波乱
小さな手だと椋伍は感じた。
え、と小さく呟いて首を動かすと、頭数個分下に少女がいた。
肩甲骨あたりまで伸びた黒髪に、向日葵柄のワンピース、赤いランドセルを背負った少女は全身ずぶ濡れで、その真っ赤な瞳に目いっぱい椋伍を映して笑っている。
「なっ……!? なんでソイツが……!?」
「ゆみちゃん!?」
「ゆみだよ」
「何してんの!?」
「会いに来たよ」
「誰? 知り合い?」
一気に騒ぎだした椋伍と直弥に、怪訝そうな表情で
椋伍もつられてゆみの隣で身を屈めて説明する。
「はい。村もどきで初めて会ったんですけど……ゆみちゃんの落し物を拾ったままの人間に取り憑いて、殺しちゃってました」
「ゆみだよ」
「あら、こんなにいい子が? ――こんにちは、ゆみちゃん。素敵な瞳ね」
「枯れ沼にいくの?」
無視された
「ウン。ゆみちゃんは離れてた方がいいかも」
「どうして?」
「危ないから。それともまた何か落し物しちゃった? オレ探してこようか?」
「ううん、いいの。ほかの人が持ってるから」
「え……聞き捨てならないセリフ……。それ拾った人大丈夫?」
「返してくれたら大丈夫」
「……。そっか」
どうやら教えてくれる気はないようだ。
椋伍はその拾得者がゆみのルールに従うことを祈りつつ、
「枯れ沼を綺麗にしてくるから、ちょっと入るの待ってもらってもいい?」
と優しい声音で伝えた。途端、ふるふるとゆみが首を横に振る。
「いや」
「えっなんで?」
「ゆみがお兄ちゃんを案内してあげる」
「ゆみちゃんが?」
「うん。だって迷うから」
「強いお兄さんとお姉さんがいるのに?」
「……ソレは頼ったらだめだよ」
少女はしっかりと
「なんで?」
「あっちは祟りの源だから。こっちは怖いから」
あっち、が夢月。こっち、が菖蒲。
指さす少女に
「
「怖いの。あっちとこっちが枯れ沼に入ったら、全部逃げるよ。お兄ちゃん、迷子になっちゃう」
「そう……。もしもそれで核まで移動したら、かなり厄介よ。穢れた土地が広がってしまうわ」
「うん。だから、ゆみが案内してあげる」
「でもなあ」
「大丈夫だよ」
「うーん」
ゆみまで堕ちたらどうするか。
椋伍が二の足を踏んでいると「んー」と
「その子が言うことは本当だろうから、一緒に行ってきたら? 俺がここに立っただけで、奥で気配が暴れているし。その子も様子がおかしくなったら椋伍くんが何とかするといい。……あと、この先は
「アァ!? なんでだよ」
「耐性は塩じゃどうにもならない。無様に吐き散らして死んでもいいなら行くといいよ」
「……」
「椋伍くんは地獄でも平気だったから、けろっとして帰ってくるだろうけどね」
「……。クソがよォ」
歯噛みする直弥を見て、ゆみを見て、椋伍はまた少し迷った後、おずおずと口を開いた。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「うん!」
「ゆみちゃんも危なくなったら逃げてね」
「ゆみは危なくないよ?」
「もしもがあるからね」
「もしも?」
「ウン。怪我しないようにね」
立ち上がって伸びる身長に合わせ、ゆみが椋伍を見上げる。
きょとんとした幼い顔は、どこか納得のいかない色を含んでいたが、やがて「お兄ちゃんが言うならそうする」と言いにこりとした。
枯れ沼への道は泉に似ていた。山道を切り開いて作られているからだろうか。道の入口は車が停められるように一面砂利だったが、道は雑草が抜かれ、道の両端はニリンソウが群生し咲き乱れていた。
そして暗い。木々の隙間から日差しが入り込んでもおかしくないだろうに、先程から嫌な冷えが椋伍にまとわりついている。まるで冬の池に潜ったような冷えだった。
――俺が穢した場所が残ってるだろうから、気をつけてね
出発間際に
「水子が集まるような場所をさらに汚すって、どんだけ昔悪かったんだよあのひと」
「お兄ちゃん大丈夫?」
「ウン」
全然平気、と取り繕う椋伍に納得してゆみがさらに歩を進める。
少女に手を取られて進む道は、空気の重さが気になりこそすれ体調に異変はなかった。ただ単に「やっぱり悪いところだな」と納得するだけで、椋伍の顔色は涼しい。
「枯れ沼の神様は、昔ここに悪いものがやってきたせいで出ていったんだって」
通りすがりに茂みから赤ん坊の鳴き声がして、椋伍は塩を降った。その背後からゆみが唐突に語る。
「そうなの?」
「うん。神様が言ってた」
「え、ゆみちゃん神様と話せるの!?」
「昔はね。今はきらわれてるからだめだよ」
「そうなんだ」
再び手を繋いで、枯れ沼を目指す。
「うん。神様が出ていっちゃったから、沼はどんどん穢れて、誰も近寄れなくなってたの。神様、帰ってこれたらいいのにね」
「そっか。神様どこに行っちゃったんだろうね。……っていうか」
――それ、ダイゴより先に神様見つけないと大変なことになるんじゃねーの?
