●真夏の熱帯夜スペシャル

 しばらく海岸沿いに進むと、こんもりした防砂林が見えてきた。

 林の境界に沿って進み、坂をいくつかのぼったりおりたりするうちに、いつの間にか住宅地の中へ入りこんでいる。その中のひとつが、ばぁばの家だった。


 住宅地のどん詰まりに位置する、台形の敷地。つる草の這った赤レンガの塀で囲まれている。

 鉄門の奥には、小ぢんまりした洋風の庭。その背後にある家は三角屋根と白枠の格子窓をそなえ、漆喰しっくいの壁をちょっぴりえぐい・・・ライムグリーンにべったり塗ってある。

 門にかかった表札の表記は「YUI」──「由比ゆい」だ。


「わ。なんか、すごい家やねえ」

 ひかりが正直な感想をもらした。

 小学生の頃、わたしはこの家が好きだった。メルヘンチックな庭も洋風の外観も、なんだかテーマパークのアトラクションみたいでわくわくしたものだ。

 でも中学生になった今、改めて見てみると、少女趣味すぎて周囲から浮いている……というか、なんか空気が読めてない感じがする。

 小さいころは異国の大庭園に見えていた庭も、どこか狭くてみすぼらしく、花壇のレンガにできた欠けやひょろひょろ伸びた雑草が気になった。雨風と紫外線に洗われて色あせた小人の人形ガーデンノームがもの悲しい。


 ……これも、わたしが大人になったってことかな。


 そんなことを考えながら玄関横のチャイムを鳴らすと、しばらくして、玄関先でサンダルをつっかける音が聞こえてきた。

 白サビの浮いたドアノブががちゃりと動いて、ばぁばが顔を出す。

「はぁい。どちらさま?」

 花柄のワンピースで現れたばぁばは、確か六七歳。

 ミディアムヘアをきれいに染めて若作りしているけれど、記憶より、まぶたの下のたるみが目立つようになった気がする。

「ひ、ひさしぶり。ばぁ……おばあさま」

 軽く片手をあげてみせるわたしに、ばぁばは……怪訝そうに眉をひそめてみせた。


 あれ。


「えっと……わからない? わたしよ。わたし」


 どうしたんだろう、と首をかしげたところで、原因に思いいたった。

 この服装、というか髪型やメイクのせいだ。ついうっかり、わたしは「村上康美」じゃなく「夜神ヤミ」スタイルのほうで来てしまったのである。

 ばぁばの知っているわたしは、髪を適当に引っつめてメガネをかけ、「しもむら」ブランドで上下をそろえた典型的な地味女子だ。前髪で片目を隠してダークカラーのメイクを決め、ミステリアスな黒系ワンピースを着こんだ今の姿と、過去のわたしのイメージが重ならないのは当然である。


 それでもあえてわたしがこの格好をしてきたのは、もちろん、ひかりがいっしょだからだ。

 夜神ヤミがUMOVERとしての芸名ハンドルネームであり、わたしの本名が村上康美という平々凡々な名前である(せめて苗字が『由比』ならよかったのに!)ことは、ひかりも普通に了解している。

