第5話
マイアが神になる前、ごく普通の水の精霊だった頃。
人の通わぬ森の奥深くにある湖が、マイアの住処だった。
精霊達の中には悪戯を楽しむような連中も多かったが、彼女は違った。花も、虫も、大きな獣も、森を彩る全てが彼女にとっては愛しい護るべき存在だった。
常に冷たく澄んだ水を湛えた湖の周囲には、季節ごとの美しい花々が咲き誇り、樹々はたわわに実った果実で重そうに枝をしならせ、小鳥達の歌は、天上の音もかくやと湖上に響き渡る。
永遠に続くかと思われた穏やかな時間は、唐突に終わりを告げた。
その日。
湖中で微睡んでいたマイアは小鳥達の悲鳴で目を覚ました。慌てて水面から顔を覗かせ、息を呑む。
焦げた臭いと、煙から逃げ惑う愛し子達。
森の外れで火の手が上がっていたのだ。煙は既に、遠く離れたこの湖周辺にまで漂っている。
珍しく季節外れの強い風が多い年だった。しばらく雨が無かったせいもあり、火はじりじりと広がり続けた。
炎は更に風を呼び、風は炎をいよいよ猛らせる。勢い付いた火の手は、森を焼き尽くしてしまうかもしれない。
マイアは迷わなかった。
湖の水を霧に変え、炎を包み、風をねじ伏せる。
己の力と湖の水を全て使って。
やがて火が収まった頃、全てを使い尽くしたマイアの身は、湖の水と共に消えようとしていた。
(焼けてしまった森の一部も、枯れた湖も、きっと甦る。そしていつかは新たな精霊が生まれ、またここを愛してくれる)
干上がった湖に身を横たえ、マイアは瞼を閉じた。
ゆっくりと、その輪郭が崩れていく。
満足感と寂しさに零れたひとすじの涙が空気に溶けた。
その時。
「このまま滅するには惜しき魂。汝の所業、我等が同胞に相応しきもの也。選択せよ。我等が一員と為るや否や?」
「…………?」
ふいに聞こえて来た声に、マイアは重い瞼をこじ開けた。
視線の先で、拳ほどの大きさの光の珠が瞬いている。不思議に思い、横たわったまま首を巡らすと、見慣れた森の代わりに、乳白色の空間がどこまでも広がっていた。
驚愕し、上半身を起こしたマイアは、更に面食らった。いつの間にか、指先を動かすのも億劫だった筈の身体はすっかり軽くなっていた。
そこに再び、先程の声。
「まあ格好つけて言ってみたけど、要は、俺達と一緒に仕事しないかってお誘いさ。君は優しく、なによりも行動力がある。このまま消えてしまうには惜しい存在だ」
どうやら、光の珠が彼女に話し掛けているらしい。
「このまま消えちゃうくらいなら、我々の一員となり、今よりも上を目指してみない? 最初は試験と研修が続いて大変かもしれないけど、遣り甲斐はあると思うな。研修では担当がしっかり面倒みるし、能力次第で、基本給の他に特別手当だって付く。勿論、休暇だってちゃんと……うん、その、ある。多分。森と湖をすぐに元通りに出来る位の力だって手に入るよ」
息継ぎもそこそこに告げられた言葉の殆どは理解出来なかったが、最後の一言にマイアは即答した。
「なります」
「よし、言質は取った……ん? 何でもない何でもない。えーと、そうそう、じゃ、手続きしないとね。もう立てるだろう? 君、名前は?」
立ち上がり名乗ったマイアの頭に、輝きを増した珠の光が乗った。
「チョウキの名において、汝、マイアを一柱の神として迎え入れん。以後、汝は我等が同胞となりて、
マイアの身に暖かな力が流れ込む。
「はい、手続き完了。略式だけど、これで今からマイアちゃんも神の一員……の見習いだ。正式な手続きは、もう少し落ち着いてからの方がいいかな? じゃ、詳しい事はおいおい話すとして、まず……」
いつまでも続きそうな珠の言葉に、マイアが無理矢理口を挿む。
「ちょ、ちょっとお待ち下さい。あの、全く事情が呑み込めないのですが……そもそも、貴方様はどういったお方なのですか?」
「俺はチョウキ。神の一員だよ。仕事であちこち調査して回ってて、ついでに神候補を見つけたりもしてるってワケ。実質、何でも屋さんだね。最初に言わなかったっけ?」
「初耳です」
「そうだっけ? まあでも、あのままだったら君は消滅していたんだ。なら、新しい人生……いや、
ちかちかと瞬くチョウキにマイアは尋ねた。
「神って、何ですか?」
「あ、そこからか。神様を知らないとは、マイアちゃん、なかなか箱入りだな」
「…………」
「箱入り」の意味も知らないマイアは、黙って続きを待つ。
「神とは、本来は世界を生み出した大神様の一族を指す。今は、世の営みを見守り、秩序をもたらす全ての存在の肩書き……ってところかな。主な仕事は、奇跡――神のみに許された特別な力で、
「よく分かりませんが、そんな大それたお役、私に務まるでしょうか」
「護りたいという想いが強いのは、素質がある証拠さ。ま、こっちはその反応を見て声掛けしてんだけど」
今更ながら、どうにも胡散臭い……初対面でも分かる程に。
(そもそもこの方、いつからご覧になっていたのかしら。助けて下さるつもりがおありなら、もう少し早く……)
「俺は見ての通り光の神でね、火を熾すのには向いてるけど、鎮めるのは向いてないの。能力の向き不向き、ね?」
心を読まれた気まずさに目を逸らすマイアに、チョウキは小さく笑い、声を低めた。
「君が俺をどう感じようと、契約は既に成立している。反故にすると、互いにそれなりの不利益が生じる可能性がある。あまりお勧め出来ないなあ」
「…………」
思わず身を固くしたマイアに、声の調子を戻したチョウキが、
「ごめんごめん、脅かしすぎちゃった。それより、
「奇跡?」
さっきも聞いた、馴染みの無い単語にマイアが首を傾げる。
「見習いとはいえ、今の君は精霊だった時とは桁違いの力を宿してる。それが、奇跡とか神の御業と呼ばれる力だ。既に命を落としたものを助けるなんてのは無理だけど、大抵のことはどうにか出来る
ただし! 今、その力を揮うなら、自ら望んで神になったとみなす。今後一切の言い訳は聞かない。さあ、どうする?」
真っ白な景色は、いつの間にか、まだ煙の漂う森に戻っていた。
マイアは美しかった森を心に描く……奇跡は、あっけないほど簡単に起きた。
枯れ果てた湖は澄んだ水を湛え、漂っていた焦げた臭いは芳しい花の香りに洗い流されていた。樹々は葉を取り戻し、怪我や火傷にのたうっていた小動物達も元気に走り回っている。
「結構。これで後顧の憂いも無くなったよね。そんじゃ、
次々と繰り出される言葉に、マイアは質問どころか、口を挿むことすらままならない。ただ、恐らくこれから先、気ままな精霊として暮らす日はもう来ないということだけははっきりと解った。
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