クリーンメモリー
ボウガ
第1話
男には記憶がなかった。記憶がないことこそが彼の存在意義であるように思えた。まるで自分が実験動物であるかのような感覚もあった。白い部屋でただ、出される食事に手を付ける。人によってはあこがれる退屈な生活。
「あなた……」
それが変化したのは、“妻”を名乗る女性がその場所へ現れてからだった。“妻”は自分の記憶について、あれこれ話してくれた。けれど自分の病気については深く話そうとしない。
「いい?あなた、とにかくここにいて、ここからしばらく出てはいけないの、そうすれば“完治”するから」
素晴らしい記憶を妻が話すたび、それは確かに事実であるような感覚があった。だが、男が違和感があるのは、体のあちこちに“手術跡”があり、それを見つめるたび、“慣らし”というワードを医者や看護師がつぶやいていること、混沌とする意識の中で“罪”という言葉もまた、誰かの口から発せられていたことを思い出すのだった。
医師が時折診察に来るようになり、こんな問答をした。
「どうして記憶がないんです?」
「あなたはコールドスリープ状態にあったんです」
「頭に手術跡があって、こめかみに何か機械があるんですが」
「それは、しばらくあなたの状態を維持するためのものです、手術が終わり、スイッチを押すと、すべては元通りになります」
「何か、大きな罪を犯した気がするんですが」
「罪ですか……この時代ではありとあらゆる罪は“許されます”あなたの番がきたということは、つまり罪を抱えていようがいまいが、あなたは許されたという事です」
「この違和感は……」
「ええ、あなたは生きながらえ、体を維持するために多くの移植手術をうけました、移植手術のあとにドナーとなった人の記憶や人格が一部移るという事があります、あまりきにしないでも、そのスイッチですべては解決します、心配しないでください、最後に“大手術”をします、その時に必要な部位を移植すれば、このつらい戦いは終わります」
男は、手術の時をまった。そして、一か月もするとその日はおとずれた。
「ドナーの体の状態は?」
「コールドスリープと維持装置によって“事件後”から安定しています」
あわただしい音と、麻酔による混沌の中で、男は意識をうしなった。意識を失った男は、頭と体が分けられている自分の姿を想像もできなかっただろう。
しかし、たしかにその手術は行われ、ドナーの体が男の頭部の下についたのだった。
「よかった、あなた……」
男は手術後、しばらくたち意識をとりもどすと、妻にだきつかれてうれしくなっていった。だが、頭の中でもう一人の男の声がきこえた。
【お前を許すことはできない、だがこれが新しい償いなのだ】
(なんのことだ?)
例のドナーの記憶というやつか。しかし問題はないだろう。先生がなんとかしてくれる。やがて、医師が病室にはいってきた。手には妙な器具や端末をもっていて、そして男のそばにまでいうとこういった。
「告知義務はないのだが、私はそのドナーの男の父親でね、だから、復讐もかねていわなければいけない、君は確かに罪をおかした、本来なら終身刑だが、人道的配慮から昏睡刑というものが発案されたのだ、それは起きることのできない眠りの中に罪人を閉じ込めるというものだ、だがそれから月日はたち、また新しい刑ができた、画期的なつぐないかただ“身代わり刑”といわれているものだ」
医師は男のこめかみに手を伸ばした。わずかな電流が流れると、男の意識は遠ざかっていき、かわりに心の中のもう一人の男の意識が強くなっていくのを感じた。理性的で正義感が強く、やさしい消防士の記憶。それは怒りにみちていて、自分を高所から見下ろしているような威圧感があり、男は一瞬記憶を取り戻した。この男を自分が殺害したのだ。という記憶を。
《パチッ》
スイッチが押されると、男はすべての意識をうしなった。
「あなた!!本当にあなたなの!?」
妻は抱き着く。男は、まるで以前とは別人のように、自信に満ち、貫禄がある様子をかもしだしていた。
医師が続ける。
「よし、成功だ、わずかな失敗の可能性もあったが……このほど“ドナーの記憶移植”研究が発展し、ドナーの記憶を移植者の脳に書き換えることができるようになった、細かな部位を移植して“記憶ならし”をしていたが、それも功を奏した。しばらくは安定しないだろうが、次第に落ち着くはずだ、“罪人”の思考は完全に“スイッチ”で停止した、その体はもう、すべてお前のものだ、愛する息子よ」
「パパ―!!!」
娘がかけよってきて、その腕に抱いた。そのころにはもう、男の中には、罪と前世に関する記憶、脳と頭部の持ち主の記憶は消え去っていたのだった。
クリーンメモリー ボウガ @yumieimaru
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