 だが知っているのはそこまでだ。わたしの素顔がどれほどダサいか、学校でいかなるぼっちライフを送っているかということまでは、ひかりは知らない。知られるつもりもない。

 この世界で、せめてひかりとフォロワーにだけはリスペクトされる女でいたいのだ、わたしは。底辺陰キャ地味女子の、それがなけなしのプライドなのだ。


「どうして?」


 わたしの思考は、ばぁばのうわずった声に中断された。ばぁばは両目をかっと見開き、ひとみを細かく左右に動かしている。

 様子が変だ。


「えっと……ばぁば?」

「どうして、今頃……。ママが……ママがどんな気持ちで……」

「ママ? ママがどうかしたの? っていうか、到着、午後になるって伝えてもらってなかったっけ?」


 ばぁばはよろよろと後ずさり、薄暗い扉の奥に引っこんでしまった。

 思わず、ひかりと顔を見合わせる。


「ど、どげんしたと?」

「わからない……ちょっと待って」


 わたしはあわててヘアゴムを取りだすと、長い髪を手早く引っつめた。メガネを鼻の頭にひっかけると、ドアの隙間からそうっと中をのぞく。


「ばぁば?」


 ばぁばはそこにいた。薄暗い玄関の三和土たたきに立って、靴箱の上の壁にかかった絵を、ぼうっとながめている。

 見覚えのない絵だった。

 水彩画だろうか。なんとなく素人くさいタッチで、鈴枡の海とおぼしい風景が描かれている。サイズはだいたいA4くらい。木製の額縁には、貝殻やラメがあしらわれてファンシーなのに、絵に描かれた海のほうはやけに暗いグリーンに塗られていて、ちくはぐな印象を受ける。


「ばぁば。ばぁばってば」


 もう一度わたしが呼びかけると、ばぁばがフッとこちらを向いた。ぱちぱちまばたきをすると、はじめて目の焦点が合う。


「あら。……康美ちゃん? 康美ちゃんよね?」


 にっこり笑った顔が自分のよく知るばぁばだったので、わたしは心底、安心した。


「うん。ひさしぶり、ばぁば」

「ごめんなさいねぇ。ずいぶん大きくなってたから、わたしったらびっくりしちゃったの。さあさあ、外は暑いでしょう。入ってちょうだい」

「ありがとう。それと……紹介するね。友達の、ひかり」


 わたしが手招きすると、ひかりが、緊張の面持ちで前に歩みでた。


「く、神代ひかり、です」


 ばぁばは一瞬、ひかりの真っ白な髪の毛に驚いたようだったけれど、すぐに気を取りなおして微笑んだ。


「あらあら。かわいらしいお友達だこと。最近の若い子はおしゃれなのねぇ。何歳いくつ?」

「ばぁば、わたしと同じよ。中一」

「あら、そうなのねぇ。あの小さかった康美ちゃんがもう中学生なんてねぇ。驚きだわねぇ。それじゃあ……まずはお茶の準備をしましょうか。ふたりとも、荷物をおろしてゆっくりしてちょうだいねぇ」


 ばぁばはそう言って、廊下の奥へと消えていった。

 ほっとした気持ちで、ひかりとふたり、玄関へ踏みこむ。

 靴を脱ごうと靴箱に手をかけたとき、ひやりとした液体を指先に感じた。ぎょっとして手をどけると、靴場の天板に敷かれたクロスに染みができている。

 よく見ると、例の絵の額縁から、壁をつたってごく少量の水がしたたり落ちていた。

 結露で壁がこんなふうに濡れることも、冬場ならありえる。けど、こんな真夏に……?


 気にはなったけど、深く考えるのがおっくうで、わたしはその疑問を頭の片隅へ追いやってしまった。電車内の気まずい雰囲気や、駅や砂浜で遭遇した霊のこと、そして今のばぁばの奇妙な振舞いのことで、わたしはすっかり疲れていたのだ。


 * * *


 その日の夕食は、ばぁばが腕をふるってくれた。

 からあげにポテトサラダ、ミートボール、コンソメスープ。小学校のときからわたしが好きなものばかりだ。


「たくさんあるから、どんどんおかわりしてちょうだいね。お友達も、お口に合えばいいのだけど」

「あ、はい。お、おいしい……です」

 ひかりがはにかんでうつくむと、ばぁばは「それはよかったわぁ」と大げさなくらいうなずいてみせた。

「ところで康美ちゃん、お友達は何歳いくつなの?」

「ばぁば、それ、さっきも訊いた。わたしと同じ、中一だってば」

「あら、そうぉ? ごめんなさいねぇ」


 ばぁばはそう言って笑いながら、空になった私の茶碗に手を伸ばす。


「おかわり、食べる?」

「ううん、もういい。おなかいっぱい」

「あら、だめよぉ、育ち盛りなんだからもっと食べなきゃ。普段はどうしてるの? どうせママは料理してくれないんでしょう」

「まあ、お惣菜とかで適当に」

「やっぱり。静は本当に、よくないママね。昔から、情の薄い子だとは思ってたけど」

「あー、それわかる。もううっすうっすい。体操服のゼッケンはボンドでくっつけるし、机に通信簿置いといたら新学期までの間にホコリが積もってるし、誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも現金オンリーだし……」


