名も無き神

 太陽が昇りきる前から、真夏日の予感があった。

 蝉はジーワジーワと蒸し暑い空気を揺らし、その鳴き声に共鳴するように陽の光は肌を焼く。このご時世喧しいと文句をつけられそうな風鈴の音が、風に煽られてリンと鳴るのに、気持ちだけ涼やかさが入った。

 昨日までは春とも秋とも呼べなかった神隠市カクリシの季節は、西から太陽が昇ったことで季節が乱れてこの日和だ。

 椋伍もうんざりとしながら手の甲で汗を拭い、黒い甚平姿で泉へと訪れていた。


「おばあちゃん」


 泉へ続く細道。その傍らにある花壇で、人ひとりが入りそうなほどの穴を掘り続けている園芸着姿の老婆に椋伍は声をかけた。


「おはようございます。何してるんですか?」

「お花をね」


 しゃがみこんでいた老婆は、麦わら帽子から人好きのする笑顔をのぞかせて、ぎくん、と不自然に声を揺らす。


「おは、お花ね、お花を植えてるぅんよぉお……!」

「大変ですね」

「お花をねぇえ、植えてぇエるんよォお!」


 チャチャ、と椋伍は老婆に塩をかけた。

 水蒸気のような細い音を立てて老婆の姿はかすみ、きらりと光って消える。あとには大きな穴と、園芸用のスコップのみが残された。

 椋伍がそれらを見届けて神隠市ノートの一箇所にバツ印を書き、白い麻布のショルダーバッグにしまい込むのに、そばに居た直弥は感心したように声を発する。


「普通のババアだから見分けがつかねえって言ってた割に、意外とすんなり塩かけてンのな」

「一回見た事あったから。その時と服も一緒だったし、あとは話してみたカンジ? あんな感じだと大体あの世に染まってるからかけてる」

「フーン。ちなみに間違えたら?」

「どえらい怒られる」

「前科あンのかよ……」


 合ってて良かったな、と右の口角を上げた直弥も暑そうにしている。

 黒地に波模様が描かれた甚平に身を包んだ彼は、額に滲む汗を見る限り、おしぼりを手渡したら力強く顔面を拭きそうだ。

 そんな直弥の向こうではどこから手に入れたのか、夢月ムツキ菖蒲アヤメがカキ氷を食べており、味のことで喧嘩をしている。

 椋伍と直弥のじとり、とした視線に気がついたのだろう。

 鼠色に黒い縞模様が入った着流しと、朝顔柄の薄水色の浴衣を揺らし、二人の元へ歩み寄ってきた。


「お疲れ様ァー」

「自分たちだけズルくないです? オレ達ヤバそうなの浄化して回ってんのに」

菖蒲アヤメが屋台にどーうしても行きたいって言うから」

「はァ? 氷屋の前で暑い暑いと情けなくボヤいていたのはそっちでしょう?」

「二人とも暑いよね。ハイ、メロン味」

「ウッス」

「あ、それ全部菖蒲さんのじゃないんだ……夢月さんに持たせてるんだと思ってました」

「ちょっと!! さっきからなにを我が物顔で……!! 私が差し入れで買ったのに!!」

「アン? ンなもん美味けりゃどーでもいいだろ」

「なんですって!?」

「菖蒲さん、いただきます」


 時任、と言いながらじーんとする菖蒲アヤメなど初めてではないだろうか。よほど夢月ムツキとのやり取りで疲弊しているのだろう。加えて直弥の生意気な態度ときている。椋伍は何とも言えない気持ちになりながらメロン味を、直弥は仏頂面のままイチゴ味を受け取った。

 そのまま、泉周辺の曰くが他に居ないか椋伍の目が彷徨く。


「食べる時くらいゆっくりなさいよ」


 イチゴシロップで小さな唇を潤ませながら、菖蒲が眉を顰めると「まあでも」と椋伍は口ごもる。


「泉が、ゆうべよりは雰囲気が明るいのに、やっぱり状態が良くないひとがちょこちょこ居るんで……。ユリカさんもこれ以上、壊れる魂はあって欲しくないだろうし、オレが出来ることはして行きたいです。あんまりないかもだけど」

「そう。……でもね、私これでも感心しているのよ」

「え?」

「泉自体を浄化したいと、貴方が申し出た事」


 濡れ女の退治は成された。だがはどうだろうか。

 そう疑問を呈したのは椋伍だった。

 枯れ沼行きの段取りが組まれる中、最後に椋伍が願い出たのだ。


――村の人に殺されちゃったアメフラシ、でしたっけ? それは誰が慰めてくれるんですかね? なんかこのままだと可哀想じゃないですか?