嫌な予感に椋伍の胸のあたりがざわつく。
ゆみはといえば、椋伍の言葉にきょとん、として振り返り見上げて
「神様、泉にいるよ」
「……。え」
「悪いモノがやってきて、泉に逃げたら村の人に潰されちゃったの。神様が言ってたよ」
「待って。それって」
過ぎった答えを紡ごうとした言葉は、突如として現れた道の終わりに遮られた。
バッと開けた広い土地だ。沼があったであろう位置に木製の低い橋が四角く取り囲み、妙な位置から四本階段が伸びていた。上空から見たならば「卍」に見えなくもない。中央には小さな墓のような石碑がある。
ざあ、ざあ、と大雨のような音をたてて木々が揺れる。木の葉が擦れる。遠くて近いざわめきは、巻き上がる風となって椋伍にぶつかって足をすくませた。
「ゆみちゃん」
なあに、とゆみが応える。
「危ないから離れてて。お兄ちゃん、ちょっとあの沼綺麗にしてくるから」
「そうしたら神様、帰って来れるね」
どうだろうか、という迷いを押し殺した椋伍は、どこか嬉しそうに見上げるゆみへ、ひとつ微笑んで枯れ沼を睨みつけた。
ひしめいているという水子や亡霊の姿が見えない。夢月は奥へ逃げたと言っていたが、椋伍には分かる。この場にいる。この広場に。もっと言うならば、この広場の――中央。
「沼は命が生まれる場所、だっけ」
夢の中の姉の言葉を椋伍は振り返る。
「生まれる場所に投げ込まれて死んで、それっきりなら……そりゃ穢れるよな」
ごぽ。
枯れているはずの地面から、大きな気泡が迫り上がる音がした。椋伍の視線の先には変わらず広場がある。木々がうるさい。風がうるさい。そのうちそれに、気泡の音が絶えず加わるようになり、枯れ沼の石碑の傍らの
小さな産声の主が小さく細い腕をゆらめかせ、もぞりと地面から出てきた。
橋に囲まれた少し窪んだ地面が、
ぎゃあ、ぎゃあ、とけたたましい赤ん坊の鳴き声が輪唱のように重なり、ざわりと椋伍の産毛が逆立つ。
「いち、に、さん……いや多い。沼の真ん中からどんどん溢れてきてるってことは」
数えるのを辞め、椋伍は沼の周囲に伸びる橋に視線を走らせた。
核である箱は、石碑の後ろにでも置かれているのだろうか。眼差しであたりをつけた椋伍は、一番近場の左手前にある階段を駆け上がり、ぐん、と飛び上がった。
着地、駆け出しまで間を置かず、塩を沼へ振りかける。
ざあっと
「オラァッ!!」
己の限界を超えるための咆哮だ。椋伍は素早く塩をぶちまけ、腕を踏みつけてしまう前に浄化して消し去る。ダン、と着地した足場が円を描いて白銀色に煌めくも、その外には未だ腕がひしめいている。
――たすけて いきが
――ひどい ひどい どうして
――いっしょに つれてって
溺れるような音と共にそんな声がせめぎ合うのに、椋伍は胸の痛みをこらえるように目を細め、
「連れて行けない」
そう静かに断言した。
「オレはお母さんじゃないし、仲間じゃない。住む場所も行く場所も違う。だから、連れて行けない代わりに、送ってあげる」
手の花道が塩によって割れる。綺麗な土を晒した地面が一筋、石碑目掛けて伸びるまで、椋伍は塩を行く手にかざして振りまき続けた。
「石碑から強い気配がする」
ボコ、と石碑が気泡の音を立てて変形する。大人や子供の顔が苦悶の表情を浮かべて寄り集まったような、そんなものに成り果てていた。
「せめて最後は安らかにいけますように」
さら、と塩がかけられ、粒が石碑の頭に触れた刹那、顔の表情が和らいで姿も薄らいだ。そのまま椋伍は僅かに身を屈めて、石碑の背後を覗き見る。
「え」
箱がない。
ボコ、と大きな気泡の音が響いた。
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