炊事場にて
「契約成立」
にじんだ血液を左手の親指に含ませて、椋伍が用意した契約書に強く押し付ける。
血判だ、と堪らず
「うえあ……サインじゃダメだったんですか? ハンコとか」
「印鑑は無いし、こういうのは血が一番だよ」
「文化の違いってこういう時に殴りかかってくるよなァ。てかコレどこに仕舞おう?」
「
「え、そうなんですか? 便利ー。じゃあ神主さんにも、お礼に姉ちゃん直伝のやっつけ塩あげますね!」
「おお、これはこれは。ありがたく頂戴します」
それ、コンビニで買った食卓塩じゃないの。
そう
一旦、
「お食事はいかがなさいますか? すぐにご用意出来ますが」
「そういえばお腹がすいたわね。ねえ、それって美味しい?」
「ご好評いただいております」
「ふうん」
「え、さっき食べたのに? また食べるんですか?」
「気疲れでもお腹は減るのよ。それにあれはオヤツ」
椋伍が一歩引いた。
「マジかよ」と漏らすのに、家教は微笑ましげに眺め、
「それでは、湯浴みもできるようにいたしますので、どちらからでもお好きな方をお選びください。式がお手伝いいたします」
「助かるわ」
「ちょっとは遠慮しましょうよ」
「遠慮でお腹はふくれないのよ」
「俺は外食がいいな」
「え!?」
ここで遠慮を知らない部外者が増えた。夢月だ。
これに潰れたような声を出してぎょっとしたのは椋伍だけで、反論しそうな菖蒲も少々ぐらついている。
「外食か。どうせならたくさん食べたいわね」
「ラーメンとかですか?」
話がさらに膨らむ中、物は試し。
椋伍がそっと案を出すと、菖蒲は楽しげに「あら」と声を弾ませる。
「いいじゃない。替え玉無料のところとかないかしら」
「三玉まで無料のところ知ってますよ」
「ケチケチしてるわね」
「してます?」
「ラーメンかー、肉とかの方がいいんだけどなー」
「えー……うーん、まあ、そっちも捨てがたいわね」
「じゃあファミレスですかね。……神主さん、迷惑じゃないですか?」
「滅相もない」
うっかり盛り上がった話に正気に戻った椋伍が声をかけると、家教はおかしそうに笑った。
「ゆっくりしてらしてください。先程式からも報告を受けましたが、ご実家がなくなっていらっしゃるのでしょう? 私の不在時にも、自由に出入りしていただいて結構です。後ほど
「すみません」
話している間にも「何食べようかしら」
「どうせステーキとかだろう?」「うるさい」と菖蒲も夢月も自由に会話を続けている。遠慮を知らない兄妹である。
椋伍が二人の会話に再び戻ると、菖蒲の目が彼にうつり、上機嫌に話を戻した。
「それよりも時任、明日はお前のオススメのお店に行きましょうね」
「やった。多分気に入りますよ。ユリカさんが絶賛してたんで」
「行く」
「え」
「行こう、今すぐ」
行くらしい。二人同時に、椋伍は詰め寄られた。
かくして、あれほどのんびりとした空気で白熱としていた夕食会議は「ユリカ絶賛」という言葉ひとつで一瞬で塗り替えられ、ラーメンに決定したのだった。
「死ぬかと思った」
ユリカの勧めでいつか入った店。
そこで食事をし、
「トッピング教えたのに無視して帰ろうとするし。
――ラーメンひとつ、薄め、ほうれん草トッピングで
彼がぶちぶちと文句を言う間に、頭の中では例の店で注文をするユリカの横顔と赤い瞳が、何度も浮かんで消えていく。
豚骨味のそのラーメン屋は、その特殊な注文をしなければとても食べられたものではない。マズイという口コミで有名だった。
問題はその次。ユリカ曰く「店で好き放題してもいいが、その注文をしなければ包丁を持って追いかけられる」。
そう、その店も店で「曰く」だったのだ。
椋伍は今日、初めてそれを身をもって体験した。
――マズ。
――だから言ったじゃないですか!! なんでユリカさんセレクト無視したんですか!?
