●わたしは離さない
そんな。
わたしの頭の中は、漂白されたように空っぽになってしまった。
大丈夫だと、思ったのに――。
気づけば駐車場に面した窓ガラスの向こうも、一面が暗黒の海と化していた。
ものすごい数の赤い魚が、その中を縦横無尽に動き回っている。まるで水族館の巨大水槽。でも、そこには美しさも楽しさもなくて、ただ――恐ろしいだけだった。
ちかちかと蛍光灯がまたたく。レジはいつの間にかもぬけの殻になっていた。ホットスナックの保温容器や電子レンジ、ATMの画面の中すらも黒い海水に満たされて、その中を赤い魚がぐるぐる泳いでいる。
「ひかり! しっかりして、ひかり!」
わたしはひかりの肩を揺さぶった。にじみ出る血の涙が床に散らばる。その赤い斑点を、一瞬で水が押し流した。
ドリンクコーナーの扉の隙間から、染み出すように水があふれてきていた。水はコンビニの床に溜まり、あっという間にくるぶしが浸かる高さになる。
やばい。これは、本気で、やばい。
「ひかり、なんとか……なんとか止められないの!?」
「ごめ……ぼく、できん……」
「できる! ひかりならできるわ!」
言いながら「ああ、なんて無責任な言葉だろう」と思った。
この期に及んで、わたしには何もできない。
わたしに、チサティーさんみたいな力があれば……。
ドン!!
コンビニが揺れた。棚からスナックの袋が雪崩をうつ。音のする方を見ると、正面のガラスに大きな亀裂が入っていた。
亀裂の向こうには、大きな拳。ゲンコツの形をとった赤い魚の群れが、物凄い速さで動き回りながらも、一定の形を保っている。
あの、魚群の巨人がそこにいた。
彫像のような巨大な顔の落ちくぼんだ目で、こっちを――いや、ひかりを見つめている。
ドン!!
二度目の打撃で一気にヒビが大きくなった。あちこちに穴が開いて、ドッと水が流れこむ。生臭いにおいで吐き気がこみあげた。
きしきしきしとガラスが悲鳴をあげる。水圧に耐えられないんだ。たぶん一秒か二秒後にはガラスが崩れて、一気に水が押しよせてくる。
その二秒で、わたしにできること。
わたしはひかりの手をつかんだ。接着されたように目の前の暗い海を見つめ続けているひかりの前にその手をかざして、怒鳴る。
「わたし、離さないから!」
ガラスの決壊する音。
「ひかりを、ひとりにしないから!!」
ひかりの眼球がわずかに動いた気がした次の瞬間、横からの大波になぎ倒された。
何かに頭をぶつけた。
水を吸った鼻にツーンと痛みが駆け抜け、驚いた拍子に空気を吐いてしまう。直後、頭をわしづかみにされたような苦しさが襲ってきた。
……っていうか、わたし、泳げないんだけどぉ!!
空気を求めて目を見開いた。
コンビニ内の蛍光灯が、かろうじて暗黒の海を照らす。店内は完全に水没しており、逃れるべき水面はどこにもなかった。
絶望するわたしのすぐ目の前を、巨人からはぐれた赤い魚たちがちらほらと通りすぎてゆく。
……魚?
違う。
間近で見たそれは、魚なんかじゃなかった。金属製のリボンタイというか、ねじった金属の板というか……シルエットが魚っぽいだけで、血のかよった生き物なんかでは絶対になかった。
何かもっと、別の……
目がかすむ。もうダメだ。
わたしはただ、ひかりの手を強くにぎった。せめて最後に言ったことくらいは守りたかった。これ以上、ひかりにウソをつきたくなかった。
弁当やスナックの袋や雑誌が舞い踊る中、ひかりは釘で打ちつけられでもしたように、コンビニの床に張りついたまま動かない。
わたしが、最後に目を閉じようとしたとき――そのひかりが、動いた。
ぐらぐらした動作で立ち上がり、店内に首をさしいれてきていた魚群の巨人と、正面から向き合ったのだ。
巨人の動きが止まった。
その顔が、燃えるような光を浴びて赤くきらめいている。光源はひかりだ。私の位置からは後頭部しか見えないけれど、ひかりの目から、これまで以上の強い光が放たれているのだ。
ひかりの手が、ゆっくりと――もどかしいほどゆっくりと動いて、何かを巨人につきつけた。
見えなくてもわかった。ひかりのお父さんの形見。あのメダルだ。
――こっちは……おまえの来るとこじゃ、なか。
ひかりの声がした。
水中で声なんて出せるはずはないのだけれど、確かにそれは、ひかりの声だった。
――来るな……。
巨人の顔が、歪んだ。
赤い魚もどきの結合が、みるみるほころびてゆく。指先が、鼻が、顔の輪郭が。溶けるようにほどけてゆく魚群の体を、巨人はどうにかして押しとどめようともがいているように見えた。
そこに、ひときわ大きな叫びがぶつけられた。
――来るなあああああああああっ!!
視界がスパークする。砂を吹き散らしたように巨人が崩れるのが見えて――そして今度こそ、何もわからなくなった。
* * *
「お客さん? おーきゃーくーさーん?」
目を覚ますと、知らないニイちゃんがいた。
……いや、知らなくない。コンビニの制服を着ている。さっき、レジの中にいた店員さんだ。
はっと身を起こすと……わたしとひかりは商品棚を背に、ドリンクコーナーの前にへたりこんでいた。すぐ隣で、気づいたばかりのひかりがパチパチとまばたきしている。
コンビニの店内はまったく普段通りの状態で、なぜか、わたしたちの服だけベタベタに濡れていた。
「えっと……わたしたち……」
「大丈夫? もしかして酒とか飲んでる?」
店員さんが面倒くさそうに聞く。
そりゃ、わたしたち見るからに未成年だもんな。救急や警察を呼ぶことになったら、店のお酒を飲ませたんじゃないかと疑われる。
「いえっ。そ、そんなんじゃないです。ただ、ちょっとゲームで盛り上がっちゃって、寝てなくて。あは、あはは」
「あー。夏休みだもんね。でも、うちの床で寝るのはちょっと……」
「も、もちろんですごめんなさいっ。すぐ帰りますっ!」
反射的に立ち上がったわたしは、片手にグッと妙な
わたしは固く指をからめ、ひかりの手をにぎりしめたままだった。
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