少年と勇気

 ネコネのことを初めてネコネと呼んだのは、カミオだ。多分あの日のことは一生忘れることはないだろう。それくらいに尊い記憶だ。

 中3の頃、クラスには1つの大きな女子グループがあって、ネコネはそこに属していた。たくさんのつるむ仲間がいたと言ってもいいだろう。好きなアイドルの話、ファッションの話、恋愛の話。ネコネは話を聞いては「そうだねえ」とか、「わかる」とかニコニコ笑って頷いた。そうは思わないな、などと否定したことは1度もなかった。そもそも否定するほどにそれらのことに関して知識を持っていなかった。本当は興味ないんだけどな、などと思うことは多かったのだが。

 ネコネは、自分が「美人」であると評される類の顔をしていることを知っていた。

 朝支度で顔を洗う時、夜お風呂に入る時。別に美容にいかに興味がなくたって、鏡を覗く機会なんてたくさんある。アーモンド形の大きな目、通った鼻筋、細い手足。あたしは客観的に見て、多分綺麗だ。だから。だからこそ。

 仲間内にずっと居続けるには、誰よりも気配りと配慮が必要だった。

 波風は立てない。自分からペラペラと話さない。「ねねって可愛いよね」と言われても、「そうかなあ?」と首を傾げて、それから必ず相手のどこかを褒めた。そうやって教室の中の自分の立ち位置を守った。中3のネコネは、まだ群れの中に属す以外の生き方を知らなかった。

 疑問は持った。だがそれを挟み込もうとなんて、思わなかった。

 カミオと初めて話したのはそんな時だ。

 ある日の移動教室の時、彼とネコネたちの集団はすれ違った。周りの仲間連中は色めき立って何やら囁き合い、ネコネはただ「ヒーローの人だな」とだけ思った。そういえばカミオも目を合わせるだけで女子たちが黄色い歓声を上げるほどの美形だけれど、自分とはタイプが違う気がする。彼の場合、なんというか人間味がないのだ。少女漫画に出てくる王子様キャラのような。同じ白い肌でも、ネコネはただの色白だが、カミオは陶器のような透き通りそうなほどの白だ。

 彼がこの世のものではないと言われても、あたしは疑わないな。そんなことを漠然と考えていた数秒の後。

「落としましたよ」

 背後から、青く澄んだ声がそう言った。

 ネコネたちは振り向いた。カミオが柔らかく微笑んで、キラキラ光るものを掲げていた。ネコネのつけていた、蝶々の装飾つきのピンだった。本当は重いピンはずり落ちてくるのが気になって好きじゃないが、「つまんないからなんかつけなよ」と言われて買ったもの。案の定気づかないうちに落としてしまったらしい。

「わ、ごめんなさい」

 ネコネは慌てて駆け寄って行った。まったく、ねね何やってるのォ、と仲間たちの声が追いかけてきた。それに対して「あはは、やっちゃった」という笑みを返しつつ。

 カミオは、はいとネコネの手のひらにピンを乗せて、目で微笑んだ。

「ありがとうございます……ほんとすみません」

 ネコネが軽くぺこっと頭を下げた時、彼は「猫見ねねさん」と不意に名前を呼んだ。びっくりして顔を上げた。目が合う。1度も同じクラスになったことないのになんであたしの名前を知ってるんだ?とは思った。だが同じ学年の校友の名前を覚えることくらい、ヒーローにとっては簡単なことなのかもしれない。そんなことよりも顔が綺麗だなと思った。

「はい?」

「猫見ねねさんって、本当はそんなに大人しく笑ってるタイプじゃないでしょう」

「…………?」

 一瞬何を言われたのかわからずに表情を止めたネコネに、彼は微笑んだまま、ひらりと手を振った。白い蝶のように見えた。

「いや、変な意味はなく。見ていて少し思っただけです。……そうしていないといけない理由も、わかる気がするし」

 それじゃあ、と言って、カミオはくるりと踵を返した。魔法に掛けられていたかのように固まっていたネコネははっと硬直を解いた。仲間連中が「なに話してたの?」と駆け寄ってくる前に、思わず叫んでいた。

