ヒーローとルバ人
蘇芳ぽかり
少年と森の小屋
「ルバ人、を探してほしいんです」
今回の依頼人である水上さんの言葉に、ネコネは思わず「ふえ?」と意味わからない声を発してしまった。ソファーの右隣に腰掛けているカミオは全く表情を変えずにいるが、さらに右のワタルも「ルバ人?」と首を傾げている。
「なんですか、ルバ人って」
彼が聞き返すと、水上さんは軽く顔をしかめた。言葉を探すように斜め上の方を見ている。30代ぐらいの女性にしては化粧っ気のない顔だ。「お子さんがいるみたいだね」とカミオが呟いたのは、玄関口でのことだ。靴は全て仕舞われていたが、靴箱に小さなスクーターが立てかけられていた。ネックの部分に黄色いビニルテープが貼られていて、「ゆい」と多分大人の字で書かれている。女の子だろうか。
「わからないんです」
「わからない?」
こういう時、ワタルはどんどん話を進めてくれる。多分ネコネとカミオが黙り込んでいるからだ。依頼者と向かい合っているときはだいたいカミオは観察・考察・思考担当で、ネコネは……強いて言うならムード担当。もちろん話はよく聞いているつもりだ。
水上さんは頷いた。
「実は私には息子がいまして。ユイって言うんですけど」
男の子だったかー、とネコネは内心で思った。もちろん子供の存在に気付いていたなんて顔には出さない。カミオもワタルもそうだ。その辺に関してはもうプロである。
「ユイくん」
「はい。小学3年生です。近くの南小学校ってわかりますか。そこに通ってます」
「わかりますわかります。それで……」
「はい。……小学生の男子っていうと、やっぱり話す内容って勉強よりも友達関係のことが多い、じゃないですか。誰々くんとこんなことした、とか。あとは放課後も遊びに行ったりするし」
自分も覚えがあるのか、ワタルは「そうですね。そんな感じでした」と相槌を打った。「暗くなるまでずっと駆け回ってた覚えがありますね」
水上さんはちょっと緊張が溶けた顔で笑った。笑ってから、また真面目な表情に戻った。
「息子もよく放課後に出かけるんです。その時の話に出てくるのが、ルバ人なんです。ルバ人とどこどこで遊んだとか、ルバ人が楽しそうにしてたとか」
「はあ」
「ルバ人っていうのが、友達のあだ名なのかもしれないし、そうだったら別にまあいいかなって思うんですけど、もし……言い方は悪いけど変な人だったらと、親としては心配なんです。だから、ルバ人が誰なのかを調べて欲しくて」
「それは」
さらりと声が割り込んだ。それまで黙っていたカミオだった。「お子さんに直接訊いてみたりはしましたか? ルバ人がどんな人なのかって」
水上さんは1度瞬きをしてから、ややあって「訊きました」と答えた。
「にこにこして、友達だよ、と。優しくて面白くてすごいやつなんだとも言ってました。すぐに嘘だなとわかりました」
「息子さんは普段から何かよく誤魔化したりしますか?」
「いえ……いえ、気付けていないだけかもしれませんが、母親の私からみてもすごく素直な子です。なんというか、変わった子、とでもいいましょうか」
「変わった子、ですか」
「はまったものに関しては夢中でのめり込みますし、譲らない部分があるように見えますが、他のことに関しては別になんでもいいやという感じです。割と言うこともすんなり聞きますし」
「そうですか」
ネコネはびっくりした。カミオがその耽美な顔に、挑戦的とも言える微笑みを浮かべていたからだ。「もうなんかわかったの?」
えっと言うようにワタルもカミオに注目した。彼の上で視線が交差する。水上さんは戸惑った表情だ。ごめんなさい。完全に置いてけぼりにしてしまっている。
カミオは微笑んだまま、首を振った。「まだ何もわからないよ」
「だよねえ」
「──水上さん」
突然呼ばれて、水上さんは「はい?」と首を傾げた。カミオはそれに合わせたわけでもないのだろうけれど、少し首を傾けた。そうしてから、右手をすっとブレザー越しに自分の胸に当ててみせた。