――約束事は嫌いだからなァ
――単純にイカレてるのよ、その男
こんな調子で、店でこの後も大分騒いだ。
あとは前述した通りだ。
追いかけられる
「塩が強いだけで並の身体能力の十三歳なんだぞ、ふざけんなマジで」
ひと通り吐き出した頃。
ピタリと椋伍は足を止めた。
「迷った。屋敷広すぎ」
純日本家屋の、それも広大な敷地に建てられた
椋伍は長く伸び枝分かれする廊下の真ん中に立つと、浴衣の袖をぶらぶらさせ、そうしてたまたま声を拾った。
――お、人いるじゃん
釣られて進めば、炊事場らしき場所がある。磨りガラス越しに人影が二つ伺えて、椋伍は表情晴れやかに、しかし控えめにガラスの引き戸をキュルキュルと滑らせ、
「あのー、すみませ」
「じゃあどうして来なかったのよ!!」
「えっ」
そこにいた
二人とも貸し出された浴衣を纏い、椋伍の声にも反応せず向かい合っている。
菖蒲の声は怒りに震え、夢月は無表情で見下ろしており、椋伍はあきらかに場違いだった。
ちら、と夢月の青い瞳が、炊事場の寒々しい明かりの下で揺れて、椋伍へとずらされる。
身を引っ込めようとしていた椋伍は、それだけで動けなくなった。微かな物音をたてることすら、しのびなかったのだ。
「役立たず? 足でまとい? ええ……ええ、結構よその通りだもの。それで姉様はむざむざ殺されたんだものね。けれどそれはお前にも言えるでしょう? だからさっき八つ当たりしたんでしょう!?」
地獄でのことだ、と咄嗟に椋伍は口を覆った。菖蒲はひとすじの涙もこぼさず、ただ怒りまかせて続けた。
「無様に後悔するのなら、お前も堕ちればよかったんだ!! それなのに、そんなザマだから、神崩れの木偶の坊だって言ってるのよ!! この馬鹿!!」
「……」
重たい沈黙が流れた。
やがて「俺は」とどこまでも静かで、低い声がその場に深く染み込む。
「ひとの死を、悼んだことがなかったからなァ」
ぶわり、と。
まるで突風を浴びた時のような記憶の塊が、椋伍の全身を包んだ。
また雪が降り出しそうなキンとした寒さ。
セピア色の景色。
焼け落ちて、未だ匂いが立ちこめる拝殿。
地面に転がされた、砂利まみれ煤まみれの
炭になった
周囲を取り囲み始める村人の、農具を構える姿のなんと無様なことか。
――ああ、これが、ひとを知ったあとの虚しさか
遠く古い記憶。
縄で縛られ、閉じていく蔵の扉を見届けた後の呟きの空虚感は、どこまでも切なかった。
これは、
「はッ……」
強く自覚してやっと、
二人を見やれば、
「今の……? オレ……」
「
「ねえ、ちょっと、なんでそんな」
菖蒲の腕を振りほどいた夢月は、迷子のような顔になった菖蒲を黙って見下ろす。
彼女はおずおずと、信じられないものを見たように続けた。
「あれは、本気だったの? 本気で会いたいだけだったの? 姉様に」
「……。だからお前は愚かなんだよ」
鼻で笑って、彼女から離れた。
椋伍のわきを通りすぎ、ガシッと腕を掴まれる。誰か。椋伍だ。
「何?」
「討論会しましょう」
「……。うん?」
決意を秘めた
「話し合いが要るんで」
「……?
「場所借りてきますんで」
「どうして?」
「家だと思って使っていいって、神主さんも言ってたし」
「聞こえてるかな?」
「ユリカさんの事でお世話になるかもしれないひと達が分裂しそうだし、ならいっそ思いっきり口喧嘩してもらっといた方が全然助かるんで」
「……」
「ボロクソな口喧嘩、しましょ」
こうして、椋伍を司会進行として据えた
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