第16話
だが、彼等が東の山脈にたどり着くことはなかった。
岩室を発ってから二つの夜と昼を過ごし、再びの夜が明け、もう少しで「楽園」に辿り着く頃。
橇の上のフウガは、クウガの息が不自然に上がっていることに気付いた。
「ばうっ」
呼び掛けと同時に、クウガの身がくずおれ、そのまま砂に倒れ込んだ。
慌てて橇から飛び降りたフウガは、横たわるクウガの顔を舐め、その熱さに驚く。
薄く目を開けたクウガは、ゆっくりと手を伸ばし、心配そうなフウガを宥める様にその鼻先に触れ、
「こけちゃった。笑うなよ? ちょっとおっちょこちょいな位が、モテる秘訣なんだぞ……」
クウガはだるそうに身体を起こすと、橇に乗せた荷袋から薬を取り出し、無理矢理飲み下す。
街を出る時から、クウガは己の異変に気付いていた。やけに身体が怠い気はしていたのだ。おじさん家の子が熱を出していたから、それがうつったのだろう。
その病は子供がよくかかるもので、しばらく怠さが続いた後、突然高い熱が出るのが特徴だった。とはいえ、薬を飲み安静にして熱を逃がしてやれば大事に至ることは滅多になく、大抵は三、四日でケロリと治まる。
身体の丈夫なクウガは、病を甘く見てしまった。どんな軽い病でも、突然牙を剥くことがあると知っていながら。
クウガは
(薬は飲んだ。大丈夫だ。暑い。これから、どんどん砂漠は暑くなる。せめて、日を除けなきゃ。フウガを連れて行くんだ。ああ、喉が渇く。フウガにも水を飲ませなきゃ。暑い。寒い。行かなきゃ)
フウガが吠えた。
やめろ!
服を咥え引っ張ると、クウガは簡単に倒れこみ、そのまま気を失ってしまった。ぐったりと重いその身体を橇に引き上げ、フウガは思案した。
クウガには水が必要だ。あそこなら、まだ水が在るかもしれない。
フウガは橇の縄を咥えた。今度は自分がクウガを助ける番だ。
「楽園」に向け、フウガは砂橇をゆっくりと牽き始めた。治りかけの脚がずきずきと痛みだしても、足を止めることなく歩き続けた。
日が高くなり、目指す場所が近付くにつれ、フウガの胸にざわざわと不安が押し寄せる。
――水の気配が薄い。
外れて欲しい予感程、よく当たる。
ようやくたどり着いた「楽園」は、殆ど干上がってしまっていた。クウガを乗せた橇を木陰に運び、フウガはかつての水底に滑り降りた。僅かに残った水は濁り、とてもではないが、弱ったクウガに飲ませる事は出来そうもない。
せめて頭だけでも冷やしてやろうと辺りを見回したが、水を含ませることが出来そうなのは、左前脚の青い布しかない。少し躊躇った後、なんとかそれを脚から解くと、僅かな残り水に浸して駆け戻り、真っ赤な顔のクウガの額に乗せた。
クウガが薄っすらと目を開き、上手く焦点が合わない目できょろきょろとフウガを探す。
フウガがクウガの手に鼻を押し付けると、
「ここ、どこ……ああ、『楽園』か……フウガが連れて来てくれたのか……脚、平気か? ごめんな。約束したのに、東に連れてってやれそうもない。だから、フウガはもう行って……俺は、大丈夫だから……」
大丈夫、大丈夫と繰り返すクウガに今必要なもの。「ニンゲン」なら、きっとクウガを助けてくれる。フウガは決心した。
「街」に行かなければ。
走り出そうとしたフウガの尾を、思いがけない強さでクウガが掴んだ。
「駄目だ。そっちじゃない。フウガは東に行くんだよ。街じゃ皆、殺気立ってる。フウガが行ったら、ひどい目に合うかもしれない。だから、駄目……」
そしてまた意識を失った。
緩んだ手から尾を外したフウガは、クウガの顔を覗き込んだ。ぐっしょり濡れていた筈の布は、クウガの額の上ですっかり乾いてしまっている。再び布を濡らし、クウガの額に乗せると、フウガは走り出した。
頼む、誰か、クウガを助けてくれ! クウガが助かるなら、俺の肉でも毛皮でも好きにしていい。だから、俺の大事な友を助けてくれ!
脚はひどく痛んだが、そんなことはどうでもよかった。群れに戻ることなど、思い浮かびもしない。ただひたすら、フウガは「街」を目指した。
辿り着いた「街」は、砂や獣の侵入を防ぐ大門が閉ざされていたが、その向こうから感じる慌ただしい気配に、フウガは胸を撫で下ろした。
間違いなくニンゲンはいる。あとは、こいつらをクウガの所に連れて行けば、きっと。
フウガは吠えた。爪が割れる程がりがりと激しく門を引っ掻き、吠え続けた。
だが、どれ程吠えてもニンゲンは姿を現さなかった。それどころか、フウガが吠えるほど、その気配は減って行く。
いつまでも開かない門に、仕方なく傍のルビアから実をむしり取ると、フウガは急いでクウガの許に引き返した。ルビアの棘に刺された顔や胸元からは血が滲み、脚を引き摺るフウガは満身創痍だった。
「楽園」に戻ると、橇の上に居た筈のクウガが砂の上に倒れていた。手には、あの青い布をしっかりと握って。
フウガは察した。クウガは、自分を追いかけようとしたのだ。
傷だらけの身体を引き摺り、ルビアの実を乾ききってひび割れたクウガの口元に押し当てる。
「美味しい。ありがとう、フウガ……」
クウガの声は細く、息は荒い。フウガは、急いで木陰までクウガを引き戻し、その胸に鼻を押しつけた。ドク、ドクリと不規則な心臓の音は濁り、ゴロゴロと雑音混じりの空気が肺を出入りしている。
クウガはゆっくりと手を伸ばし、フウガの鼻面を撫で、弱々しい手と裏腹なしっかりとした声で言った。
「あのね、俺がフウガと居たのは、自分の為になんだよ。だから、フウガも、フウガの為に行って。どうか自由に。俺は、大丈夫、だから」
フウガは吠えた。
吠えて、吠えて、吠え続けた。
しっかりしろ。俺がついてる。ずっと傍にいるから。離れないから。だから、起きてくれ。
友の悲痛な叫びに、祈りを知るクウガは願った。
(神様、多分俺はもう駄目です。こんな粗末な命ですが、引き換えに願いを叶えて下さい。俺の大事な親友を、望む場所に連れて行ってあげて下さい。俺の為に傷付かないように、俺を忘れて自由に生きられるようにしてやって下さい)
クウガの呼吸が段々と小さくなる。
神を知らないフウガは叫び続けた。
ニンゲン! ここに来てくれ! ああ、俺がニンゲンだったら……! 頼む、ニンゲン! クウガを見付けてくれ! ニンゲン! ニンゲン!
クウガの呼吸が止まってからも、フウガはクウガの傍を離れず叫び続けた。
永い年月、ずっと、ずっと……
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