「その謎、ぼくらが必ず解決して見せましょう。
青を彷彿とさせる綺麗な声で、そう言った。
カミオ──本名・
まあなにせカミオだからな、というのがネコネとワタルの見解だ。
彼はよく、ヒーローという言葉を使って説明される。
それはもう疑いようもない、浪坂の街中に名前の知れ渡ったヒーローだ。3年前、この街では恐ろしい幼児誘拐事件が起きたが、それを中学生にして解決したのがカミオだった。幼児がいなくなってから1ヶ月、生存している可能性はもはやゼロかと思えた頃、近くの山から幼い子供を背負って降りてきて、更には犯人の特徴すら言い当ててしまった。犯人はすぐに特定し逮捕され、カミオの姿は「若きヒーローの事件解決」という見出しと共に全国ネットのニュース番組や新聞の一面を飾った。
神童。正義と勇気の体現者。ゼウスの使徒。
色んな呼ばれ方をする彼のことを、たまたま同じ中学に通っていたネコネは、ずっと近くで見てきた。カミオは学校でもスターだった。成績優秀、スポーツ万能、眉目秀麗。誰に対しても優しい、決して激情を見せないクールさも、どことなく儚げな雰囲気も素敵。廊下を歩けば女子たちが群がるのを、ネコネは何ともなしに「ふうん」と思いながら眺めていた。あ、あの有名人の人だ、とそんな感じ。周りの友達連中に「上尾くんってかっこいいよね」と言われれば笑顔で「ねー」と返すが、実際のところ興味はなかった。それが中2の頃。
今だになんだか信じられない、と思う。
そんなカミオの立てた部に自分は所属して、別の中学校から来たワタルも合わせて、仲間として力を合わせる。そして活動の仲間であるという以上に、彼らとは良き親友同士だ。少なくともネコネはそう思っている。廊下ですれ違えば「やあ」と手を振るし、2日前には帰りに駅前のうどん屋で夕飯を一緒に食べた。釜玉うどんの食べ方についてワタルと言い合ったり、カミオがあまりにも音をさせずにうどんを啜ることに2人で目を丸くしたり、とにかく楽しかった。
友達という存在の尊さを、ネコネは今知っている。
そして考える。まだ顔を見たこともない、言葉を交わしたこともない小学生の男の子のことを。
彼が話したという友達は、一体どんな人なのだろう。年齢も性別もわからない。そもそもルバ人というのがあだ名なのか、まさか本名なのか、それともルバという国(そんな国があるのかは知らないが)の人なのかもわかっていない。
何を考えて、母親に対して笑いながら「ルバ人」の話をしたのだろう。わからない。まだなんにも読めないけれど──。
──それを今回解くのがあたしたちの仕事なら、やるしかないよねとネコネは思う。
外に出ると、夕方の暖かい色をした光に包みこまれた。春はあけぼの、夏は夜。秋は確か……夕暮れじゃなかったっけ。まだ暑い日も多いし、空気もじめじめしている感じは抜けないが、日が落ちる時間だけは確実に早くなって来たように思う。
夏休みが終わって1か月。その間もたくさんの依頼を受けてきたけれど、時が経つのって本当に早い。高校生ってなんでこんなにあっという間なんだろう。
「カミオ」
ワタルは少しにやにやしていた。「あんなに言い切っちゃって良かったの?」
彼は格好つけて胸に手をやると、さっきのカミオの真似なのか「僕らにお任せください」と言った。あんまり似ていなかったが、ネコネは笑った。
「ワタルくん、すごく似てないよ」
「似てないかー」
「言い切るの、まずかった?」数歩先を歩いていたカミオが、くるりと振り向いた。ネコネもワタルもワイシャツ姿な中で、彼だけはブレザーを着込み、ワイシャツのボタンも首のあたりまで全て留めている。なのに涼しげなのだから不思議だ。
「ううん、かっこよかったよーっ」
ネコネが言うと、彼は目で笑った。
「それなら良かった。解決してあげたいと思ったからね。あのお母さんはすごくいい人だったから」
「そう? 普通じゃなかった?」
「過保護でも放任主義でもない、普通だからいいんだよ」
「そういうものかなあ」