――あと、土地が泉に変わっちゃうくらいの力の持ち主だったなら、これからの事もあるし、浄化だとか、なんだとか……そういうのちゃんとやった方がいいと思います


「もう大昔の、今はもう居ない神様をどうこうしようなんて思わないもの。姉様なら考えたかもしれないけれど」

「……。そのユリカさんのおかげですよ」

「え?」


 椋伍はじゃくじゃくとカキ氷を混ぜながら言う。


「ユリカさんが泉と沼のことを言ってくれたから、オレも気になったんです。ダイゴなら何するだろうって思った時、もしかしたら神様が残ってる可能性とか考えたんじゃないかって」


 そしたらもう、泉に神様が居るとしか考えられなかった。

 そんな椋伍の予想に皆口を閉ざした。


「えっ、なんで急に静かになるんですか!?」

「神様が、居る……?」

「んー……なるほどね」

「何何、怖い。二人がそんな、訳知りな感じなのが怖い! なんなんですか!?」

「なんでお前はそう思ったんだよ?」

「えぇ? えー、だって」


 直弥が不思議そうに尋ねるのに、椋伍はしどろもどろになりながらも、甚平のポケットからスマホを取り出して言う。


「寝る前に調べたんだけどさ、あの泉ってざっくり言うと塩水なんだよね」

「お、おう」

「伝承だと、アメフラシを村人が潰して泉が出来て、その泉のおかげで村人の喉が潤ったってなってるけど……おかしくない? 塩水飲んじゃダメじゃん」

「まあな」

「そんな塩水を飲まなきゃいけない状況ってなんだと思う?」

「飢饉だねぇ」


 笑いを噛み殺すこともなく夢月が応えるのに、椋伍は強く頷いて、


「そうなんですよ。だからオレが思ったのは、アメフラシは土地を変えるくらいの力の持ち主――つまり何かの神様で、今も村人に怒ってる。泉はそのミナモトで、そこに水がある限り神様は絶対居る! と、思ったんですよね……どうですか?」

「それはあるでしょうね」


 最後にかけては力無い語調になっていった椋伍に同意し、菖蒲はふう、と息を吐き頷いた。その顔色は思わしくない。


「なんてこと……。前々から文脈がおかしいと思ってたけれど、それよ。アメフラシと海、塩水。全部繋がるわ。やろうと思えば濡れ女が居なくても、泉の神様だけで神隠市カクリシを堕とせる」

「ははっ。しかしまあ、そのアメフラシはどうして海から山を越えて来たのだか。……椋伍くん、聞けたら聞いてみる? 面白いことになると思うよ?」

「絶対変なことになりますってば。せいぜい塩かけるくらいですよ。観光地に変わる前から居る神様だし。無理です。まだ怒りシントーです」

「まァ、話の切り出し方も分かんねェわな」


 カキ氷の残り汁を音を立てて吸いながら、直弥も椋伍に同意した。なんだかんだと喋りつつ、他の皆が持っている容器も空らしい。


「まあそこは椋伍くんに任せるよ。……さて。じゃあそろそろ、その神様にお会いしに行こうか」


 キリの良さを察した夢月が容器を菖蒲に押し付けつつ、上機嫌でそう宣うのに、椋伍は塩が詰まったバッグの紐をギュッと握りしめて頷くのだった。


 そうは言っても一同が居たのは泉への道。

 十分もせずに目的地へ着くと、細道の花の老婆のように同じ挙動を何度も繰り返す不審な人影がいくつもあった。

 通りすがりに塩をかけつつ、椋伍は周囲を見渡す。

 あれほど化け物が暴れたというのに、ひしゃげた手すりひとつ、瓦礫のひとつも残っていない。全てが元通りで、まるで狐に摘まれたような顔に椋伍はなっていた。


「なんだか懐かしいジュースがあるなァ。買ってこよう」

「おうおう、好きにしろや」


 直弥が「テメェは人間以外の関係をなんとかしろ」と椋伍にひそりと告げる。

 道中、夢月が如何に人間離れしているか、そもそも同行しているのは何故か、沼の神様に対する不尊なども合わせて椋伍が話したからだろう。明らかに夢月ムツキへの目付きが悪い。

 何よりも、ユリカの現役ストーカーという説明は不味かったのだろう。

 延々と自販機に佇み、ガコン、ガコン、とジュースを買い続けている亡霊に目を止めてふらふらと行ってしまった夢月へ、冷えた返事をする友人にひやりとしながらも、椋伍は他の亡霊にも目をやった。


「記念撮影してるわね」


 夢月へのヘイトで直弥と意気投合していた菖蒲が、泉の前にいる三人組を見遣りながら椋伍へ耳打ちする。


「あれ真ん中に引きずり込まれると仲間入りするらしいですよ」

「普通の人間が?」

「はい。ノートに書いてます」

「じゃあまた塩案件ね。足りる?」

「唸るほど」

「結構なこと。泉を清めたら順に回りましょう。私が見張っておくから、手早く行ってらっしゃい」

「ハイ」


 由来の案内板の前。きゃらきゃらと笑いシャッターを切る観光の亡霊を避けて、椋伍は泉への階段を降りていく。

 昨夜までは気にもとめなかった泉の香りが、風に運ばれて椋伍の鼻腔をくすぐる。

 ただの水のようなそれは、飢えに苦しむ人間にとってどれほど魅力的だっただろうか。

 それを仕込んだ神の怒りは、どれほどだっただろうか。


――オレにはきっと分からない。でも


「せめて少しでもその傷が癒えますように」


 堕ちた苦しみは堕ちた者にしか分からない。

 井戸神の苦悩を覗き込んだことを思い出しながら、椋伍は泉の縁に打たれた杭とロープの傍に降り立ち呟く。そしてバッグから食卓塩を取り出し、ロープからぐうっと手を伸ばして小瓶を傾けて――さらりと塩の粒が泉へ降り注いだ瞬間。

 ドウッ、と激しく水の柱が建った。

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