◆夏の純真

 その日の夜、洗面所でお風呂上がりの髪を乾かしていると、ふらりとママが入ってきた。

康美やすみ、ちょっといいか」


 村上むらかみ康美、というのがわたしの本名である。ちなみに、ママの下の名前はしずかという。

 珍しく定時上がりで帰ってきた今日のママは、無地のシャツにブルージーンズという服装。化粧っけのない顔に、度の強いメガネを載せている。

 すっぴんメガネなのはわたしも同じだけど、ママは家にいるときもどこかパリッとした緊張感があって、わたしはそれが苦手だ。突き放すような口調のはしばしに、コミュ障陰キャでデキの悪いわたしに対する、無言の批判を感じてしまう。


「……何?」

 わたしはドライヤーを止めると、バスタオルを頭からかぶった。こっちの状況などおかまいなしに、ママは続ける。

「この前、仁見ひとみさんのお宅に泊めてもらったそうだな。ふた晩続けて、夕食もご馳走になったと聞いた」

「ヒトミさん?」

 誰だそりゃ、と言いかけて、途中で気づいた。ひかりの保護者である叔母さん夫妻のことだ。ひかりの叔母の神代くましろ由輝ゆきさんは、結婚を機に、旦那さんの仁見姓に変わっている。

 仁見さん夫婦には、先月の「カンカンカン」にまつわる一件でいろいろとお世話になった。ママが言ってるのは、そのときのことだろう。


「……まあ、確かに泊めてもらったけど。なんで知ってんの、そんなこと」

「ワッフルといっしょに手紙が入っていた」

「あ」

 しまった。中身も確認せず冷蔵庫に入れたきり、クーラーバッグのことを忘れていた。

「食費を催促するような文面ではなかったが、だからといってご馳走になりっぱなしというわけにもいくまい。康美、これで今度、お礼のお菓子でも買っていきなさい」

 そう言って、ママが突きだしたのは剥き身の五千円札である。

「現金……。ママさあ。手作りお菓子のお礼が、それでいいわけ?」

「どういう意味かな」

「いや、だから、こっちも心をこめて、何か手作りするとか」

「わたしは料理できんぞ」

「知ってるけどさあ」

「なら、議論の余地はないように思うが。わたしが付け焼刃で作った不味い菓子などより、プロが作った市販の菓子のほうがはるかに優れているのだから、そちらを選ぶのが合理的なのではないかな。もちろん、康美自身が作りたいというのであれば止めはしないが」


 わたしだって料理なんてできねーよ。あんたが教えてないんだから。

 村上静というのは、一事が万事、こうなのだ。カチカチに理屈っぽくて、効率厨こうりつちゅうで……なんというか、人間みがない。


 わたしは釈然としないまま五千円札を受けとり(もらえるものはもらっておく主義だ)、湿気をふくんだバスタオルを洗濯かごに放りこんだ。

 そのまま、洗面所を出ようとして……ふと、壁にかかったカレンダーに目が留まる。


「……もうすぐお盆だよね」

「そうだな」


 いいこと思いついちゃった。ムフ。


「あのさ。泊めてもらったお礼に、今度はうちがひかりを招待するってのはどうかな」

「招待?」

 ママの眉間みけんにみるみるシワが寄る。

「今年も盆は休めそうにないぞ」

 わかってるって。あんたにゃ期待してませんよーだ。

「この家じゃなくてさ。鈴枡すずますのばぁばの家に、いっしょに泊まりに行けないかなって話」

「母さんのところか……」

 ママの額のシワが、ますます深くなった。


 ママの母親、つまりわたしの祖母ばぁばは、駿河湾に面した鈴枡町すずますちょうという港町にひとりで住んでいる。録城こことは同じ神奈川県内ではあるけれど、日常的に往来するにはちょっと骨の折れる距離だ。

 それでも小学三年生くらいまでは、毎年夏休みになると、わたしはばぁばの家に預けられていた。両親ともに不在がちな我が家では、長期休暇中、幼いわたしの面倒を見てくれる大人が誰もいなかったからだ。