 わたしとばぁばが数年分の愚痴で盛り上がっていると、意外なことに、ひかりがおずおずと口をはさんできた。


「で、でも、それって……忙しいからっちゃないとじゃないの? ヤミちゃんのお母さん、お仕事しとーっちゃろ?」

「してるけど。小学校の六年間、授業参観も運動会も三者面談も学芸会も卒業式も、一度いっっっちども来なかったのよ。仕事が大事っていうか、わたしに興味ないのよあの人」

 話しているうちに、だんだん小学生時代の不満がよみがえってきた。勢い、ひかりに対しても、ぞんざいな口調が出てしまう。

 ばぁばも、皮のたるんだ首で何度もうなずいた。

「そうよねえ。康美ちゃんにこんなに寂しい思いをさせて平気でいるなんてねぇ」

「や。別に、寂しいとかじゃないけど」

「そうお? 康美ちゃんが呼んでくれたら、ばぁば、いつでもあの子の代わりに行ってあげるわよ?」

「いいって。わたし、もう中学生だし。それに……ママじゃない人が来ても、それはそれでなんか浮いちゃうでしょ」


 わたしは別に、あの人に自分の活躍を見てほしいわけじゃない(そもそも、学校行事にわたしの活躍できる場なんてありゃしない)。ただ……「母親に時間を割いてもらう」という、ごくあたりまえの、普通の経験すら手に入らないのが嫌なんだ。学校のみならず家でも要らない子だという事実が、誰の目にも見える形で開陳されてしまうのが、恥ずかしいのだ。

 わたしは運動音痴で、声も小さく、友達もいない。できの悪い子供だ。そりゃ、親からしたら可愛くないだろう。そのこと自体は納得してる。でも、だからって、そんな事実をわざわざ目の前につきつけられて平気でいられるほど鈍感でもない。

 胸の奥からどろどろとあふれ出てきた、小学生時代の暗い気持ちを、わたしは強くかぶりを振って払いのけた。

 今はあの頃とは違う。

 学校が居心地悪いのは同じだけれど、今のわたしにはUMOVEという、「ヤミひかチャンネル」という居場所がある。ひかりという友達がいる。


(てか、せっかくの夏休みなのに、学校のことなんて考えたくないっての。忘れよ忘れよ)


 わたしは自分にそう言い聞かせながら、コップの底に残った麦茶をぐっと飲みほした。



 * * *


 夕食を終え、入浴を済ませたわたしは、自分たちの部屋で動画配信の準備をはじめた。


 場所は二階の洋間。昔、ママが使っていた部屋だ。

 板張りの床に本棚と勉強机、ベッドとタンスがあるだけのそっけない部屋で、いかにも、あの人が暮らしていた場所らしい。


 わたしはそこに、録城の家から持ち込んだ配信用グッズをせっせと広げていた。スマホスタンドに充電器、延長ケーブルとマイク、雰囲気作りの青いインテリアライトと、魔除けの六芒星(自作)。