「上尾くん!」

 既に数メートル離れていた彼がこちらに向き直って、首を傾げた。なに?と言うように。でも完璧な微笑みはそのままに。

 あなたは、あたしの笑顔を本物じゃないと見抜いた。周りに合わせたその意味に正確に気付いた。そしてその上で、ただ「わかる」とだけ言った。……きっと、良くないと思うとか、もっとこうしてみたら?とか、そんな無責任なアドバイスをされていたら、ネコネは否定しただろう。「全然そんなんじゃないよ」と笑っただろう。むしろ、勝手にわかった気になるなと反発的に思ったに違いないのに。

 わかるよ、と。

 ただ同調してくれただけの言葉が、こんなにも沁みる。あたしはそれを無意識のうちにこんなにも求めていたんだ。あなたはそれを一目で見抜いて、投げてくれたんだ。

 どうしてかわからないが、気付けばこんなことを言っていた。

「上尾くん! あたしは、どうしたらヒーローになれるかな!?」

 背後にいる仲間連中のことなんて、もう気にならない。廊下を通り過ぎる他の生徒たちの視線だってどうでもいい。……あたしは、あたしになりたい。

 カミオは初めて笑顔を消して驚いたようにこちらを眺めていた。やがて「ヒーロー、ね」と呟いたのが口の形でわかった。

「上尾くん?」

「不意を突かれたな。……猫見ねねさん」

 カミオは真っ直ぐに見つめてきた。

「縮めて、ネコネさんと呼ばせてもらおうかな。大丈夫。なんの繕いもないそのままのネコネさんで救える人が、どこかにいるよ」

 彼は今度こそネコネに背を向けて、歩き出した。


     ✵


「意外とうまいんじゃん」

 ユイくんに言われて、ネコネは「意外とってなによお」と彼の頬をつついて見せた。柔らかくて表面のつるつるした、子どものほっぺただった。ユイくんは「やめてよ」と身を引きつつ、そこまで嫌がっていなさそうに笑って、だってと言う。

「さっき絵を描くのは得意じゃないって言ってたじゃん」

「別に嘘じゃないよ。あたしは漫画とか人の顔は全然描けないの。見たものをそのまま写すのは絵って言わないよ。写しだよ」

「絵だよ、そういうのスケッチって言うんだよ」

 初めてこの小屋に足を踏み入れてから、2日が経った。ネコネとユイくんはテラスで、例の木箱の葉っぱたちの写生(お絵描き?)をしていた。

 物置の片付けは完全にカミオとワタルの仕事になっている。昨日からは軍手を持参して、今もドタドタと物を運んだり置いたりしている音が聞こえていた。ここの土地主が誰なのかわからない以上、物を小屋から外に運び出したり派手に壁や床の修理をしたりするわけにはいかないが、やれるだけのことはしようとしているらしい。そしてその間に、ネコネはユイくんと適当な会話をしつつ、リビングを掃いてみたり壁や柱を磨いたり。

 楽しい。そこそこ。子供の相手は慣れてはいるし。

 だけど重役だ、とも思う。

 受けた依頼の扱いに差はつけないというルールだとはいえ、今回のもともとの依頼は、掃除以前に水上さんの「ルバ人の正体を見つける」ということだ。それをユイくんとずっと過ごしているネコネはやらなければいけない。カミオたちが自分を信頼して預けてくれていることはわかっていた。

 だが相変わらずルバ人の姿は見えないし、ユイくんに時々「ルバ人も小屋が綺麗になってきたねって言ってるよ」的なことを言われても「そうなんだー」としか答えられない。空想の友達? そんな簡単すぎる答えでは納得できない。秋休みももう3日目に入ったと思うと、まあまあ焦る。

