第13話
再びあのニンゲンが姿を現したのは、太陽が空の一番高い位置に昇った頃だった。
日差しを避けることも出来ずにぐったりとしていた黒犬は、西の山の方から近付く臭いに気付き、頭を起こした。
ニンゲンは、低く唸る黒犬を迂回して、少し離れたところから生肉の小さな塊を投げて寄越した。どうやら食べろという事らしい。ニンゲンが充分離れたのを見計らい、おかしな臭いがしないことを念入りに確かめ、それに
黒犬が食事を終えると、ニンゲンはそろそろと彼の周りで動き出した。黒犬が唸れば立ち止まり、様子を伺いながらゆっくりと動く。それは、黒犬を恐れてというより、怪我をして気が立っている彼を気遣ってのように思えた。
黒犬は唸るのを止め、このニンゲンを観察することにした。
以前遠くから見かけたニンゲン達よりも少し小さい……まだ子供なのだろう。よくわからないが、自分が助けた子犬よりは育っていそうだ。黒犬の体毛と同じ色のひらひらとしたものに身を包み、肩と腰から大きな皮を下げている。皮は袋になっているらしく、中には水や先程取り出した肉、多分、他にも生きていくのに必要な物が入れてあるようだ。それは、この子供が群れを離れて一匹で行動するのに慣れている、という事だろう。
黒犬はくんくんと、風に混じる子供の匂いを嗅いだ。
この子供からは、他のニンゲンの匂いがあまり感じられない。群れどころか、おとなが見守っている気配が薄いのだ。
彼の群れでは、子供の傍には必ずおとなが付き添い、事あれば己を犠牲にしてでも守る。それでも子供が無事に成犬になる確率は決して高くはないのだ。ニンゲンは違うのか。
ふと、黒犬は群れの
「絶対にニンゲンに近寄ってはいけない」
ニンゲンは群れになるととても厄介な存在で、喰うためでもないのに、野に生きるもの達や、時には同族同士でも殺し合ったりする、とても恐ろしい生きものなのだ、と。
どうにも、目の前でごそごそとし始めた子供と、
それにしても、この子供は一体何をしているのだろう。
暫くして作業を終えたらしい子供は、前日に黒犬が空にした器に手を伸ばした。
その頃には黒犬にも、子供が何をしていたのか見当がついた。
「日除け。そこよりは過ごしやすいだろ?」
岩の隙間に棒を刺し、そこにぼろ布を張っただけの簡易なものだが、黒犬一匹が休めるには十分な大きさだ。
子供は空になった器を日除けに置き、水を満たすと距離を取った。
黒犬は困惑した。
罠? だが、砂漠で貴重な水を、獲物に与える必要は無い。そもそも、黒犬はろくに動けないのだ、暫く放っておくだけで簡単に手に入れることが出来る。さっきの肉も、恐らくわざわざ用意してきたものだろう。まだ血の匂いの強い、筋張った肉だった。
黒犬は考えるのを止めた。考えても分からないことは考えないに限る。
よろよろと日除けの下に潜り込んだ黒犬を見届けた子供は、ほっと息を吐くと、「街」のある方角へ去って行った。そしてその日は、もう姿を現さなかった。
*
次に子供が姿を現したのは、翌日の夜が明けて少したった頃だった。相変わらず、一匹で行動している。
黒犬が日除けにまだ居るのを見つけると、子供は嬉しそうに手を振った。黒犬が伏せていた体を起こし、緊張した様子をみせると、それ以上は決して近寄らず、離れた場所から干し肉を投げて寄越す。
がつがつと肉を
「ちょっとずつ貯めた駄賃で買ったものなんだぞ。もっと味わってくれよ」
子供は笑って、自分は袋から赤い実を取り出して齧った。
黒犬が干し肉を平らげると、子供は水の入った袋を見せながら近づいた。黒犬はもう唸らなかった。
子供が器にたっぷりと注いだ水を、黒犬はあっという間に空にした。子供は再び水を注ぐと、そのまま黒犬の傍の岩に腰を下ろした。
黒犬は、何とも言えない気持ちを持て余した。人間ならば、(気まずい……)というのが近いかもしれない。黒犬は子供からそっと顔を逸らした。
何をするでもなく、暫く彼等は並んで砂の海を眺めた。
と、唐突に。
「脚、痛そうだな」
きょとんとしている黒犬の鼻先に、そろそろと手が差し出された。匂いを嗅ぎ、ひと舐めした手はがさがさで、とても温かかった。
黒犬の反応が友好的と見たのか、子供は荷袋を漁ると、短い木の棒と、小袋を取り出した。黒犬も嗅ぎ覚えのある、西の山に自生する草の匂いがする。
「これ、痛み止めと炎症止めになるんだ。俺が前に怪我した時に揉んでつけてたら、すぐ治ったよ」
子供は袋から取り出した乾いた草を揉んだ。黒犬は黙ってそれを見ていたが、「脚、見せて」と言いながら、子供が手を伸ばして来ると、流石に大人しくしてはいられず、「ぐう」と唸った。
何故か、それ以上威嚇するのは
子供が吹き出した。
「お前、そんなに体大きいのに、そこまで怯えなくてもいいだろ。耳、ぺたんこだぞ」
なんとなく馬鹿にされたようで、黒犬はムッとして小さく吠えた。子供はそれに怯えることなく、改めてゆっくりと黒犬に手を伸ばす。黒犬は唸りがもれそうになるのを堪え、何とか身体から力を抜いた。
子供は、大人しくなった黒犬の傷を水で流し、揉んだ草を傷口に乗せた。大して染みはしないが、どうしても時折黒犬の鼻からは、ふすっと息が漏れてしまう。その度に「もう少し、我慢してな」と子供が励ますのだが、黒犬はもう子供のすることを見ていられなくなり、顔を背け固く目をつぶり、ひたすら耐えた。
「もういいよ」
子供の声に目を開けると、黒犬の脚には、先程の草と添え木が清潔な布で巻かれていた。
「これ、綺麗な色だろ。俺の一番好きな色なんだ。俺の眼の色と一緒」
子供は、にこにこと鮮やかな青い布を指差し、
「骨は折れてなさそうだし、大人しくしてれば、きっと治るよ。だからその布、取ったら駄目だぞ」
鬱陶しそうに布を齧る黒犬を
「もう行かなくちゃ。今日はもう来られないけど、明日必ずまた来るから。干し肉置いておくから食べて。水、これで足りるといいけど」
黒犬の頭を軽く撫で、荷袋を背負うと子供は立ち去った。
子供の姿が見えなくなると、黒犬はすることも無いので、寝る事にした。日除けのお蔭で、思ったよりも過ごし易い。この時間にしては珍しく、風も穏やかだ。
傷の痛みが、少し和らいでいた。
うとうとしながら、黒犬は、とりとめのない事を考える。
もう少し痛みが引いたら、群れの後を追おう。以前に何度か狩りをしたあたりに居るだろうか。いや、もっと遠くに移動したかもしれない。だが、匂いを辿れば、迷わず辿り着ける自信がある。群れの
黒犬は耳をぴくぴくと動かした。
子供といえば、あのニンゲン、言っていることは全く分からなかったが、自分を助けるつもりらしい。あいつに得など無いだろうに。こんな所で子供が一匹でうろつくなんて、何かあったらどうするんだ。あの様子じゃ、きっとまたここに来るに違いない。
ニンゲンは解らない。
黒犬は、いつの間にか自分が気を緩めていることに、まだ気付いていなかった。
*
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