案内人

「椋伍ッ!!」


 泉の水が尽きてしまいそうなほどの大きな水の柱に、崖の上から直弥が叫んだ。

 

「ずらかるぞ!! 上がってこい!!」

「え!? 何!?」

「上がってこい!!」


 泉の傍らでおろおろとしていた椋伍の小さな姿が、やっと階段目掛けて動き出す。手すりにしがみついていた直弥はそこでやっと力を抜き、がくりと頭をたれた。


「これはまた、見事ね」

「何が見事だよ。完全に神サマとやらがカチキレてンじゃねーか!」


 いつの間にやらイカ焼きなんぞを食べている菖蒲アヤメが、崖上を優に越す水の柱を見上げてのんきにしているのを、直弥はギャンギャン言いながら睨みつける。

 「そう喚かないで」と彼女は残ったイカの足を食べ、近くのゴミ箱へ串を捨てると、降り注ぐ霧のような泉の水に嫌そうな顔をして、


「これは怒りではなく歓迎よ。あの塩の一振でこれなのだから、やはり時任の腕は確かだわ」

「歓迎?」


 どういう意味だよ、と直弥が聞くよりも先に息をきらせて椋伍が階段を駆け上がり、ぴたり、と止まる。その顔面は紙のように白い。


「どうしよう」

「どうしようもないでしょう」

「塩ってどうやったら取り出せます?」

「あー……煮たらいいンじゃね?」

「無理じゃん!! どうしよう!! なんか爆発止まんないんだけど!?」

「放っておきなさいよ。沼にもいかなくちゃいけないし」

「なんでそんな!! 楽観的に!!」

「コラァァッ!!」


 嘆く椋伍の背中越し。泉を囲む崖の向かい岸から、村人風の格好をした古代の人間が、草苅り鎌を手に怒号を上げた。


「貴様ら!! 何しとるかァアッ!!」

「やべっ!! 正気なひとだ!!」

「あれ正気か? 怒り狂ってンぞ?」

「塩対象外のひと!! あれ普通の人とあんまり変わらないから、塩かけたら多分怒られる!!」

「まあ、効くには効くでしょうけれどね」


 数を増やしつつある村人達は、農具を手に椋伍達の元へとずんずん歩を進める。


「うわうわ来た!!」

「逃げるわよ」

「ウッス」

「泉こんなンなっちゃってるのに!?」

「ただいまー、ジュース凄く安かったよ。二四〇ミリリットルで百十円」

夢月ムツキさん空気読んで!!」

「役目は果たしたのだから問題ないでしょう。それより、生きてここから出ることが先じゃない?」

「人数分はないんだ、ごめんね」

「俺は要らねーわ」


 とっ散らかった会話のまま、椋伍らは駆け出す。

 泉のある広場が木々に抱かれて見えなくなる間際。椋伍がもう一度振り返ると、霧雨のように降り注ぐ細かな水滴を浴びた記念撮影の亡霊が、シャッターを切る音と明滅と共に、煌めいて消えていくところだった。


「出口まで飛ばして」

「しょうがないなァ」


 菖蒲アヤメの命にやれやれとして見せながらも、荷物を抱えたまま亡霊に付き合うのが面倒だったのだろう。夢月ムツキはすんなり小道の出口にまで、四人揃えて瞬間移動をさせてみせた。


