波乱

 小さな手だと椋伍は感じた。

 え、と小さく呟いて首を動かすと、頭数個分下に少女がいた。

 肩甲骨あたりまで伸びた黒髪に、向日葵柄のワンピース、赤いランドセルを背負った少女は全身ずぶ濡れで、その真っ赤な瞳に目いっぱい椋伍を映して笑っている。


「なっ……!? なんでソイツが……!?」

「ゆみちゃん!?」

「ゆみだよ」

「何してんの!?」

「会いに来たよ」

「誰? 知り合い?」


 一気に騒ぎだした椋伍と直弥に、怪訝そうな表情で菖蒲アヤメが歩み寄り、少女――ゆみの目の前にしゃがみこんだ。

 椋伍もつられてゆみの隣で身を屈めて説明する。


「はい。村もどきで初めて会ったんですけど……ゆみちゃんの落し物を拾ったままの人間に取り憑いて、殺しちゃってました」

「ゆみだよ」

「あら、こんなにいい子が? ――こんにちは、ゆみちゃん。素敵な瞳ね」

「枯れ沼にいくの?」


 無視された菖蒲アヤメは、嫌な顔ひとつせず成り行きを見守っている。椋伍は目線を合わせて尋ねるゆみに、こくりと頷き、


「ウン。ゆみちゃんは離れてた方がいいかも」

「どうして?」

「危ないから。それともまた何か落し物しちゃった? オレ探してこようか?」

「ううん、いいの。ほかの人が持ってるから」

「え……聞き捨てならないセリフ……。それ拾った人大丈夫?」

「返してくれたら大丈夫」

「……。そっか」


 どうやら教えてくれる気はないようだ。

 椋伍はその拾得者がゆみのルールに従うことを祈りつつ、


「枯れ沼を綺麗にしてくるから、ちょっと入るの待ってもらってもいい?」


 と優しい声音で伝えた。途端、ふるふるとゆみが首を横に振る。


「いや」

「えっなんで?」

「ゆみがお兄ちゃんを案内してあげる」

「ゆみちゃんが?」

「うん。だって迷うから」

「強いお兄さんとお姉さんがいるのに?」

「……ソレは頼ったらだめだよ」


 少女はしっかりと夢月ムツキ菖蒲アヤメを順に見て、椋伍に断言した。直弥が「それみろ」という顔をしたのが椋伍にも見えたが、それどころではない。椋伍は無理にでも止めに入りそうな様子のゆみに、さらに問いかける。


「なんで?」

「あっちは祟りの源だから。こっちは怖いから」


 あっち、が夢月。こっち、が菖蒲。

 指さす少女に夢月ムツキがひらひらと手を振って見せて、忽ちにぐしゃりと顔をしかめられている。初対面で随分な嫌われようだ。


菖蒲アヤメさんは大丈夫なんじゃないかな? もう祟らないし」

「怖いの。あっちとこっちが枯れ沼に入ったら、全部逃げるよ。お兄ちゃん、迷子になっちゃう」

「そう……。もしもそれで核まで移動したら、かなり厄介よ。穢れた土地が広がってしまうわ」

「うん。だから、ゆみが案内してあげる」

「でもなあ」

「大丈夫だよ」

「うーん」


 ゆみまで堕ちたらどうするか。

 椋伍が二の足を踏んでいると「んー」と夢月ムツキが沼への道の入口で、項を擦りながら声を発した。


「その子が言うことは本当だろうから、一緒に行ってきたら? 俺がここに立っただけで、奥で気配が暴れているし。その子も様子がおかしくなったら椋伍くんが何とかするといい。……あと、この先は直弥ナオヤくんも行けないからそのつもりでね」

「アァ!? なんでだよ」

「耐性は塩じゃどうにもならない。無様に吐き散らして死んでもいいなら行くといいよ」

「……」

「椋伍くんは地獄でも平気だったから、けろっとして帰ってくるだろうけどね」

「……。クソがよォ」 


 歯噛みする直弥を見て、ゆみを見て、椋伍はまた少し迷った後、おずおずと口を開いた。


「じゃあ、お願いしてもいい?」

「うん!」

「ゆみちゃんも危なくなったら逃げてね」

「ゆみは危なくないよ?」

「もしもがあるからね」

「もしも?」

「ウン。怪我しないようにね」


 立ち上がって伸びる身長に合わせ、ゆみが椋伍を見上げる。

 きょとんとした幼い顔は、どこか納得のいかない色を含んでいたが、やがて「お兄ちゃんが言うならそうする」と言いにこりとした。


 枯れ沼への道は泉に似ていた。山道を切り開いて作られているからだろうか。道の入口は車が停められるように一面砂利だったが、道は雑草が抜かれ、道の両端はニリンソウが群生し咲き乱れていた。

