●鏡

 と……そのとき。わたしの下腹部に鋭い痛みが走った。

「うっ」

「……ヤミちゃん? どーしたと?」

「ちょっと体調が……。軽い霊障れいしょうね。わたしの怪談に惹かれて集まってきた低級霊の仕業に違いないわ」

「えっ! お、おる? なんかおる?」

「大丈夫。六芒星にはじかれて出て行ったから……けど、念のため、少しお休してくるわね」

 オーバーリアクションであたりをキョロキョロするひかりをなだめながら、わたしは立ち上がった。

 脇腹はまだ、見えない手にわしづかみにされたような痛みに疼いている。

「大丈夫? ぼく、一緒に行こうか?」

「平気よ。ひかりはちょっと雑談していて。フォロワーのみなさんを退屈させたら申し訳ないもの」

 まだ心配そうにしているひかりに微笑みかけ、わたしは静かに部屋を出た。


 クーラーをキンキンに効かせた部屋から出たとたん、むっと熱い空気が押しよせてくる。たちまち全身に汗が浮かんだ。

 わたしはそっと部屋のドアを閉めると、


 トイレ目指して廊下を猛ダッシュした。


 ――じゃごーっ、ずごごごごごごごごごご。


「はぁ~っ。セーフセーフ」

 出すもの出してスッキリしたわたしは、タイツをずり上げながら立ち上がった。


 え?

 霊障れいしょうはどうしたって?

 いやいや、そんなの、キャラ作りの演技で言ってるだけに決まってるじゃないですか。……っていうか、霊なんてホントにいるわけないし。

 わたしのフォロワーはノリがいいから、わたしが「霊障れいしょうだ!」と言えば合わせてくれる。そこらへんはフォロワーと配信者の信頼関係というか、共犯関係みたいなものだ。ミステリアス霊感美少女はトイレに行かない。いいね?


 わたしは手を洗うついでに、メイクも軽く直していくことにした。

 ロングヘアを軽くなでつけ、アイラインとダーク系の色つきリップを引き直す。


「ん。これでよし」

 鏡を覗けば、夜神ヤミわたしが見つめ返してくる。透明感のあるひかりの美貌と好対照をなす、ダーク系ミステリアス霊感美少女。

 でも、それはわたしであって、わたしではない。

 夜神ヤミは虚飾のわたし。

 一から十まで作り物のわたしだ。


 自分の素顔を思い出すのに、鏡は要らない。まぶたを閉じるだけで、ありありと脳裏に浮かびあがってくる。

 後ろにひっつめた髪に、セルフレームの眼鏡の奥の卑屈なまなざし。根暗で、ぼっちで、オタクな地味女子そのままの姿。

 それがわたし。本当のわたし。

 名前を、村上むらかみ康美やすみという。


 夜神ヤミは、わたしが配信のために作りあげたキャラクターにすぎない。

 見た目を盛って。口調を作って。小学校のころ「村上、やすみかぁ。あっ、いたかぁ。わははは」と何度も何度もイジられてすっかり嫌いになった本名を隠して。

 もちろん、霊感があるなんていうのもウソっぱちだ。

 だからって、悪いことをしているとは思わない。

 そもそもオカルトはエンターテイメントなのだ。本気で信じこんで、宗教だのスピリチュアルだのにドハマりするようなヤツがいたら、そっちのほうがバカでしょって感じ。


 目を開けば、鏡の中のヤミが皮肉に笑っている。

 ……違和感をおぼえたのは、そのときだった。


 うちの洗面台は、バスルームの入り口に面している。鏡の前に立てば、背後に映るのは浴室の折り戸だ。

 その、りガラスでできた折り戸のむこうに、なにやらピンク色の影が映っていた。

 りガラス越しだから、輪郭がぼやけてよくわからない。けど……そもそもうちのお風呂に、ピンクのものなんか置いてあったっけ?


 折り戸をからりと開いてみる。

 なにもない。

 よく見慣れた、白タイルのバスルームがあるだけだ。


(……見間違いか)

 拍子抜けして振り向いた瞬間、鏡が割れた。

 バリッという音と同時に、事故車のフロントガラスみたいな放射状の亀裂が走ったのだ。

「えっ!?」


 わたしは何もしてない。手も触れてない。


 あたりを見回したけれど、原因らしいものは何もなかった。

 無人の洗面所はシンと静まりかえっている。


「……ま、まさかね。」

 きっと、寿命だったんだ。でなきゃ夏の暑さで変形したフレームが金属疲労を起こしたとか、なんかそういうのに決まってる。きっとそうだ。


 お化けなんていない。

 あんなものは誰かの見間違いか作り話だ。ひかりだって、心の中ではそう思っている。

 そのはずだ。

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