Day.2-4 サチが知らなかった事実

「遅かったわね。今何時だと思ってるの?」


 由里子が会社に戻った時、時計は終業時刻の30分前を示していた。


「これ、あなたの分の仕事よ。今日中に終わらせなさい」


 渡されたのは大量の紙の束だった。

 その一枚一枚にはやるべき仕事がぎっしりと書かれてあり、残り時間では到底終わる量ではなかった。


「これが終わるまで帰るんじゃないわよ?」

「とてもじゃないですけど今日中に終わりません。どうにか明日中までという事にしていただけないでしょうか?」

「何言ってんのよ? たかが家族が倒れたくらいで会社を抜け出したあなたが悪いんじゃない」

「それはしっかりと内田課長の許可を得て行ったことで、それに直帰でいいと……」

「さっきも言ったけど、そんな事知らないわよ。そもそもそんな事言ったっけ私? それとも何? 新人のあなたが課長の私に意見する気?」


 内田課長が言っている事は明らかに間違っている。

 それはこのオフィスで二人の会話を聞いている全員がそう思っている。しかし、今この場には内田課長以外に上の役職がいなかった。職位という差に誰も彼女へ意見が出来ないのだ。むしろ―


「相良さん。仕事大丈夫? 大丈夫そうね。ならこれもお願い? 私定時で帰るから」


 なんて先輩までいて、それに対して由里子が困った顔をすると


「何か言いたい事があるなら言ってみなさいよ」


 と圧をかけられる始末。


「……いえ。無いです」


 その様子を見た内田課長は気分がいいのか、その人を食事に誘っていた。

 由里子は途方に暮れて自分のデスクに向かうと仕事を再開した。

 そこへすっと内田課長が詰め寄り、追い打ちをかけるように耳元で囁いた。


「私、あなたが入社した時に言った言葉、ちゃんと覚えてるわよ? 私はありのままの正直な自分で誠心誠意仕事に励みたいって。おばあさんの言葉か何か知らないけど、そのありのままの自分が仕事を抜け出した結果がこれよ? 反省しながら誠心誠意仕事に取組みなさい」


 それから軽く肩を叩いて去って行くと、周囲の女性社員はクスクスと笑った。

 そんな由里子の目には涙が溜まっていくのをサチは見てしまった。


 二人が話している間、実はサチは何度も止めに入っていた。

 間に体を割入れてもすり抜けるだけで、何回も声かけたものの結局は届くことがなかった。

 何も出来なかった、いや、何もしてあげられなかったのだ。


「由里子ちゃん……」


 サチはせめて愛する孫娘の頭を撫でることも、抱きしめてあげることも出来ない悔しさで顔をくしゃくしゃにした。


 そして終業の時間が過ぎるとちらほらと帰り始める社員が現れた。

 由里子の周りでは挨拶やら、これから行く食事といったような陽気な会話が飛び交っている。


「相良。もし良かったら手伝お―…」

「藤沼君。手を出さなくていいわ。さっさと帰りなさい」


 由里子へ差し出されたそんな助け船でさえ内田課長に阻まれてしまい、上司に逆らえない彼は渋々帰らされてしまった。

 ついにオフィスに内田課長と由里子だけとなる。


「それじゃ。私も帰るから。あの子をレストランで待たせてるし。仕事が終わるまで絶対に帰るんじゃないわよ? もし帰ったら―」


 内田課長は由里子の襟首を掴んで強引に目を合わせる。


「あなたが本当はレズビアンだってこと、周りに言いふらしてやるから。分かった?」

「……はい」


 元気の無いその声と悲しそうな顔を内田課長は鼻で笑うと扉の方に歩き始める。


「あんた、いくらなんでも酷いんじゃないのかい? 上司ならこんな仕事終わるわけないって、手伝ってあげることもしないのかい? それに……由里子ちゃんが誰を、女の子を好きになる事の何が悪いんだい!」


 サチがその後ろ姿に怒りの声をぶつけるが、もちろん届く事はなかった。

 内田課長はそれから一度も由里子の方へ振り返ることもなくオフィスを出て行った。   


「うぅ……なんで私ばっかり……毎日毎日……」


 たった一人になったオフィスで由里子はついに泣き出してしまい、仕事の手が完全に止まった。


「おばあちゃん…… 私、辛いよ……」 


 実は由里子はサチに会うと仕事について聞かれていて、その度に大丈夫とか上手くやってると言っていた。しかも上司に頼られたとか同期のみんなと食事に行って楽しかったとも話していた。

 そんな話を聞いているサチはその度に心底嬉しそうな顔をしていた。だからこそ由里子はずっと本当の事を話せなかったのだ。


「私に心配させないように嘘を言ってくれていたんだね。ごめんね。気が付かなくて……」


 時刻は定時から1時間が経過した19時。

 本当だったら今頃は家に帰って食事をしている時間である。


「今日は帰れるかな……」


 由里子はまだまだ残っている紙の束を見てぽつりと呟くと仕事を再開した。

 そんな時だった。


「まだやってたの?」


 後ろから声がしたので振り返ると、そこにはさっき帰るように言われた藤沼が立っていた。


「うん。終わらないから……」


 二人は同期である。

 藤沼は内田課長に気に入られ、反対に由里子は毎日酷い扱いを受けているという状態だ。


「ったく、あの人も毎日毎日酷いよな。こんな量を押し付けて。そんなに人を貶める事が好きなのかねぇ」


 藤沼はそのまま由里子の隣に座ってパソコンを開いた。


「何してるの?」

「今日は帰りたいんだろ? なら手伝うよ。あの人が帰ってからすぐ来るつもりだったんだけど、遅くなっちまった。ごめんな」


 そう言うと、彼は適当に膨大な紙の束を取っていってキーボードを叩き始めた。


「いや、悪いよ。これは私の仕事だし。私がやらないと……」

「内田課長にまた何か言われる。か? それじゃこうしよう。この仕事は相良が覚醒して一気に終わらせた。俺はただ会社に忘れ物を取りに来ただけで、その時に相良は俺に気が付く事も無く鬼の勢いで仕事をしていて、俺は邪魔しちゃ悪いからと話かけずに帰った。だから俺らの間には何も無かった。これでいいだろ?」

「でも……」

「同期だろ。こういう時は頼れって。って言っても俺は内田課長がいたら引っ込んじまう小心者だけどな」


 藤沼はさっき助けてあげられなかったという自責の念により、せめて内田課長が帰った後でこっそりと手伝おうと心に決めていた。だからここに戻ってきたのだ。


「ありがとう。それじゃ今日はお願い。でも今度お礼させてね?」

「いいよ別に気にしなくて。それじゃ、さっさと終わらせちまおうぜ」


 その後二人は黙々と仕事を終わらせていき、どうにか由里子は終電に間に合った。

 帰宅後、由里子は藤沼にお礼のラインを送ると食事を済ませて眠りに落ちた。


 サチは今日の一部始終を目撃し、幽霊の自分には何もしてあげることが出来なかったという事実に悔しさや情けなさを痛感した。

 でも、自分の孫を気遣ってくれる人もちゃんといることは嬉しく思った。

 サチはどうかこのまま孫を、由里子をあの藤沼が助けてくれる事を願うばかりだった。

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