 そして暗い。木々の隙間から日差しが入り込んでもおかしくないだろうに、先程から嫌な冷えが椋伍にまとわりついている。まるで冬の池に潜ったような冷えだった。


――俺が穢した場所が残ってるだろうから、気をつけてね


 出発間際に夢月ムツキが言った言葉を思い出し、椋伍の眉間のシワが深くなる。


「水子が集まるような場所をさらに汚すって、どんだけ昔悪かったんだよあのひと」

「お兄ちゃん大丈夫?」

「ウン」


 全然平気、と取り繕う椋伍に納得してゆみがさらに歩を進める。

 少女に手を取られて進む道は、空気の重さが気になりこそすれ体調に異変はなかった。ただ単に「やっぱり悪いところだな」と納得するだけで、椋伍の顔色は涼しい。


「枯れ沼の神様は、昔ここに悪いものがやってきたせいで出ていったんだって」


 通りすがりに茂みから赤ん坊の鳴き声がして、椋伍は塩を降った。その背後からゆみが唐突に語る。


「そうなの?」

「うん。神様が言ってた」

「え、ゆみちゃん神様と話せるの!?」

「昔はね。今はきらわれてるからだめだよ」

「そうなんだ」


 再び手を繋いで、枯れ沼を目指す。


「うん。神様が出ていっちゃったから、沼はどんどん穢れて、誰も近寄れなくなってたの。神様、帰ってこれたらいいのにね」

「そっか。神様どこに行っちゃったんだろうね。……っていうか」


――それ、ダイゴより先に神様見つけないと大変なことになるんじゃねーの?


 嫌な予感に椋伍の胸のあたりがざわつく。

 ゆみはといえば、椋伍の言葉にきょとん、として振り返り見上げて


「神様、泉にいるよ」

「……。え」

「悪いモノがやってきて、泉に逃げたら村の人に潰されちゃったの。神様が言ってたよ」

「待って。それって」


 過ぎった答えを紡ごうとした言葉は、突如として現れた道の終わりに遮られた。

 バッと開けた広い土地だ。沼があったであろう位置に木製の低い橋が四角く取り囲み、妙な位置から四本階段が伸びていた。上空から見たならば「卍」に見えなくもない。中央には小さな墓のような石碑がある。

 ざあ、ざあ、と大雨のような音をたてて木々が揺れる。木の葉が擦れる。遠くて近いざわめきは、巻き上がる風となって椋伍にぶつかって足をすくませた。


「ゆみちゃん」


 なあに、とゆみが応える。


「危ないから離れてて。お兄ちゃん、ちょっとあの沼綺麗にしてくるから」

「そうしたら神様、帰って来れるね」


 どうだろうか、という迷いを押し殺した椋伍は、どこか嬉しそうに見上げるゆみへ、ひとつ微笑んで枯れ沼を睨みつけた。

 ひしめいているという水子や亡霊の姿が見えない。夢月は奥へ逃げたと言っていたが、椋伍には分かる。この場にいる。この広場に。もっと言うならば、この広場の――中央。


「沼は命が生まれる場所、だっけ」


 夢の中の姉の言葉を椋伍は振り返る。


「生まれる場所に投げ込まれて死んで、それっきりなら……そりゃ穢れるよな」


 ごぽ。

 枯れているはずの地面から、大きな気泡が迫り上がる音がした。椋伍の視線の先には変わらず広場がある。木々がうるさい。風がうるさい。そのうちそれに、気泡の音が絶えず加わるようになり、枯れ沼の石碑の傍らのコケがひとつ、ふたつと次々に盛り上がり――おぎゃあ。

 小さな産声の主が小さく細い腕をゆらめかせ、もぞりと地面から出てきた。

 橋に囲まれた少し窪んだ地面が、水面みなものように波打っているのが、椋伍から見える。

 ぎゃあ、ぎゃあ、とけたたましい赤ん坊の鳴き声が輪唱のように重なり、ざわりと椋伍の産毛が逆立つ。


「いち、に、さん……いや多い。沼の真ん中からどんどん溢れてきてるってことは」


 数えるのを辞め、椋伍は沼の周囲に伸びる橋に視線を走らせた。

 核である箱は、石碑の後ろにでも置かれているのだろうか。眼差しであたりをつけた椋伍は、一番近場の左手前にある階段を駆け上がり、ぐん、と飛び上がった。

 着地、駆け出しまで間を置かず、塩を沼へ振りかける。

 ざあっとこけが広がる。広がった分どぷんとヘドロへ変わる。粘着質な水泡が、煮えたぎる鍋のように無数に湧き上がって膨張し、伸びあがって無数の子どもの腕になった。


「オラァッ!!」


 己の限界を超えるための咆哮だ。椋伍は素早く塩をぶちまけ、腕を踏みつけてしまう前に浄化して消し去る。ダン、と着地した足場が円を描いて白銀色に煌めくも、その外には未だ腕がひしめいている。


――たすけて いきが

――ひどい ひどい どうして

――いっしょに つれてって


 溺れるような音と共にそんな声がせめぎ合うのに、椋伍は胸の痛みをこらえるように目を細め、


「連れて行けない」


 そう静かに断言した。


「オレはお母さんじゃないし、仲間じゃない。住む場所も行く場所も違う。だから、連れて行けない代わりに、送ってあげる」


 手の花道が塩によって割れる。綺麗な土を晒した地面が一筋、石碑目掛けて伸びるまで、椋伍は塩を行く手にかざして振りまき続けた。


「石碑から強い気配がする」


 ボコ、と石碑が気泡の音を立てて変形する。大人や子供の顔が苦悶の表情を浮かべて寄り集まったような、そんなものに成り果てていた。


「せめて最後は安らかにいけますように」


 さら、と塩がかけられ、粒が石碑の頭に触れた刹那、顔の表情が和らいで姿も薄らいだ。そのまま椋伍は僅かに身を屈めて、石碑の背後を覗き見る。


「え」


 箱がない。

 ボコ、と大きな気泡の音が響いた。

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