二章

重なるひと

 地面に潜ったにも関わらず、椋伍リョウゴが土の感触を覚えたのは一瞬の出来事だった。

 水の中を漂うような無重力感が全身を覆い、それでも濡れているわけではない。水のような、空気のような真っ暗闇の中を、ひたすら菖蒲アヤメに手を引かれ、椋伍リョウゴはふわふわと歩いていた。

 それが突如終わりを告げる。


「ぶはっ! ゲホゲホッゲハ!」


 体に一気に重力がかかり、その重さに反応できずに椋伍リョウゴ菖蒲アヤメもろとも倒れ込んだ。

 固く黒いアスファルト。服越しに膝を擦りむいた椋伍は、流れ込んできた空気の清らかさにむせて、地面に四つん這いになる。


「あッやめさ、ん。無事ですか」

「ノート」


 息も絶え絶えに案ずると、彼女の方はケロッとしていた。血みどろの状態で椋伍の通学カバンを片手で差し出し、厳しい声音で言う。


神隠市カクリシノートからテケテケのことを消せ」

「えっ」

「え、じゃない。お前でないと消しても、きっと意味が無いでしょう? もしまたテケテケが出たら、お前は戦えないんだから」

「……そうだ」


 自分よりもしっかりとしている少女にたじたじになっていたが、椋伍はハッとなってノートを引っ張り出した。

 そのままテケテケの項目に黒いマジックで大きくバツ印を記し、ふう、と安堵の息を吐く。


「さ、病院行きましょ。その怪我じゃ死にかもですよね?」

「もうヒトじゃないんだから死にはしないし、治ったわよ。あとはこうしている私達のことを周りは一切気にしていないようだから、このままどこかお店に入りたいわ。飲み物とか飲みたい」


 しゃがみこんだまま椋伍が見上げると、どうやら市街地の大型デパートがある繁華街の道端だったらしい。

 まばらながらに通りすがる人は皆、椋伍たちが見えていないかのように思い思いに過ごして去っていく。テケテケの件で出くわした、居酒屋客達も酒で出来上がった様子でカラオケ店へと入っていった。

 その向かい。道路を挟んだところで煌々と光る電子看板の「M」を見て、


「Mドナルディが開いてるんで、そこ入りましょっか」


 時刻は夜九時頃。そんな椋伍リョウゴの提案に菖蒲アヤメは即頷き返したのだった。


「悪かったわね」


 飲み物という話はどこへ行ったのか。

 ポテトとドリンクのみの椋伍に対し、菖蒲はパティとチーズが二つずつ入ったバーガーのセットを二つ注文した。

 二人で出来上がりを待っていると、次々に客が来店する。

 そんな中の謝罪に、椋伍は困惑した。


「いっぱい食べるのは、いい事なんじゃないですかね……?」

「馬鹿。あの男を仕留められなかったことよ」


 ああ、と椋伍も納得する。


「でも無事に逃げられました。ありがとうございました」

「別に。お前がいなきゃ姉様に会えそうにないから、利害を秤にかけた結果やったことよ」

「それでも、助けてもらいましたから」


 しんみりとした空気に耐えきれないのか、菖蒲がそっぽを向く。椋伍は自ら「それより」と話を変えた。


「アレ、なんだったんですか? めっちゃヒトっぽいのにヒトじゃなかった。違和感と圧力が凄すぎて、もうダメかと思いましたもん」

「……そうね」


 お待たせしました、という明るい声と共に商品を受け取ると、二人は店内の二階へ続く階段へ上がった。


「今後のために話しておこうかしら。アイツの――夢月のことについて」


 角の席に着いた椋伍は、菖蒲がシート側に座るのを見届けると、自身は通路側の椅子に腰掛ける。

 やがてひとくち、彼女は飲み物を含んで語り始めた。


「私たちの家にアレが来たのは、母が身ごもっている頃のことだと聞いているわ。山にいたところを父が連れてきたんですって」

「そんな気軽に? あんなのを? お父さんちょっと鈍感だったりします?」

「まあ、事情があるのよ。……さておいて、奴は本来は旅好きで、よく遠くの山へ赴いては厄災を振りまいていた化け物だった。神々隠村カミカクリムラがその名前ではなかった頃に、当時住んでいた村人が一度祀ってしまってからは、村を中心にした四方の山にしかいけなくなったんですって」


 姉様が言っていたわ。

 そう付け加えて、菖蒲の目が僅かに切なく揺れる。それもすぐに引っ込められて、


「ヒトの真似事をして生活するのも好きで、実際にそうしている所しか私は見ていない。化け物たる所以は昔からの村の連中や、姉様が調べた事を見聞きした分――あとは、私達がまだ赤子だった頃に地獄に連れていったことくらいよ。まあ、大体どんなタチの男かはわかってもらえると思うわ」

