●襲撃

 今日もママは職場に泊まると聞いていたので、スーパーに寄って、冷凍のお惣菜と弁当を買って帰った。

 買ってきたものを冷蔵庫につめこみ、リビングでひと休みしていると、


 ピーン……ポーン……。


 ドアチャイムが鳴った。


「はあい」

 返事をしてから、まだメイクを落としてなかったことに気づく。


 もし、同じマンションの誰かだったら、こんなバッチリキメた顔を見られるのは気まずい。ママやパパの耳にそのことが入ったら余計に面倒だ。わたしがUMOVERユームーバーやっていることをリアルで知っているのは、相方のひかりだけなのだし。


 ピーン……ポーン……。


 来訪者はしつこくチャイムを鳴らしてくる。

 しかたなく立ちあがったわたしは、ひとまずドアモニターを確認しに向かった。ふと、先週の配信で話した「塩を崩す」のことが頭をよぎる。

 ――もしもドアモニターの画面に、灰色のスウェットを着た男が映っていたら……。


 って、そんなバカな。何を考えてるんだ、わたしは。


 妄想を振り払いながら、モニターをのぞく。そこには……。


 誰も映っていなかった。


「あれ?」


 玄関へ走ったわたしは念のためチェーンをかけてから、ドアを開けた。

 廊下を見回す。やっぱり、誰もいない。


(ちえっ。イタズラか)


 腹立ちまぎれにドアを閉めた、そのとき。


 とす、とす、とす、とす……。


 足音が、わたしのすぐ後ろを通りすぎていった。


 ギョッとして振り向く。誰もいない。

 当たり前だ。今、家にいるのはわたしひとりなんだから。

 空耳? それとも……泥棒?


 わたしは足音の消えた方向を目で追った。自分の部屋のドアが半分開いている。

 おっかなびっくり近づいて、室内を覗くと、中で濃いブルーの影が動いた。


「ひっ」


 叫び声をのみこむ。

 いや、落ち着け。よく見ろ。あれは――。

 カーテンだ。


 そう。動いているのは、わたしの部屋のカーテンだった。


 思い切ってドアを開ける。

 部屋に人影はなく、ただ、全開になった窓から吹きこむ風でカーテンがはためいていた。

 わたし……出かけるとき、窓閉めていかなかったっけ……?


 わたしはそーっと窓辺へ近づいてみた。

 誰もいない。おかしなものもない。

 開けっぱなしの窓のむこう、夕焼けの空をバックに、影絵のようになった街が広がっているだけだ。


(気のせいか……)


 ほっとして振り向くと。

 部屋の入口に、真っ白な顔の老婆が立っていた。


 穴のように真っ黒な目。真ん丸に開けた口の中も、同様にどろりと暗い。長い茶髪をフランス人形のようににカールさせ、ピンクのネグリジェから、骨のような手足が伸びている。


 わたしは固まって動けない。そこへ、両腕を突き出しながら老婆が突進してきた。


 まともにぶつかる。枯れ枝みたいに硬くてざらついた指がのどに食いこんできた。


 そのまま強く押される。わたしの上半身が、開けっ放しの窓から外に乗り出した。目に映る世界が上下反転する。見下ろすはるか下には、コンクリートの駐車場。ここは五階だ。


 落ちる。死ぬ。


 電気に打たれたみたいに体の感覚が戻った。

 足を踏んばる。両手を伸ばして、ギリギリで窓の枠をつかんだ。けど老婆はそれ以上の力で押してくる。

 喉が絞まって息ができない。耳鳴りがする。目の前が白くぼやけてきた。


 老婆の顔はファンデーションをぬりたくったみたいに白く、ひび割れていた。大きく開いた口からボボボボボと風音を立てながら、冷たくて、魚の腐ったような臭いのする息を吹きかけてくる。


 思考する余裕なんてなかった。ただ、落とされまいと必死だった。


 相手と自分の間にむりやりヒザをねじこむと、少しだけ相手の押す力が弱まった。

 ほんのわずかに生まれた隙に、ポケットを手探りする。ハサミかカッター。いや、安全ピンでもなんでもいい。なにか武器になるもの。

 そう思っていると、硬いゴロゴロしたものが入った袋に触れた。わたしは無我夢中でそれをつかむと、老婆めがけて投げつけた。


 袋が当たった瞬間、老婆の姿はパッと消えてなくなった。袋はそのまま虚空こくうを突き抜けて、フローリングの床にボトッと落ちた。


 キンキン頭を刺していた耳鳴りが、徐々に遠ざかっていく。


 わたしは床にへたりこんだ。

 部屋の中はウソみたいに静まりかえっている。胸を連打する心臓の鼓動と、自分の呼吸音ばかりがやけにうるさい。


 今のは何? 夢? 妄想? 白昼夢?


 這うようにして、床に落ちた袋へ近づいてみる。

 確かめもせずに投げつけた袋の正体は、岩塩のかけらを入れていた巾着ポーチだった。ディスカウント雑貨のホンキマートで買ったやつだ。


 袋はやけにぬめっていた。

 中を開けるとプンと生ゴミの臭いがして、岩塩が全部、どろどろに溶けているのがわかった。


 夢じゃない。

 全部、現実だった。

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