもちゃも伊勢屋」「同人誌の取り扱いなら伊勢屋」などのキャッチコピーは今では誰もが知るものとなっている。
私はその会長のひとり娘であり、伊勢屋は古本屋時代から家業として続いているために、一族経営が当然のものとされている。
就職が決まらなくても、将来は安泰。そう思われていることが苦しくて死にそうだった。
私が家業を継ぐということは、すなわち婿を取って社長夫人として暮らすということにほかならない。どこの誰とも知らない、家柄と財産と経営手腕を持った男と強制的に結婚させられることになる。
それが絶対に受け付けないから、私は必死に就職活動を続けていた。
だが、ここまでお祈りを続けられている以上、ほぼ死に体であることは自分でも理解しかけていた。
「いやいや、さすがにおかしいでしょ」
夕方に入った居酒屋で、
私は生ビールの小グラスの底に左手を添え、ひと息で飲み干し、おかわりを注文する。すでにテーブルの上には空になった小グラスが三つ並んでいた。
「うららってさあ、自分で思ってるよりもずっとアホだよ」
「うぐ」
「でもこれを言えるのは、私があんたと長いこと付き合ってきたからで。それこそ大学からの連中なんか、あんたのこと育ちのいい上品なお嬢様としか思ってないでしょ。いわんや企業の面接官においてをや、でしょうよ」
みずきは次々に枝豆を口の中に放り込んでいく。酒は飲んでいない。下戸なのに、私に付き合って居酒屋で話を聞いてくれている。いや、単に底なしの食い意地を気兼ねなく発揮できる相手が私くらいしかいないからか。みずきと居酒屋に行くと、たいていの人間は割り勘を嫌がる。酒も飲まないのにひとりだけで山のように料理を平らげていくから、料金が跳ね上がってしまう。酒をどれだけ飲んでも勘定が釣り合わないくらいには。
「ええっと、つまり……?」
「書類はウチの大学だからまず合格。うららは知らないかもしれないけどけっこうな有名大学だからね、ここ。面接はあんたのことだから完璧だったんでしょ? 四年間同じ大学に通ってる連中に幻想を抱かせたまま卒業するような奴が面接でおべんちゃらを並べるなんて簡単でしょうに」
自分で判断はできないが、とんでもないヘマはやらかしていない。
「つまりね、うららに落ち度はマジで見当たらない。それがこんな時期までひとつも内定もらえてない。これはどう考えてもおかしいぞ、ってならない?」
「なる……ね……なってる……」
私は五杯目の小グラスを半分ほど干すと、ぞわっとした直感がやっとのことで背筋を登ってくるのを感じた。
「まさか、いや、やるな……あのひとたちなら……」
みずきは苦い顔でだし巻き卵を皿ごと持ち上げて一本まるごと流し込む。
「できればよそ様の家のことには口出ししたくないから言わないでおこうと思ったんだけどね。うららがこれ以上消耗していくのは、さ。見てられなくて」
「うん……ありがとう、みずき。私、ちょっと行ってくる」
「あー……だよなあ。うららならそうするよな……気ぃつけてな」
私は一万円札をテーブルの上に置いて席を立つと、東京駅に向かった。途中の電車の中で新幹線の当日予約をして、伊勢屋本店のある伊勢の国はZ市に向けて、最短最速で直行する。
近鉄の駅を降りてタクシーを拾う。十分ほどでホームセンターとビルが合体したような異形の建物に到着。時刻は午後九時を少し過ぎたあたり。店舗はまだ開店している時間だが、今の私には関係のない話だった。
代金を払ってタクシーを降りると、正面入り口から店舗の中に入る。単調な店内BGMとナレーションが繰り返されいる伊勢屋本店店舗部分は、閉店間際にもかかわらず思ったよりも客が多かった。
「会長を呼んでもらえますか」
私はレジに向かうと、アルバイトらしき店員にそう声をかける。
私の言った意味がくみ取れないのか、店員はもう一度お願いしますと聞き返してくる。
「この会社の、会長を、呼んでもらえますか」
ようやくとんでもない客が現れたと面食らったらしき店員は、すぐに上の者――店長に声をかけに向かった。
「お、お嬢様……!」
「お久しぶりです
店員お揃いのユニフォーム姿の黒鵜さんは、本店の店長と本社の役員を掛け持ちしている。なので私のことも幼いころから知っていて、どれだけやめてくれと言っても「お嬢様」呼びをやめようとしない。
「少々お待ちください! 会長もお嬢様がお帰りになったと聞けば飛んでくるかと――」
内線の電話を持ち上げ、プッシュしようとしたところに、ユニフォームとだらけた洋服ばかりの店内には不釣り合いな、三つ揃いのスーツを着た男がゆったりとした身のこなしで現れ、その立ち振る舞いでもって黒鵜さんの手を止める。
「黒鵜くん、業務に戻ってもらえるかな? まだ閉店までは時間がある。お客様への対応を第一に頼むよ」
「は、はい! 失礼をいたしました!」
頭を下げてバックヤードに戻っていく黒鵜さんを見送ってから、その男はやっと私に向き合った。
