第2話

 初めて実際に目にする砂漠は、想像していたよりも凶暴で、寂しく、それでいて不思議な魅力で彼女の心を捉えた。茫々たる景色に、彼女は立ち尽くした……立ち尽くす、という表現は適切ではないかもしれない。その身体はくうにあるのだから。


 上空から目を凝らせば、砂の海は、ごつごつとした岩肌の標高の低い山脈に囲われているのが見て取れた。山脈は南北に切れ目があり、山頂を越えた先は草原になっている。東は豊かな草原、西は荒い砂混じりの草原、そして彼女の背後、山脈が途切れる南側は、遠のくにつれ砂の黄色から徐々に緑を含むものへと変化を見せる。眼下に広がる景色だけが、まるで塗り忘れたように単色のまま置かれている。


 空中で縫い留められたように眺めていた彼女は、やがて一人頷くと、北西に向かって動き出した。

 あちこちから巻き上がる砂まじりの熱風に、髪のひとすじも揺らめかせることなく、ゆっくり、ゆっくりと、滑らかに飛んでいく。

 誰も見る者の居ない空を、ゆっくりと高度を下げながら……。


 ふいに。


「きゃあ!」


 彼女の身体が揺れた。そのまま大きく体勢を崩した身は大地に引き寄せられ始め、何が起きたのかを理解するより早く、砂地に落下した。


「う……」


 痛みと衝撃に、身じろぎも出来ず呻く彼女の黄金色の髪を、風が激しくかき乱す。

 しばらく砂の上で喘いでいた彼女は、やがて上体を起こし、目を見張った。辺りを見回し己の身体を抱きしめると、よろよろと立ち上がり、彼女は何処へともなく歩き出した。

 そして……


  *


 口元に触れる何かが、暗転していた彼女の意識を呼び戻した。

 薄く開いた目に映ったのは、動物の皮で作られた水袋だったのだが、目覚めたばかりの頭は、それが何なのかを考える余裕など無い。ただ、目の前のそれから水の匂いを感じた途端、ひったくるように抱え込み、ごくごくと中身を貪り始めた。

 ぬるい水が乾ききった彼女の喉を、全身を、潤していく。風の音に混じる声にも気付かず喉を鳴らし続ける。

 更に水袋を傾けようとするその手を、背後から伸びた大きな手がそっと阻んだ。


「お嬢さん、その辺にしときな」


 ようやく、彼女は自分が両足を投げだし、上半身を何かにもたれかけていることに気付いた。恐る恐る首を巡らすと、


「ぎゃーっ! に、人間⁉」


 振り向きざまに勢いよく飛びのいた彼女の眼に、砂に落ちかけた水袋を慌てて掴む男が映っている。


「そんな急に動くなよ。それに、ぎゃーって……酷いな。俺は、お嬢さんをここまで運んで介抱しただけだぞ」


 男は腹を立てた様子もなく、へたり込む彼女に笑いかけた。


「思ったより元気だな。よかった」


 見たところ二十代前半の若い男だ。身に纏った砂漠の民特有のゆったりとした服も、頭をしっかりと包み覆う布も、身に付けた小物までもが黒一色で纏められている。他の色と言えば、左手首に巻かれた色褪せた青い布と、金色の瞳だけ。

 浅黒い肌と精悍な顔立ちと相まって、どことなく黒い獣を連想させる青年だった。


「介抱……私を、ですか?」

「探し物をしてたら、急に近くで声が聞こえたんだ。なんだろうと思って辺りを探したら、砂に埋もれかけたあんたを見つけたってわけ。運がいいな、お嬢さん。俺、耳と鼻は良いんだぜ」


 青年の言葉に、ぼんやりと辺りに目を遣った彼女は、自分達を覆う適度な薄影と、その先に広がる暴力的な陽光の明度差に眩暈を覚えた。頭上からは風に巻き上げられた砂粒が、パラパラと降る音が絶えず聞こえる。

 目を焼く陽光も、身を削る砂嵐も遠のいて感じられていたのは、青年の背後の大きな岩と、二人を囲う様に立てた支柱に張った布のお陰だった。岩はともかく、陽を遮っている布は目の前の青年が用意したものに違いない。


「あの、私……」


 きょろきょろと視線を彷徨わせる彼女に、


「見たところ、あんた、この辺りの人間じゃないよな。荷物も無いみたいだけど、まさかこの『楽園の砂漠』を、そんな軽装備で一人旅って事は無いよな。連れとはぐれたのか?」

「……『楽園の砂漠』? 『死の砂漠』ではなく?」

「『死の砂漠』? 何処だ、それ。ここには『楽園』って呼ばれてる広い水場があるから、あんたら外のやつは『楽園の砂漠』って呼んでるんだろ?」


 まさか知らないってことはないだろ、と、首をひねる青年に、彼女が詰め寄った。勢いに押されて後退あとずさった青年の背が岩にぶつかる。


「痛てて、何? お嬢さん、ちょっと落ち着こうか」

「水場? 本当ですか?」


 青年は更に岩肌に押し付けられる格好で、


「うん。そんな嘘吐いてどうするんだ」

「……目的地を、間違えました……」

「え? なんて?」


 思わず聞き返す。


「私の行くべき土地は、ここではないようです。どうやら、貴方には大変お世話になったようですが、これでも仕事中の身です。お礼は後日改めて、という事でよろしいですね? では、失礼いたします」


 慌てて立ち上がった彼女は、身体中に付いた砂を軽く払い優雅に一礼すると、膝を軽くたわめ爪先に力を込めた。その仕草は、今にも空に飛び立とうとする鳥のようだ。

 だが、その足が地面から離れる事は無かった。


「…………?」

「…………?」


 首を傾げる彼女に、青年も首を傾げる。彼女は何度か同じ仕草を試し、やがて青年を振り返った。


「……どうして飛べないのでしょう?」

「え? なんて?」

「どうして、私は飛べないのでしょうか?」


 青年の顔に、何とも言えない表情が浮かんだ。


「俺も聞きたい。何時からニンゲンは飛べるようになったんだ?」

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