 そんな内心をよそに、目の前で体を投げ出して床に頬杖をついている少年は、生意気そうに肩をすくめる。

「ネコネちゃんってなんにも知らないね」

「そんなことないよ、あたしは色々知ってるよお?」

 言い返すネコネはさすがに体育座りのように座った状態だ。制服なのだ。本当は椅子がほしいところだ。事件解決部の活動は、一応学校の部活動(しかも文化部)の範囲内ということになるので、制服で行うのが規定だった。

「この葉っぱをレタスって言ったくせに?」

「それは……まあ。実際なんの葉っぱなの?」

「なんの葉っぱなんだろうねえ」

 ユイくんははぐらかして答えない。自分のスケッチの葉っぱを、ぐりぐりと鉛筆で塗った。あんまり上手くない。でも小学生の頃にやった朝顔のスケッチって、みんなこんなだったよな。

 このままでは面目が立たないので、ネコネは「じゃあなんか訊いてみてよ」と言った。

「答えられることも一杯あるよ。多分」

「多分って言っちゃってるし」

 隣の部屋からまたドスン、という重い音が聞こえてきた。カミオが何やら話して、ワタルが笑っている声も聞こえた。それを聞いて、ああこっちの部屋は静かだなと思った。

 ユイくんを見れば思いのほか真剣になにを訊こうか考え込んでいた。細い髪の毛を僅かに湿った風がそよそよと揺らす。なんとなく、水の匂いがする。ネコネは黙って、灰色の葉の葉脈にさらさらと影を追加した。

 森に包まれた小屋の中の日陰は優しい。ワイシャツでも寒いというほどではない。だが、本当に秋なんだなあと思った。ユイくんも今日は半袖シャツの上に黄色いパーカーを着ていた。

「じゃあさ」と、彼は言った。「勇気ってなに?」

 思っても見なかった質問に、ネコネは目を瞬いた。

「難しいこと訊くねえ」

「うん。難しそうなのわざわざ考えたんだ」

「そうだな……」

 ちょっと考える。知らない人に話しかけるのは勇気だ。悪者と戦うのも勇気だし、溺れている人を助けるのも勇気だ。初めてのことに挑戦するのも勇気だが、それらは全部勇気の例に過ぎない。

 ざっざっと動くユイくんの鉛筆の先を見つめて、ネコネは口を開いた。

「勇気っていうのはねえ、なにかに立ち向かうことだよ」

「なにかって?」ユイくんは紙の上から視線を上げずに首を傾げた。

「なんでもいいの。敵でもいいし、暗闇でもいいし、自分でもいいんだ」

 少年は目を上げた。

「クラスメイトに変なやつって言われても、言い返さないのは? 仲間に入れてもらえなくて、そのまま1人でいるのは? 弱虫?」

 一対の小さな丸い目に宿る真剣な光に、ネコネははっとさせられた。少しだけ、扉の中にいたユイくんの本心が顔を覗かせたように思った。

「ううん、それはちゃんとなにかに立ち向かってるよ。なにって、わからないけど、それでもだよ」

 慎重に、大切に言ってから、そうだと思った。

 カミオと言葉を交わすようになると同時に自分から去っていった仲間だった女子たちを追わなかったのも、勇気だろうか。「なに勝手に仲良くなって粋がってんの?」「ねねってそういうタイプだったんだ」などと言われても、何も言い返さなかったこと。人に合わせて自分に嘘をつくのはやめようと決意したことも、勇気だったのかな。

 わからなくても、あの選択は間違いじゃなかった。

 カミオという友達ができて、高校に入ってからは、その輪にワタルも加わって。ネコネは2人の前で笑顔の殻を被らない。それでも尚、本心から笑っていることが増えた。どう思われるかとか気にせず、やりたいように振る舞う。言いたいことを言う。大好きな本当の友達だ。ネコネがその尊さを知るきっかけとなったカミオはやはりヒーローだ。