 今日は土曜日。定例配信の日だ。ただ、あいにく移動日と重なってしまったので、いつもは昼間に行っている配信を、夜の時間へずらすことにした。

 題して、「ヤミひかちゃんねる・真夏の熱帯夜スペシャル」だ。


 おおむね体裁が整ったところで、ひかりが、風呂あがりの髪をタオルでぬぐいながらやってきた。


「ヤミちゃん、お待たせー」

「ああ、ちょうどよかったわ。あと十五分で配信開始だから、準備してくれる?」

「うん」

 と、言ってもひかりはすっぴん私服で充分なので、特にやることもない。わたしの横に並んでベッドに腰かけると、ぼうっと無地の壁紙を見つめる。


 どれほどそうしていただろうか。

 ふいに、ひかりが思いつめたような声を出した。

「あのね。ぼく、ちょっと聞きたいっちゃけど……」

「うん? わたしに? ……なあに?」

「ヤミちゃん、なんでさっき、お母さんの悪口げななんか言いよったとかないってたのかなって」


 思わず手が止まった。


「……別に、悪口ってほどじゃないじゃない。ばぁばと話したら、いつもああいう感じになるってだけ」

「いつも? なんで? お母さんのこと、好いとらんとすきじゃないの?」

「好きとか嫌いとかじゃなくて……。単に、あの人ちょっと普通じゃないよね、って話」

「あ、また言った。それ、やめりぃやめなよ

「何」

「お母さんのこと、あの人・・・げななんて言うと」


 言われた瞬間――お腹の底から、不快な圧力がぐうっとせりあがってくるような気がした。


 ――なんでわたしが、ひかりにそんな口をきかれにゃならんのだ。


 わたしの家庭の内情も知らなけりゃ、ママに会ったこともないくせに。自分は叔父さん叔母さんとそこそこうまくやってるくせに。

 そもそも。

 そもそも――母親と暮らしたこともないくせに・・・・・・・・・・・・・・・

 母親がどんなものかなんて・・・・・・・・・・・・知らないくせに・・・・・・・


 喉元のどもとまでこみあげてきたそれを言葉にして吐き出す代わりに、わたしは、ふうううっと大きな溜息をついた。

 圧力メーターが下がって、少しばかりの冷静さが戻ってくる。


(あ……危なかった)

 アホかわたしは。何考えてんだ。

 ひかりのお母さんは、ひかりが幼いころに行方不明になっている。残されたひかりを男手ひとつで育ててくれたお父さんも、一年ちょっと前に亡くなってしまった。家族の不在は、ひかりの心に残された大きなきずだ。

 さっき頭に浮かんだような言葉を、ひかりにぶつけていいわけがない。


 でも……暴言を吐かずに済んだという安心よりも、そんなひどい言葉が自分の中から出てきたというショックのほうが、はるかに大きかった。

 わたしはひかりが好きなのに……こんな些細なきっかけで、あの子を傷つけそうになるなんて。


「ヤミちゃん……? ごめん、怒った……?」

 ひかりがおずおずと言った。


「怒ってないわ」


 柔らかく答えたつもりだったのに、ギョッとするほどとげとげしい声が出た。ひかりのほっぺたの線が、一瞬できゅっと固くなる。

 わたしは焦った。

 これじゃ、どう見たって怒ってる反応じゃないか。


 わたしが、ひかりに腹を立てている。

 その事実は、どうしようもないほどわたしの心をかき乱した。たったひとりの友達に対してこんな気持ちになるなんて思ってもみなかったし、そのことが嫌でたまらない。

 そんな嫌な気持ちにさせられた原因がそもそもひかりの発言にあるという事実が、下手すればまた怒りに油を注いでしまいそうで、二重に怖かった。

 わたしは大急ぎで、心の中でくすぶる火種に灰をかけた。かけた灰を上から踏み固めて、見えない場所に押しこめる。


「ごっ……ごめんなさい。本当に――本当に怒っていないの。ただ、ちょっと驚いただけ……わかるでしょう?」

「う、うん」

「さ、もう時間よ。今の話は忘れて、気持ちを切り換えていきましょう。ほら、笑って」


 わたしがうながすと、ひかりはぎこちなく笑った。一気に四ヶ月前の、出会ったばかりの頃に時間が巻き戻ってしまったようで、見ていると口の中が苦くなった。

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