「地獄ツアーのことは、オレもさっき聞かされました」


 忌々しげな彼女に、椋伍も同意するように表情を曇らせて告げる。


「地獄に連れてっても平気だったのはユリカさんくらいだったって」

「そういえばお前もピンピンしていたわね……。どんな身体の作りしてるのよ」

「呆れないでください。っていうか、あの時めっちゃあのひと喜んでたけど、多分ユリカさんのこと思い出して笑ってたんだろうなァ……ってカンジです。なんかオレのこと殺さないって宣言してたし」

「うえっ、気に入られたの?」


 信じられないと言った様子で目を見開き、たちまち菖蒲は顔を顰める。

 「オレも嫌です」と椋伍が悲しげにすれば、彼女は頭を抱えた。


「……え、そんなにヤバいです?」

「それはそうでしょ。大体、お前が連れ去られたことに気づけたのは、テケテケに襲われた女の子が予想より早く立ち去ってくれたからよ。戻ったらお前は居ないし、あの男の穢れが残ってるし。――わかるでしょ? あれが居た場所には独特の穢れが残るの。それで、村も滅ぼした前科があるし、地獄の件もあるでしょ? だから慌てて穢れを辿って、お前を迎えにいったのよ」

「はぁ、まあ、なんとなく分かったような」


 言いつつ椋伍が頷くと、菖蒲はふん、と力強く息を吐いた。

 疲労からか、男の厄介さからか。恐らく両方だろう。


「ありがとうございました」

「いいのよ。それよりもこれからね。奴に気に入られたのなら、なお一層油断しないようにしないと。発狂の末に死ぬわよ。今回は間に合ったけど、次はどうなるか分からない」


 さっと椋伍の表情に陰が落ちた。

 どうしたの、と声が優しくかかるが、すぐに返さない。ややあって彼はぽつりと、


「それ、菖蒲さんも当てはまりますよね? そうじゃなくてもとんでもないケガ、させたし。すみませんでした」


 そう告げて頭を下げた。

 菖蒲はぎょっとして口を開けている。


――りょうちゃんに何かあったら、お姉ちゃんが助けてあげる


 椋伍がまだ幼い頃、よく姉であるコヨリに言われていた言葉だ。

 最期には怨霊のいたずらで首を失った姉と、さきほど袈裟斬りにされた菖蒲とが、どうしても椋伍の中で重なって仕方がない。

 罪悪感でぐちゃぐちゃになりはじめる。そこへ、


「お前の姉君と私を重ねるのはやめろ」


 そう菖蒲が声を低めで突き放した。

 苛立ったようにハンバーガーの包みを開け、頬張りながら彼女は言う。


「違うだろう。お前がすることは危機感を持つこと。もう塞がった私の傷を気にすることではない」

「……」

「本当に大事な人と、そうでない人との線引きはしっかりしておきなさい。さもないと身を滅ぼすわよ」

「……」

「返事」


――返事


 椋伍はよく、ユリカにもこうして返事を促されていた。

 様々な人々がまぶたの裏で重なる中、椋伍は段々と不貞腐れたような顔になり、やがて「うぅうん」と唸って済ませた。


「お前……」

「それはまあ、おいおいってコトで許してください。もういい時間だし、食べたら寝て、明日からのこと考えないと」

「まあ、そうね。テケテケの件が神隠市カクリシと関わりがあったなら、無事に今日が終わるはずだものね」

「そうそう」

「でもネットカフェは嫌。このまま夜明けまで食べ続けましょ」

「それできるのユリカさんと菖蒲さんくらいじゃないですか……」

「んふっ」

「褒めてないンすわ」


 まったく、と言いつつもいつもの調子に戻ったことに安心しつつ、椋伍は「ちゃんと寝た方がいいです」と言い、


「オレんちに来ればいいじゃないですか。広いし、客間も来客布団もあるんでゆっくりできますよ」

「夜食も出る?」

「どんだけ食うんだよ!? 休めって言ってんじゃん!!」

「冗談よ」

「なんだ、冗談か」


 まあ別にいいですよ、と生意気に返しつつ椋伍はニカリと笑う。


「どーせユリカさんと姉妹だからめっちゃくちゃ食べるって思ってたし、体が平気なら夜食くらいご馳走するつもりだったんです。来てください。時任トキトウ家に」


 そう話していた二十分後。

 椋伍は神隠市での住まいであるマンションまで、菖蒲を伴って歩いて帰りついた――はずだった。


「何これ」


 かわいた風が吹いている。

 住宅地にぽっかりと空いた土地には「売地」と看板が立てられており、ご丁寧にロープまで貼られている。なんなら雑草もない。

 手入れが行き届いた立派な空き地に、椋伍は細い声のまま続きを漏らした。


「家がない」

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