 鈴枡のばぁばは、ママと違ってとても面倒見のいい人だ。ご飯は毎食作ってくれるし、本も服も、靴も買ってくれる。

 ……けど、どういうわけか、ママとはあんまり折り合いがよくないらしい。ばぁばの名前を出したとたんに渋い顔になったのは、どうやらそれが原因だ。


 しばらくそのまま考えこんでいたママは、やがて観念したように溜息をついた。

「わかった。母さんにはわたしが話しておく。ひかりさんとあちらのご家族には自分で話して、ちゃんと許可をとるように」

「もちろん!」


 そういうことになったので、わたしはウキウキした気分で部屋に戻った。

 スマホをのぞくと、LIMEライム(トークアプリ)の着信通知が届いている。ひかりからかと思ったら、意外なことに『ディバイン・ベルズ』のチサティーさんからだった。


 10万人以上のフォロワーを誇る、わたしよりもはるかに大手の怪談UMOVERユームーバー……『ディバイン・ベルズ』。

 そのリーダー格であり、同時にモノホンの霊能者でもあるチサティーさんこと天堂てんどう智里ちさとさんとは、先月の事件を通していろいろと複雑な関係ができてしまっている。

 そんな彼女が、わたしに何の用だろう。


 おっかなびっくり折り返し通話をかけると、チサティーさんはすぐに出た。

『おー、ヤミちゃん。悪いねいきなり』

「構いませんけど。何かあったんですか」

『何かってほどじゃねーけど、フォロワー1200人達成のお祝いでもと思ってね。おめっとさん』

「……はあ。どうも」

 フォロワー10万人の人に1200人を祝われても、素直に喜びづらいんだけどな……。

『んで、最近どうよ。またぞろ変なバケモンに行き逢って死にかけたりしてねーかい?』

「お祝いついでに縁起でもないこと言わないでくれます? 怪談やってるからって、そんな毎月毎月やばいネタ拾ってたらやってられませんって」

『普通はそうだろうけどな。あんたの相方は「普通」じゃねーんだわ』


 チサティーさんが言っているのは、ひかりの体質のことだ。

 ひかりの目は単に霊が見えるだけじゃなく、この世ならざるものと強力に「つながって」しまう力を秘めている。まるで磁力か重力のように働くその力に引き寄せられて、ひかりの元には自然と怪異や怪談が集まってくるし……大きな災いをもたらす異界のものが、ひかりを利用して「こちら側」にやってこようとすることすらあるのだ。

 チサティーさんはそんなひかりの能力を警戒し、わたしたちのことをよく言えば見守ろうと、悪く言えば監視しようとしているふしがある。


「……でも最近は心霊スポットにも行ってないですし、フォロワーに変なDM送りつけられたりもしてませんから。ご心配には及ばないと思いますよ」

『そんなにわかりやすけりゃいいけどな。あんたが気づいてないだけで、もうとっくに何か・・の渦中にいるってこともありうるぜ。もしかしたら、あんたが生まれる前にはもう、はじまってたのかもしれねえ』


 電話しながら、わたしは自分の左手に目を落とす。

 手首にはめた数珠型のブレスレットは、チサティーさんがくれたものだ。黒い丸石の中に三つだけ黄水晶シトリンのつぶが混ざっていて、音を出すためのゼツの入っていない、見た目だけの鈴がついている。

 彼女いわく、わたしが本当に困ったときにこの鈴を振れば、三回だけ助けに来てくれるらしいんだけど……どうにも眉唾まゆつばだ。ま、見た目がいいからつけてはいるけど。


「生まれる前からって、それじゃ因果関係おかしくないです? わたしがひかりとコンビを組んだからこそ、怪異が寄ってくるって話だったじゃないですか」

人間ヒトの知覚する時間の流れどおりに因果が巡るとも限らんだろうさ。あたしらは所詮、釈迦シャカの手の平を這いまわるアリだ。どこが本当の始点かなんてわかりゃしねーよ。……そうさな。ここらでひとつ、怖い話をしよう』


 * * *


 怖い話をしよう。


 こいつは、90年代の半ばごろの話だ。

 当時、大学生だったある女性が、社会人の男性といい仲になった。確か、七つか八つは歳が離れてたって言ってたっけな。

 大学の夏休み、女性はふと思い立って、男性を自分のマンションへ招くことにした。狙いは、彼に手料理を振るまうことだ。ハートを射止める前に、まず胃袋を捕まえようって作戦だな。

 当日、彼女は首尾よく男性を部屋へ招きいれ、リビングへ通した。「準備ができるまで、テレビでも見ながら待ってて」とか言ってな。そんで、自分はキッチンに入ろうとしたんだが……そのときさ。

