四章
名残り
「ゆみ、もう入ってもいい?」
小さな少女が広場の出入口のアーチから顔を覗かせるのに、椋伍はまた笑って見せて手招きした。
「大丈夫、大丈夫。ゆみちゃんは塩掛けられなきゃ、綺麗な場所でも平気でしょ?」
「うん」
一歩踏み出し、トトトと走り寄るゆみを見ながら椋伍も、神隠市ノートと紙の束を抱え直す。腕も亡霊もいなくなった窪地はただ土ばかりで、嘘のように足場はしっかりとしている。椋伍は橋の上へよじ登ると、低い階段を降りて合流した。
「これ、神様帰ってこれそうかな?」
「わかんない」
「だよねー」
ゆみはゆみ、神様は神様。神様が良いと思わなければ、二度とこの地には戻ってこないだろう。言いつつ椋伍は眉を下げる。
「あんな感じになっちゃったけど、記念撮影してた地縛霊が泉の水浴びて消えていったから……浄化する力は戻ってるってことだよな?」
泉に神様がいると椋伍は推測し、塩をかけた次第だが、あの変貌ぶりに慌てたのは椋伍と直弥くらいだった。
直後に菖蒲から何か聞いたのか、直弥の血相はすぐに戻って、泡を食った椋伍をなだめようとしていたくらいだ。タクシーでもごたつき、詳しく話を聞いていなかった椋伍は「神様はあの行為を怒ってるわけではなかったんだろう」と結論づけ、
「沼の神様と泉の神様が一緒とか……そんなの思いつかないっつーの。伝承ってあんまアテになンないわ」
死ぬかと思った、とがくりと肩から力を抜く。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ウン。ゆみちゃんありがと。マジで優しいね」
「大丈夫ならゆみのお家に来て」
「え?」
くい、と椋伍の手を軽く引き、ゆみは広場の隅の方の茂みを指さす。そこは出入口のアーチから数メートル離れた場所だ。
「ゆみちゃんの家?」
「こっちだよ」
もしかしてまだ何かあるのか。
椋伍の表情が引き締まり、息をひそやかにして言われるまま歩き出す。
ゆみが示す先にはけもの道があった。踏み込めば草木に覆われて視界が狭くなり、椋伍はそれらにビシビシと全身を叩かれながら進んだ。
これはいつまで続くのか。そう思いかけた時、ふっと草木の歓迎が止む。唐突に道が開けて椋伍が視線を上げると、石塀に囲まれた大きな平屋が朽ちた姿を現した。
「こっち」
「う、うん」
ゆみは尚も椋伍の手をひいて、その平屋へと招こうとする。椋伍も抵抗はせず、緑に侵食された家屋に圧巻されて口を開きっぱなしになっていた。
「すげー……家ってほったらかすとこんな風になるんだ。屋根と木が合体してる。……ん?」
石塀を辿り、黒い瓦屋根に草を生やした門まで来た椋伍の足が止まる。ツタで僅かに隠れているが、その奥に御影石で出来た表札にはっきりと名前が刻まれている。
「……
「ゆみのお家、このお山の係だから」
「係?」
一緒になって表札を眺めてゆみが言う。
「天龍家は
「へー、そうなんだ。……ん? 井戸神様がいる
「知らない。昔、村から出ていったっておばあちゃんが言ってた」
「えー……そりゃ井戸神様も堕ちるって。天龍家ももうちょっとなんとかしてくれたら良かったのに」
「今の天龍家はだめだよ」
きっぱりとゆみは言う。
「力がないもん。古い家じゃないと守れないけど、みんなこんなの嫌がってやらない。だから天龍家ががんばらないといけなかったのに。孫の代まであのままだったら、もう天龍家も村もおしまいだよ」
「孫……」
一体何を知っているのか。年不相応な様子を垣間見せたゆみは、冷えた声を一転させ「こっちこっち」と無邪気にまた手を引っ張る。思案顔の椋伍はされるがまま歩き、敷地を跨いだ。
「うっ……わ」
砂塵が舞い上がるかのような変貌だった。
緑で満たされた視界はセピア色に変わり、伸び放題だった草も、荒れて朽ちた木々も消え失せる。残ったのは綺麗に剪定された庭の松の木と、咲き誇るツツジ並木。ツタの一つもない立派な一軒家だった。