 でも。

「本当の友達ってなんだろうね」

 ネコネは誰にともなく呟いた。

 2人を友達だと胸を張って言える。ワタルもネコネとカミオを絶対に友達だと言うだろうし、カミオもまたネコネたち2人を友達だと思っているはずだ。

 それでもカミオが、絶対に話したがらない何かを持っていることを知っている。いつでも暑さを感じないんじゃないかと思うほど涼しげで、それから言ってみれば達観したような態度。どんな日も部室にいて、ネコネやワタルより先に家には帰らないこと。高校生なのにひとり暮らしというのも、不可解ではある。

 ネコネは彼がどうしてヒーローであろうとするのかを、知らない。

 口を閉ざして話したがらないことを、詮索せずに見守ることも勇気?

 ユイくんは、ネコネの呟きにすっと目を細めたが、俯くと鉛筆を握りしめ、黙ってスケッチを再開した。

 木箱の土の上の葉が、気持ちよさそうに風に揺られていた。


 3時頃になって、物置からカミオとワタルが顔を覗かせた。そろそろ家に帰ろうかと言う。いつもより1時間も早い。

「だいたい物置は片付け終わったから、明日少し仕上げして終わりかなあああ」

 ワタルがぐーっと伸びをしながら声を上げた。昨日は新品だった彼の軍手は、木くずや砂で真っ黒になっていた。無頓着に額の汗を手の甲で拭ったせいか顔まで黒くなっていて、炭鉱から出てきた人のようだ。

「うん。明日までには確実に終わるね。秋休みの終わりまでに間に合いそうで良かった」

 頷くカミオは相変わらず爽やかだ。彼は少し困った顔をした。

「たださ……」

「ただ?」ネコネは聞き返した。

「天気予報的には4時過ぎから雨なんだよね。床は濡れるかも」

「ああ、それで今日はこの時間なんだ?」

「そうそう」

 まあ、片付いただけで十分だよね、というつもりでユイくんに視線を落とした。少年は俯いていた。心なしか表情が暗いように見えて、ネコネは「明日また一緒に掃除しよう」と励まそうとして言った。

 ユイくんは首を振る。顔を曇らせたまま。

「別にそれはいいんだ。帰ろ」

 ルバ人、また来るね。

 それだけ部屋の中に投げつけるように言って、ユイくんは1人でさっさと小屋のドアから外に出て行ってしまった。3人で顔を合わせてから、その背を追っていく。

「なんだろ」

 ワタルが呟いた。生意気なガキ、と初日から悪態をついていながら、その顔には純粋な心配の色があった。



 水上家に帰ると、既に水上さんは職場から帰宅して待っていた。

「今日は少し早めに戻るだろうと思って、帰ってきたんだよ」

 そうユイくんに言いつつ、こっそりとすぐ横にいたネコネに「本当は勤務日ではないものですから、早めに切り上げてこられました」と囁いた。カミオが「あのお母さんはすごくいい人だ」と言ったのもわかるなあと思った。

「今日もありがとうございました。お茶でも飲んでいきますか?」

 水上さんの問いかけにカミオは首を振った。

「お気遣いありがとうございます。でも、レポート書くのに部室に1度戻らないといけないし、雨が強くなる前には帰りたいので」

「それもそうですね。お疲れ様です」

 水上さんとユイくんは玄関先まで見送りに来た。

「明日が最終日ですね。よろしくお願いします」

 カミオとワタルはぺこりと頭を下げて、ネコネはユイくんにばいばいっと手を振った。彼は固い顔で「うん」とだけ言った。

 ちょうどその時、ぽつりと頬に雨が当たった。

「傘は?」「持ってないな」「あたしもー」

 これはダッシュするしかないね、と誰からともなく言い合って、3人は学校へと駆け出した。

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