「菖蒲、一本いらない?」

「どうしてそこで炭酸を渡すのかしらね。顔面に掛けるわよ」


 そんなやりとりをする二人を置いて、椋伍と直弥は朝の静かな通りにぽつりとあったタクシーに向けて叫び、ガパ、と開いた扉から口々に捲し立てた。


「ハザッス!! 四名ッス!!」

「四人なんですけど乗っていいですか!? 無理そうなら一人置いていきます!!」

「……」


 ご乗車ありがとうございます。

 中年で細身の運転手は、低いバリトンボイスで確かにそう言った。


「っしゃオラァ!!」

「言質取りましたァ!!」

「でかしたわ時任、岸本! ……このメンツじゃむさ苦しいんじゃない?」

「四人いけるってよォ」

「いえ、でも……やっぱりいいわ。乗りましょう」


 背後を気にして菖蒲が折れた。

 こうして後部座席に奥から直弥、椋伍、菖蒲。助手席に夢月が乗ることとなり、タクシーは発進した。


「是山の枯れ沼までお願いします」

「……」

「あの、枯れ沼に行きたいんですけど、道大丈夫ですか? 分かりますか?」


 発進直後、反応が薄すぎる運転手にそっと椋伍が話しかけるが、やはり返事がない。乱れた電子音が時折無線から流れ、場の空気が一気に冷えた。

 短気な直弥も、運転手の後頭部を心の中で三回は叩いてそうな目をしている。

 菖蒲はどうだろうか、と椋伍が頭をずらしかけた時だ。


「ご乗車ありがとうございます。……四号車、四号車、冥土、冥土。どうぞ」


 やっと口を開いた運転手は、抑揚少なく無線へ向けてそう告げた。


「アァ?」

「めいど?」

「お客様」


 運転手がルームミラー越しに、針金のように細い目を椋伍に寄越す。


「こちら四号車はこの世からの冥土直行車両……あの世へ向かうタクシーです。こちらとそちらのお連れ様も生きた人間ではないご様子。そのあたりの事情はよぉく、ご存知じゃぁないんですか――ぐえ!?」

「知るかァーッ!!」


 不気味なほど揺れのなかったタクシーが、がくん、と急発進急ブレーキを踏んだ。直弥だ。背後から運転手の首を絞め、座席を蹴りながら罵声を浴びせる。


「直弥!?」

「バカタレがッ知るわけねェーだろ!! 神隠市カクリシそのものがあの世みてーなモンなのに、今さらメイドもクソもあるか!! 三途の川に沈めるぞこのゴミカス野郎がァ!!」

「ぐえぇっ!?」

「まってまって、直弥落ち着け。塩!! 塩あるから首締めるのやめて!! やめろ!!」


 座席から直弥を引き剥がした椋伍は、再び走りが安定したタクシーに安堵のため息を漏らした。ぜえぜえと荒れた呼吸が車内に満ちる。この間あきれた顔で菖蒲は静観し、夢月は開けた缶コーヒーがこぼれないようにしつつ、ちみちみとやっていた。


「勘弁してくださいよォ」


 泣き言を言ったのは運転手の方だった。

 片手で首を擦りつつ、ミラー越しに直弥へ怯えた眼差しをむけながら訴えかける。


「ちょっと冗談を言ったらコレだもんなァ、今どきのお若い方々は。行きますよ、ええ、沼でしょう?」


 ああ、怖い。

 そう肩をふるわせた運転手にも、先程は椋伍達が一瞬肝を冷やされたのだからこれでお互い様だろう。椋伍は「お願いします」と言いながらも、塩の蓋を開けて臨戦態勢をとっていたが、運転手からそっと、


「それ、得体がしれませんので下げていただけます?」


 とさらに怯えられてやむなく蓋をかぶせるだけにし、ビンを両手で握るに留めた。大いに不満気な運転手だったが、今すぐにでも振りかざされる恐怖からは逃れたのだ。一同としては良しとしてもらいたいところだった。


「キリキリ運転してくれや」

「なるべく早く行きたいです」

「安全運転でお願いね」

「はいはい、ああッもう、乗せるんじゃあなかった……」


 注文の多い客に辟易としながら、運転手がアクセルをぐう、と踏むと景色が変わった。

 ぐなり、ぐなりと木々と建物がまざりあいマーブル模様のようになっていく。

 時折安定した景色が映りこんで、その中でも椋伍は市街地の大型デパートが見受けられたことに、目を見張った。移動速度がとんでもなく早い。なんせ泉は南の果ての山、枯れ沼は北の果ての山。もう真ん中に来ている。


