第15話

 それからも日に一度は必ず、クウガは岩室を訪れた。

 フウガの傷の手当てをし、青い布を丁寧に巻き直す。それが終わるとフウガの水と食料を用意し、一日の内のわずかな時間を共に過ごす。楽しそうに何かを話すこともあれば、黙ってフウガの隣に座っているだけの時もあった。


 クウガの言葉は、フウガに伝わる時も伝わらない時もあったが、そんなことは互いに気にならなかった。時折姿を現す毒蛇に大騒ぎしたり、身を寄せ合ってそれぞれの体温を感じていると、一人と一匹は、ずっと前からそうしていたような気がしてくるのだ。


 そうして過ごす様になって、幾つかの夜と昼が過ぎた頃。クウガは寝そべるフウガの傷の手当てをしながら、


「最近、井戸が変だって皆が言ってる。街だけじゃない。西の山も、『楽園』も変なんだ。水が減って濁って来てるし、地ネズミとかも居なくなってる。それに、新しい海路が拓けたとかで、北の街に行くのに砂漠を越える商人達もずいぶん減った。近い内、あの街じゃ暮らせなくなるかもしれない。その前に、フウガを東の山脈の向こうに連れて行くよ」


 フウガが驚いて首を起こした。クウガが小さく笑う。 


「だって、初めて会った時からいつも東の空を見てるもの。行きたいんだろ?」


 暫くフウガの首筋に頬をくっつけていたクウガは、やがて身を離し、フウガの瞳を覗き込んだ。


「フウガの望み、叶えるよ。約束する……ほら、今日はカームの肉と乳を持って来たよ。生ものだから、お早めにお召し上がり下さい」


 差し出された肉を、フウガは黙って齧った。それは何だか、いつもよりも味気なく感じられた。


  *


 それから更に幾つか昼と夜を廻った、ある日。


 何時もなら、どんなに遅くても日没から数刻の間には必ず顔を見せていたクウガが、その日はまだ姿を見せていなかった。前日は朝早くにやって来てたから、一日半以上現れていないことになる。

 クウガは何時も多めに水や食料を用意しているので、フウガが困ることは無かったし、クウガが自分を見捨てるなどとは一瞬でも考え付かなかった。ただ、彼の身に何かあったのかもしれないと思うと、居てもたっても居られず、フウガは岩室の中で立ったり座ったりを繰り返していた。


 「街」に行くのは躊躇われた。群れのかしらの言い付けもあったし、クウガも決して自分を街に連れて行こうとはしなかった。行くべきでないことは分かり切っている、が。


 ――遅い。


 とうとう痺れを切らし、岩室を一歩出たフウガは、風が運ぶクウガの匂いに気付いた。安堵と同時に、こんな夜中に一匹で来るなんて、という憤りに鼻を鳴らす。踵を返し、岩室の奥の定位置に戻り寝そべって、じっとクウガを待った。

 暫くして、フウガを呼ぶクウガの声が岩室に反響した。


「フウガ! 出て来て」


 いつもと違う切羽詰まった調子の声に、フウガは耳をぴくぴくさせて身を起こした。

 岩室から姿を覗かせたフウガに、クウガは背後に牽いていた橇を指し、


「お待たせ、フウガ。これに乗って。今日は砂場を行くから、この前みたいに揺れないから」


 そう言いながら、手に下げていた角灯を地面に置き、せかせかと橇の用意を始めた。

 あれには二度と乗るまいと決めていたフウガだったが、クウガの有無を言わせぬ気迫に大人しく従う。フウガが橇に乗り込むと、クウガは黙って橇を牽き始めた。


 岩場を抜け、砂地を滑らかに進み始めても、クウガは無言のままだった。時折立ち止まって小休憩を取る間も、殆ど喋らない。ただ黙って、フウガの頭を撫でる。

 何度目かの休憩の後、クウガが橇を牽きながら、ぽつりと。


「皆で、街を出ることになったんだ」


 街では、水不足がいよいよ深刻な問題となっていた。徐々に水量が減ってきていた井戸が、ここ二、三日で次々と枯れてしまったのだ。

 他の土地に当てのある者や身軽な者、利に敏い者は、とうに街を出ている。今も残っているのは、子供や老人のいる家や、小回りの利かない商売をしている者が殆どだった。

 皮肉にも、街の人口が減ったことで水不足は一時的に緩和され、その間に、街の代表が北の渓谷を越えた先の街に援助を求めた。

 北の街では、水が枯れるどころか増水の兆しがあるくらいだったし、近頃は交易地として景気も良く、まだ砂漠に残る全員を引き受ける余裕があった。

 結局、砂漠の住人達はこぞって北の街に越すことになった。それぞれに移住の準備を始めた矢先に、井戸が枯れ始めたのだ。


「おじさん達には、先に行っててくれるよう書き置きしてきた。フウガを東に連れて行くのはもう少し後でって思ってたけど、きっと、もう街には……この砂漠には、戻ってこない。だから今日、約束を果たすよ。東の山脈に行こう。山を越えるまで、脚は温存しておいて」


 フウガの群れが故郷を離れたように、クウガの仲間達も新たな土地に行くのだ。そうフウガは理解した。

 それは、フウガとクウガの別れを意味していた。


「誰かが待っててくれるって、嬉しいもんなんだな……知らなかったよ」


 クウガが小さく笑った。

 最初は気まぐれからだった。砂漠で死にかけてる動物なんて、左程珍しい物でもない。あわよくば、新鮮なうちに皮でも剥ごうかと近寄っただけだった。

 けれど、頭を起こした黒犬の金色の瞳に宿る意志が、クウガを射抜いた。

 運命を受け入れ、それでも戦う心を持ち続ける強い眼。決して折れない逞しさ、最後まで足掻く覚悟。それは、自分がそうありたいと願う姿そのものだった。

 気付けば、身体が勝手に動いていた。


「フウガのこと考えると、仕事もいつもより頑張れた。その青い布はね、母さんが縫ってくれた服の一部なんだ。母さんの顔は忘れたけど、お前の眼と同じ色だよって言いながら縫ってくれたのは憶えてる。父さんも、よく似合うぞって褒めてくれた。小さ過ぎて着れなくなっても捨てられなかった」


 フウガを振り返り、クウガはにこっと笑った。


「フウガに使えて良かった。山脈越えたら、それ、返してな。それで、俺の……人間の事は忘れて。大丈夫、フウガが俺を忘れても、俺がフウガを憶えてる。その布が、今度は大事な友達を俺に残してくれるんだ」


 フウガは、友と離れがたかった。だが子供のクウガには、群れで学ぶべき事がまだ沢山あるに違いない。きっと街に馴染めないだろう自分を連れていることは、クウガにとって有利に働かないだろう。


 クウガは、街の窮屈な暮らしにフウガを巻き込みたくなかった。大事な友には、厳しくも大らかな自然が似合う。それに、離れても、忘れても、変わらぬ心があることを自分は既に知っている。


 それぞれの世界で生きて行くべき時が来たのだ。


  *

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