何度でも
地を這う巨人が渓谷を徘徊する。
緑に覆われた谷を蜘蛛のように移動するドルトリンは、沢を駆けるレイアを追いかけていた。
「ち、くしょ! デカ過ぎるって!」
下半身を冷たい水で濡らし、レイアは息を切らせて逃げる。
場所が悪すぎる。
走る場所は、岩肌が剥き出しのデコボコした沢の中。
周囲は崖に挟まれていて、断崖に生えた木々が空を隠していた。
その隙間から大きな目が覗いてくるのだ。
(このままじゃ、一方的にやられる)
大きすぎる相手。
これを倒すには、どうしたらいいのか。
レイアは必死に考えた。
「くそ!」
巨大な拳が地面をぶっ叩く。
穏やかな水の流れが激しく乱れ、石の破片がレイアの背中にいくつも当たった。
相変わらずの威力は、地形を変えてしまうほどだ。
ずっと一本道の沢を下っていくと、最奥からは水を叩きつける音が聞こえた。
滝だ。
事実上、行き止まりの場所に辿り着いてしまったレイアは、覚悟を決めた。断崖をよじ登る事は出来ない事はないのだが、途中で掴まれるのが落ち。ましてや、滝に落ちたところで、ドルトリンが一緒に降ってくるだろう。
滝の手前まできたレイアは走るのを止め、後ろを振り向いた。
(大きな相手……か)
奥歯を噛み、渇いた喉を生唾が濡らす。
斧の柄を脇に挟み、じりじりと後退した。
「……お前の事……覚えてるよ」
「そうかい」
「階段を上がってきた奴らだ」
地面に爪を立てて、ドルトリンが大きな目玉を剥く。
「他の二人は、忌々しい拘束具の中で死んだっていうのに」
レイアの顔には、濃い皺が刻まれる。
悲しむ時ではないが、二人の訃報を敵から聞き、僅かに込み上げるものがあった。
死んでいた。
予測はしていたが、事実が明らかになると、例えようのないショックがあった。
「一番か弱い奴が、生きている」
「……か弱い? 言ってくれるね」
「マリアを狂わせ、私たちから全部を奪った人間達。許せるわけがない」
歯を剥き出しにして、ドルトリンが怒りの形相になった。
涎をボタボタ垂らすと、震える両腕で体を持ち上げ、再び立ち上がる。
「お前が……。お前たちのような奴ら……。創らせなければ良かった……ッ!」
心の叫びが大気を揺るがした。
レイアの鼓膜を激しく揺さぶる大音響は、内臓まで揺さぶってくる。
耳の穴からは赤い血が垂れ、レイアはひたすら耐えた。
「――消えろ」
憎しみを吐き出した直後、大きな足が巨石の如く降ってきた。
全体重を乗せた足踏みは、沢を破壊した。
大量の水飛沫が辺りへ落ちて、地面は陥没。
最早、生きてはいないだろう。と、確信を得たドルトリンの頬が、徐々に引き攣っていく。
「い、……た……。熱……っ。……痛い痛い! 痛い!」
滝から落ちていく、澄んだ水が赤く濁り出した。
出所を辿ると、ドルトリンの足裏に行きつく。
「お前らの都合で勝手に作って、勝手に絶望しやがって――」
柄頭を沢に突き立て、レイアは穂を空に向けていた。
熊を殺す時と同じだ。
大きく、重い奴が相手の時は、圧し掛かってくる瞬間を利用し、硬い物で串刺しにしてやる。
斧が頑丈なのは分かっている。
だから、レイアは踏まれる直前に姿勢を低くし、位置がずれないように斧を全身で固定した。
「何度でも同じこと言ってやる! 人間はなぁ、お前らが思ってるより、泥水啜って生きる事に必死なんだよ!」
足の裏に食い込んだ斧を回転させ、傷口を思いっきり広げてやった。
頭から大量の血を被ったレイアは、反射で離れる足に目掛け、斧を振り回す。
「他にもいるんなら言っとけ! 邪魔すんじゃねええええええッッ!」
勢いよく両断されたつま先が、ドルトリンの目の前に持ちあがった。
マリアの血肉を食らって蘇生した足は、使者を寄せ付けない材質の斧で切断された。
つまり、もう足は生えてこない。
「クソが! クソがあああああ!」
レイアはがむしゃらに斧を振り回す。
仰向けに倒れた隙を絶対に逃さずに、脛を割り、膝を割り、片っ端から斧で切りつけていった。
斧の重みと腕力でズタズタにされたドルトリンは、堪らずに悲鳴を上げる。特に、一番効いたのは、人間で言うところの股下。――急所だった。
「がッ――ああ――」
斧が食い込むと、ドルトリンは激痛の余り白目を剥く。
仰向けから腹ばいになろうとすれば、今度は背中を叩き割られた。
「お前ら、どうしてよぉ……。人智超える力がありながら、人間と対話する事を止めたんだよ!」
仲間の訃報に加え、理不尽な使者の事情。
ずっと堪えてきた感情が爆発し、レイアの目尻には大粒の涙が浮かんだ。
青白い下半身が血に濡れると、メチャクチャになった地面に斧を突き立て、顔の方に歩いていく。
「ハァ……はぁ……。こっちが、……好きで殺してると思ってんのか⁉ ふざけんなよッ!」
せめて、使者が人間と全く違うという認識のまま、対峙する事が出来ればよかった。全てを殺せば、気分だけはハッピーエンドだ。
ところが、マリアの自我が芽生えた瞬間を目撃したレイアにとって、彼女は不器用な女にしか見えなくなった。
使者にも愛情がある事を知ってしまった。
「あ……ぐ……あぁ……」
痙攣する大きな体。
どれだけ歩いたか。
レイアが顔の位置に辿り着いても、ドルトリンは意識を失ったまま。
青い血管が浮かぶ首筋の前に立ち、レイアは斧を振りかぶる。
「頼むからさ。……普通に生きる事を……許してくれ……ッ!」
指の皮同士が擦れ合い、ボロボロになったグローブからは鮮血が溢れる。
「ウオアアアアアアア……ッ!」
ほとんど悲鳴だった。
腹の底から声を絞り出し、レイアは最後の一振りを首に目掛けて振り下ろした。
動脈を切った事で、ドルトリンからは赤い噴水が飛び出す。
上から見れば、赤い花弁が満開に咲き、広がってるかのような美しさがある。濁り気のない赤い雨を頭から浴びたレイアは、一気に力を抜き、斧を適当に捨てた。
「……くそ……。疲れちゃったよ……」
膝を突いて、レイアは座り込む。
噴き出した血の上には、綺麗な虹が花のように咲いた。
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