 例の彼が真っ青な顔をして、足早に玄関へ向かおうとするのが見えた。


 当然、彼女は呼びとめるわな。で、なぜ帰ろうとしたのか理由を聞く。

 彼ははじめ、しどろもどろだったんだが、やがてテレビ画面を指さして、

「あの映画がやってるからだ」

 と言った。


 そのときちょうど、テレビでは『夏の純真』って映画をやっていた。

 こいつは1980年代に公開された青春ラブストーリー映画でね。アイドルを主演に起用して、封切当時はちょっとだけ話題になったが、まぁ言っちまえばそれだけの映画だった。あたしも見てみたけど、ぶっちゃけかったるい話だったよ。ザ・昔の邦画って感じだな。

 まぁ、映画の中身はこの際どうでもいい。大事なのは、こいつが当時すでに公開から十年ばかり経った、古い映画だったってことと、別に頻繁にテレビ放送されるような人気作でもなかったってことだ。


 話を戻そうか。

 彼の言葉に、女性は納得しなかった。そりゃそうだわな。テレビで昔の映画がやってたからなんだってんだ? で……しつこく問いつめられて、男性はとうとう話しはじめた。


 実は、問題の映画──『夏の純真』は、当時学生だった彼が、はじめてできた彼女といっしょに見に行った映画だったのさ。しかも、そのときいっしょだった彼女は、それからほどなくして交通事故で亡くなっていた。


 ……ま、この先の流れは、怪談オタクのヤミちゃんならうすうす予想がつくだろうね。そう、ご想像のとおりだよ。

 最初の彼女が亡くなって以来、男性が新しい彼女の家を訪れると、決まってこの映画──『夏の純真』が視界に入るようになったんだ。

 ふたりめの彼女は、部屋にこの映画のポスターが貼ってあった。三人目の彼女は、自宅にレンタル落ちのビデオが置かれてた。そして四人目、今回の女性のときは、たまたまつけたテレビの、たまたま合っていたチャンネルで、くだんの映画が放送されていた。


「いつまで経っても、あいつに監視されてる気がするんだ」

 男性はそうぼやくと、うなだれて帰っていったそうだよ。


 とまあ、基本的には「女の執着コエ~」って感じの、セーラが好きそうな話なんだがね。あたし的には、別に気になるポイントがあるんだな。

 考えてもみてごらんよ。

 ポスターが販売されたのは、『夏の純真』の公開当時。

 レンタル落ちのビデオが大量に出回るのは、まぁ公開から二~三年後ってとこだろう。

 テレビ放送のタイミングだって、遅くとも一カ月前にはだいたい決まってるもんだわな。

 これな。

 実はどれも、男性が新しい彼女とデートの予定を立てるよりも前・・・・──下手すりゃ彼女たちと出会うよりも前のタイミングだったりするんだよ。

 仮に、死んだ最初の彼女が男性の新しい恋路を邪魔しつづけてるんだとして。

 そいつはいったい、どのタイミング・・・・・・・で介入してやがるんだ? まさか、将来自分の元カレといい仲になる女があらかじめみんなわかってて、数年単位のスケジュールでビデオを仕込んだり、テレビ局の放送スケジュールを書きかえたりしてるってのかい?


 因果だの因縁だのってのは、人間のアタマでそうそう割り切れるモンじゃないのかもしれないねえ。


 * * *


 りぃ――……ん……。


 スマホのスピーカー越しに、怪談の終わりを告げるチサティーさんの金剛鈴こんごうれいが聞こえてくる。


『と、まあ、今の自分にどんな因縁が絡みついてるかなんて、誰にもわかりゃしないって話さね。ヤミちゃんもせいぜい気をつけるこった』

 自分の言いたいことを言って満足したのか、チサティーさんはさっさと通話を打ち切ってしまった。


 なんなんだ、あの女。

 ドッと疲れたわたしはスマホを投げだすと、ベッドに寝っ転がった。

 と、その拍子に、何かがばさりと床に落ちる。

 首をねじむけてそっちを見ると、本棚の前に、中古で買った怪談本が落ちていた。

 わたしの本棚は怪談本とオカルト書籍と妖怪図鑑でみっちみちだ。そこからあふれ出たうちの一冊が、何かの拍子に落っこちてしまったのだろう。


 落ちた本の表紙には、能の小面こおもてがデザインされていた。

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