第3話

 彼女の綺麗な顔が思い切り歪んだ。


「誰が人間ですって? 無礼ですね。ですが、どうやら助けていただいた身、一度は見逃しましょう」

「いや、何と言われようと、お嬢さんはニンゲンにしか見えないけど」


 青年の言葉に、彼女は不機嫌を隠さない低い声で、


「見逃すのは一度だけ、と言った筈です。その言葉、後悔なさい」


 ほっそりとした二本の腕が、岩に張り付く青年に向けて伸ばされる。

 青年は怯んだように固く目をつぶり、身を縮めた……が、しばらく待っても何も起きない。青年がそうっと開けた目に、自分の両掌りょうてのひらを不思議そうに眺める彼女が映る。


「…………?」

「…………?」


 再びの沈黙の後、ぽつりと。


「……どうしてわざが使えないのでしょう?」


 突然、彼女は目を見開き、驚きの声を上げた。


「貴方、何故私の姿が見えているの?」

「ええ、今更? て言うか、見えたら変なのか?」


 青年が彼女の額に手を当て、


「熱でやられてるわけじゃなさそうだ」


 彼女はその手を振り払い、語気を荒げた。


「気安く触らないでちょうだい!」

「何だかよくわからないけど、落ち着いて。最初から触ってただろ? ああ、俺が見ず知らずだから嫌なのか? 俺はフウガって言うんだ。フ・ウ・ガ。初めまして」


 青年――フウガの言葉が耳に入らないのか、彼女はブツブツと小さくひとちている。


「何故、人の身で私に触れる事が出来るのかしら」

「え? なんて……ああもう、三回目だ。触ったのは、あんたが心配だっただけだよ」

「…………」

「…………」


 まるで噛み合っていない宙ぶらりんの会話から、三度の沈黙。と、何をひらめいたのか、彼女は目を輝かせ、


「もしかして、同業者の方ですか? だとしたら、私の方が無礼でした。申し訳ありません。もしご存じなら、お教えくださいまし……業も使えず、飛ぶことも出来ないのは何故なぜなのでしょう。それに、体中がひりひりするのです」

「肌がひりひりするのは日焼けのせいだ。そんな薄着してたら、あっという間に黒焦げだぞ。それに、同業者? お嬢さん、砂漠の過ごし方を全然知らないみたいだけど、何してるヒト? そんなんでどうやってここまで来られたんだ?」

「どうやってって、もちろん空、から……」


 ここに至って、ようやく自分の身に起きたことに理解が及んだらしい。彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと涙が零れた。

 フウガは慌てて、


「ええ、どうした? 俺、何か変な事言ったか?」

「……なん、で、こんな、ことに……」

「何だかよくわからないけど、ほら、泣き止んで。そんなに泣くと干からびちゃうぞ」


 震える彼女の細い肩に、おろおろと伸ばしかけたフウガの手が途中で止まり、仕方なしに巻きつけた布の上から自身の頭をぽりぽりと掻く。

 やがて嗚咽が小さくなり、顔を上げた彼女に、フウガは水袋を差し出し、


「喉乾いただろ? はい、水。でも、あんまり沢山飲んだら駄目だぞ。腹に悪いし、ここじゃ見ての通り水は貴重なんだ」


 一口水を含み、彼女は頭を下げた。


「……ありがとうございます。助けて頂いたのに、きちんとお礼も申しておりませんでした。大変失礼いたしました、フウガ様。感謝いたします」

「“様”付けなんて止めてくれ、フウガでいい。で、お嬢さんは何でこんな所で行き倒れていたんだ?」


 水をフウガに返し、彼女はまだ涙の残る目元を細い指で拭うと、赤くなった鼻をすんっと鳴らす。


「申し遅れました、私はマイアと申します。『死の砂漠』を目指しております」

「さっきもそんな事言ってたけど、それが、お嬢さん……マイアの仕事に関係あるのか?」


 マイアは頷き、


「『死の砂漠』には夜な夜な幽霊が出没するらしく、あやしい人影が彷徨っているとか、時折恐ろしい叫び声が聞こえて来るという話でした。そのせいか、砂漠を行き交う人々が随分と減ってしまったのだとか」


 フウガが眉を顰めた。


「ある街の神官達から、近くの砂漠に現れる幽霊をどうにかしたい、という願いが届きました。その幽霊のせいで廃墟になった街もあるのだそうです。過酷な地の事、街が廃れてしまうのは仕方ないにしても、せめて砂漠を平和に保ちたい、という願いは真摯なものでした。私はその事前調査の為、『死の砂漠』に向かう途中でした」

「ふうん。じゃあ、やっぱり場所が違うな。確かにここから北の方に行くと街はあるけど、廃墟なんかじゃないし、砂漠に幽霊が出るなんて話も聞いたことないぞ」


 フウガは首を傾げ、小さく唸った。


「それにしても、一人で調査するのか? どんな所か知らないけど、『死の砂漠』なんて穏やかじゃない名前の所なんだろ。不用心にも程がある。行く前に下調べはしなかったのか? 偉い人にでもいじめられてるの?」

「この仕事は、私の能力ととっさの判断力を見る為の物でもあります。ですから最低限のことしか調べてはいません。それに、貴方だって砂漠に一人じゃありませんか」

「俺は地元民だもん」

「とにかく、調査を始めようとこの上空を飛んでいる途中で、急に落下してしまって……理由は全く分りませんが、どうやら肉体を得て人間になってしまったようです。それにしても、まさか調査地を間違えていたなんて、とんだ失態だわ。本来の神の身であれば、すぐにでもここから去る……」

「え? なんて?」


 四度目の科白が、マイアの言葉を遮った。


「すぐにでもここから去るのに、と」

「いや、その前」

「神の身で受肉してしまったと」

「え? 何て?」


 五度目の科白。


「ですから、神の一員だと言ったのです……まだ、下っ端ですが」

「…………」


 フウガは左右に目を泳がせ、口元に曖昧な笑みを浮かべた。

 その口からは、六度目の科白が出る事は無かった。


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