「なん、なに?」
「この家の記憶、ゆみと一緒なの」
ゆみは事も無げに言う。
「ゆみが入ると、ゆみの時間に戻るの。お兄ちゃんは特別だから、見せてあげるね」
「家の記憶か」
そういえば、と椋伍は旧宅の事を振り返る。かつて村で自分が住んでいた家で、図らずもアヤメサマの記憶を覗き見たことがあった。それがちょうど、今と同じような状況だったはずだ。
「今度は何年くらい前なんだろ? ウチの母さんのことも知ってるみたいだったけど――」
凸字が少し歪んだような形の家に、早速上がり込みながら椋伍はきょろきょろと見回そうとして、やめる。
木造住宅に白い壁。真っ直ぐに伸びた廊下の突き当たりの方から、トントン、とまな板と包丁が当たる音が響くのだ。誰かいる。
「大丈夫だよ」
ゆみは曖昧な笑い方をして、
「ゆみの思い出だから、そこにはだれもいないよ」
行こう、と廊下を右に曲がったあたりまで、椋伍を招き入れた。
ゆみが襖を開くと、ラジオのような音がした。居間だろうか。畳張りの部屋の真ん中に、丸く大きなちゃぶ台が据え置かれ、傍らに火鉢がある。部屋の端には漆塗りの箪笥や日本人形、折り紙で作られたボウルのような入れ物なもあるが、いずれも椋伍の目には濃淡のあるセピア色にしか映らない。
「おっ、新聞あるじゃん」
ちゃぶ台の上に広げて置かれたそれを、椋伍は読もうとしてすぐ顔を顰めた。
「読みづら。なにこのタイトル」
椋伍にとって、右から左に表記された表題だけでも馴染みが薄い。さらに今は使わない文字表現言い回しもふんだんにあしらわれており、椋伍は早々に諦めて日付だけ指でなぞって探した。
「あった。一、九……一九三四年? 村が今本当は二〇二二年だから……八十、八年前? だいぶ昔じゃん。――おばあちゃんとか、ひいばあちゃんくらいの時代?」
「ゆみ、ツグヨちゃんと一緒に写ったお写真持ってるよ」
混乱する椋伍を他所に、ゆみが居間との仕切りになっている隣の部屋への襖を開けはなすと、簡素な文机と教材、ランタンがある薄暗い部屋が姿を現す。
「ここは?」
「ゆみの部屋」
そうは言っても一人部屋ではなさそうだ。畳まれた布団は二組あり、布団と布団の間には枕屏風が置かれている。部屋の半分をゆみが、もう半分を他の家族が使っていたのだろう。ゆみの私物が置かれている反対側の壁側には、立派な桐箪笥と鏡台が据え置かれていた。女性物の着物も掛けられている。母親と一緒だったのだろうか。
ゆみはランドセルを放り、自分の箪笥の奥から写真立てを引っ張り出すと「ほら」と嬉々として椋伍へ掲げて見せた。
「ツグヨちゃん。ゆみと同い年なの。負けん気が強くて、ゆみがいじめられてても、いつも怒ってくれるんだよ」
「へー、優しいね」
「うん!」
晴れやかに笑うゆみに対して、腰を折り、まじまじと写真を眺める椋伍の表情はパッとしない。
確かに写真には、
「ねえ、ゆみちゃん。オレも母さんもタレ目だけどさ、なんかこの子とあんま似てないっていうか……。人違いじゃないかな?」
「人違い?」
「ウン。ゆみちゃんが知ってるのって、ちがう家のツグヨちゃんだと思う。いろいろ助けて貰ってなんだけど、オレとは関係ないかも」
「そんなことないよ。お兄ちゃん、
「え?」
驚き聞き返した椋伍を、ゆみのくりくりとした赤目がまっすぐと見つめ、なおもきっぱりと言い放つ。
「ゆみの知ってるツグヨちゃんは、時任家のツグヨちゃんだよ」
「でもそれってウチのお母さんの名前なんだよ。年代が合わない。ばあちゃんだってミキヨだし、ひいばあちゃんは……なんかこう、もっと違った感じだった」
「え? お兄ちゃん知らないの?」
今度はゆみが目を見開き、写真立てを抱え込んだまま首を傾けて告げた。
「時任家にはたくさんツグヨがいるんだよ」
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