「やあ。おかえり。うらら」
伊勢屋グループ会長、速水
柔和な笑みを浮かべた父を睨むと、「ああ」とスマホを取り出す。
「さっきみずきちゃんから連絡があってね。幼なじみとはいえ、あまり迷惑をかけてはいけないよ」
私は父の連絡先を知らないし、自分の連絡先も教えていない。なのでこうした事態が起こると、父の連絡先を知っているみずきが緩衝しようと世話を焼いてくる。私がここに向かっているということを事前にみずきから聞いていたから、こうしてすぐに出てこられたわけだ。
「ここはお客様をお迎えするスペースだ。上に上がろうか」
「いえ。すぐにすむ話なので」
私が動こうとしないのを見ても、父は柔和な笑みを崩さない。
「私の就活先に、圧力をかけましたね」
「そうだね。うららには
それだけ聞けば十分だった。
「今日限りで、縁を切らせてください」
私からの絶縁宣言にも父は表情を変えない。
「うららにそこまで思い詰めさせていたとは知らなかったな。反省もするし謝罪もするから、今日はゆっくり休んでいきなさい。うららは頭に血が上るとすぐに周りが見えなくなる」
「いや、無理です」
少しだけ、父の眉尻が上がった。
「そっちに縁を切る気がないのなら、こっちにも考えがあります」
私は踵を返して、店舗のバックヤードに入り、そのさらに奥、伊勢屋が町の古本屋だったころから残されている蔵書庫に踏み込む。
ここには伊勢屋秘蔵とされる文書や古典籍、絵巻物といったものが仕舞われている。価値がどの程度あるのかは知らないが、巨大企業に成長しても後生大事に抱え込んでいる、言ってしまえば家宝の山だ。
私がやるべきことはひとつ。
この蔵書庫の中身を、破壊し尽くすだけだ。
家宝をまるごとぶち壊されれば、いくら一族経営にこだわる馬鹿どもでも、勘当くらいはするだろう。
まずは、そうだな。一番奥の奥に大切に仕舞われている、和綴じ本あたりから引きちぎって――
書庫の中を突き進んでいくと、私の目当ての絵巻物が仕舞われている桐箱の前に、黒ずくめの人影が屈み込んでいることに気づく。
そういえば、普段は厳重に鍵をかけられているはずのこの蔵書庫に私はずいぶんとすんなり入ってきている。
「こりゃあ殺気でゲスな」
人影は急に立ち上がると、そう言ってそそくさとその場を立ち去ろうとする。
桐箱を小脇に抱えて。
「ど――泥棒!」
語尾が「ゲス」の泥棒が蔵書庫から出ていったのを目の当たりにして、私は慌ててそのあとを追いかけた。情けない話だが、自分の中の激憤よりも、社会的な道義のほうが上回ってしまった。とっさの行動と判断であるだけ、この性質は色濃く出てしまう。
バックヤードを抜け、閉店間際の店舗スペースへ。黒ずくめの泥棒は小走りで駆け抜けていく。
店内にはさすがにもうほとんど人気はない。これ幸いと出口まで軽やかにすいすいと進んでいく泥棒を追いかけながら、今さらになってやっと、私はなにをしているんだろうというところに考えがおよぶ。
全部ぶち壊すと決意したはずなのに。目の前のちんけなコソ泥相手に必死になって。
ああ。もう。まったく。なんで私はいつもこうなんだ――。
「走んなや。あっぶないなぁ」
泥棒の動きがその場で止まったかと思うと、ぐるりと空中で一回転する。
泥棒の目の前に派手な格好の女が立ちはだかり、足を引っかけて転倒させた――ということにやっと気づく。
「はよ店のひと呼んだら? 泥棒なんやろ、こいつ」
「あ、ありがとうございます」
「お礼はええからはよひと呼んでくれやん? 一応足で踏んどるけど、暴れられたらひとりじゃ抑えられやんやん」
慌ててレジのほうを振り返ると、騒ぎに気づいたのかユニフォーム姿の店員が何人かこちらに走ってきていた。
「ううむ。万事休すでゲスか。しからば」
泥棒は転倒したあとも大事に抱えていた桐箱を乱暴に開け、中の和綴じ本をその勢いで広げていく。
「これが『
風もないのに
その絵が、膨れ上がっていく。
紙の上の墨が意思を持ったかのように、だが絵としてのかたちは保ったまま、どんどんと三次元の空間に自らを押し広げていく。
「うらら! 伏せなさい!」
その怒鳴り声を聞いて、私は弾かれるように身体を低くした。しばらく遅れて、それが初めて聞く父の怒鳴り声だったということに気づく。
「――は?」
バケツの水をひっくり返したかのような音と、飛沫を思わせる冷たさが肌を襲う。びちゃ、びちゃ、と余韻のような音がしばらく続き、やっと顔を上げると、呆然とその場に突っ立っている先ほどのギャルと目が合った。
「大丈夫ですか?」
「ああ……えっと……」
私が声をかけると、ギャルはたぶん自分の頬をつねろうと手を顔に伸ばした。
その手が、顔をすり抜ける。
「身体……ないん、やけど……」
それが私と
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