「しかしお客様、悪く思わないでいただきたいんですがね、私もあまり沼の傍へは寄れませんから。それだけは承知してくださいよ」

「なんでですか?」

「昔から水子が大勢いるんですよ。今朝になってたくさん死人を誘い込んで、あのあたりも一気に治安が悪くなっているんです。近づきすぎると玩具にされますよ」


 まあ仕事の邪魔なので、落ち着かせてくれるっておっしゃるなら、ご協力しますけどね。

 そう付け加えた運転手に、椋伍と直弥が顔を見合せた。


「一応そのつもりです」

「ウウン、そうですか。そうですか。それならまあ……ここでお待ちします」


 ゆるやかにタクシーが停車した。

 いつの間にやら薮深い地へたどり着いており、ガパ、と開いたドアの向こうには鬱蒼と生い茂った森の木々と、深い闇を携えた口がぼんやりとあった。恐らく、沼への道があるのだろう。


「いいんですか?」

「足、ご入用でしょう?」

「……。ありがとうございます」


 ニヤリと笑って見せた運転手は、なんとも悪い顔だったが、悪巧みをしているようには見えなかった。

 椋伍が素直に礼を言うと、彼は行きと同じような調子で「ご乗車ありがとうございました」と口上を述べた。

 ピーッ、と電子音が鳴る。料金メーターを椋伍や直弥が見るより先に、夢月ムツキが金銭を置くトレーに炭酸飲料の缶をひとつ置いた。


「えっ」

「お世話様」


 ドアを開けて出ていってしまった彼に、椋伍も直弥も口がふさがらない。すかさず運転手が言う。


「お客様、百二十円ですよ」

「じゃあもう一本ね」


 今度は菖蒲が別の炭酸飲料を置いて、運転手はやっと納得したらしい。


「お気をつけて」

「ありがとう」


 短いやり取りの後、菖蒲もタクシーから出てしまった。椋伍が車内から菖蒲へ戸惑いの声を上げる。


「安くないですか?」

「五円が六枚、かける人数分だからあってるわよ。……ねえ、私のはいくらだったの?」


 百四十円、と夢月がスマホで景色を撮りながら答えると、再び菖蒲は椋伍へ向き直り、


「まあ迷惑料だと思えばいいわね。とりあえず降りたら?」


 ありがとうございます。口々にそう言い残し、椋伍も直弥も降りる。引き止められなかったのが答えだろう。

 バタン、と閉まったドアの窓から、運転手が記帳作業に入ったのを一瞥し、椋伍は菖蒲へ尋ねた。


「もしかして、六文銭の話ですか?」

「そうよ。あの世への渡し賃。行きと帰り分だから、アレが消し炭にでもならない限りは、呼べばまたそのへんから出てくるでしょう」


 彼女が指さすと、タクシーは忽然と姿を消していた。辺りにあるのは、舗装もされていない砂利道と木々、ボロボロの道路標識ぐらいだ。


「ちょっとした事であの世感だしてくるなぁ」

「ホントにな。薄ら寒くてしょうがねーっつーの」


 天気も悪ィし、と直弥が文句混じりに同意するのにつられて、椋伍も両腕をそっとさする。菖蒲までつられるように片手を宙にかざして、空を見上げて問いかけた。


「雨の時って、塩は効くの?」

「さあ? スプレーにしたこともあるから大丈夫だと思いますよ」

「そう。まあ、大いに結構といったところね」


 なんでもありなところに菖蒲は何か言いたげではあったが、それ以上は不毛と考えたのか。切り上げられた椋伍は意味無くハハ、と笑ってから塩の瓶をひと握りすると、


「じゃあ、サッと行ってサッと戻りましょうか」


 先にタクシーから降りて手持ち無沙汰になっている夢月ムツキにも聞こえるように言うと、一歩踏み出して固まった。

 ひたり、と氷のような何かに左手を掴まれて。

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