「そういうものだ。それにぼくたちが相手でも、1度も敬語を外さなかった。こういうところから人柄って見える。……なんて、それもあってどうにかしようと思ったのもあるけれど、実際今回はもうなんとなく結論は見えている気がする」
ネコネは思わず、ワタルの方を見た。すごいよね、という視線を送ったつもりだったが、目が合うことはなかった。ワタルはカミオをまっすぐに見つめていた。
こういうとき、彼はいつも悔しさと諦めと憧れの入り混じった目をする。カミオと比べて自分を「凡人」と呼ぶワタルは、卑屈に笑うようでいて、誰よりも純粋で、強い強い情熱を持っている。それならあたしは何を持っているんだろう、とネコネはいつも考える。
ヒーローのカミオだけじゃない、ワタルのことだってすごく尊敬している。なんていうか、眩しいのだ。
「そっか。じゃあ大丈夫だね」ネコネはにっと笑った。
カミオは微笑んで、少し遠くを見た。
「きっとね。問題は……」
その時、彼はぱっと驚いた表情になってから、視線を横に逸らした。なんかあったの?とネコネたちが後ろを向こうとすると、「そのまま前を見てて」と言う。
「なんで?」
内心首を傾げつつも、ネコネとワタルはそれに従うほかない。頭の向きだけ固定されたみたいに、視線だけぐいっと動かしてカミオを見遣った。
しばらくして、「もういいよ」と言われて振り返る。道の突き当りに、さっき出てきたばかりの水上家が立っているだけだ。家の建物自体と、白い車が1台留められた駐車場。それから小さな花壇。ピンクのコスモスが咲いているのがここからでも見える。
「なんだったわけ?」
ワタルが前に向き直って肩をすくめた。ネコネもカミオの方を見る。彼はじっと考え込むような顔をしていた。
「別に何ということもないのかもしれないけど……。子供が、窓からこっちを見ていたから。一応気付かないふりをしておきたかったんだ」
そう言われて、ネコネとワタルはシンクロした動きでもう1度水上家に顔を向ける。
「あっ……」
ネコネははっと目を見開いた。西日の当たった2階の小さな窓の中。よく見れば白いレースのカーテンがわずかに揺れていた。誰かが急いで締めた後のように。「子供って」
「ぼくもちらっと見えただけだから確かじゃないけれど、多分ユイくんだろうね」
「なんでこっち見てたんだろ?」
「さあ」
はあっと溜め息ともつかない吐息を漏らしたのはワタルだ。
「なんにせよ、なんか面倒くさそうな子供じゃない? そういう匂いって言いますか」
「そうだねえ」
「……問題なのは、当事者たちにどうやって全てを悟らせるかだよ」
カミオが真面目な顔で言った。「多くの場合、表層に浮かんだ事実を掬い上げて見せてあげるだけでは、解決にならないんだ」
✵
水上さんとの打ち合わせ通り、秋休みの1日目に再び水上家を訪れた。これからの4日間、連休の終わりまでがユイくんとの──変な話、勝負になる。なんでも、水上さんも旦那さんも急に入った仕事で家にいられないから、子守役のような感じでネコネたちを配置できて丁度いいのだという。
……それを聞いた時、わざわざ仕事を入れてその設定が通用するように計らってくれたんじゃないかなあと、ちょっと思った。
ちなみにこれまでは夏休みなどで両親共にいない日には、母方の祖母宅や父方の祖母宅を行ったり来たりして面倒を見てもらっていたとのことだ。突然の仕事でそれを頼むのは大変だろうから、とユイくんには説明するらしい。
そんなわけで。
「こんにちは!」
初めて顔を合わせる少年を前に、ネコネはにっこにこの笑顔で挨拶をした。「今日から何日かだけど、よろしくね。あたし猫見ねね。この人はカミオお兄ちゃんで、こっちはワタルおじさんです」
「誰がおじさんじゃ!!」
子供相手によくやる茶番を入れつつ。
ユイくんもにっこり笑って「うん」と頷いた。黒目がちな目がくりくりとした、華奢な子だった。喩えるなら子犬と子猫、どっちだろうか。
「ボクの名前はミズハラユイです。来てくれてありがとうございます。よろしくお願いします」
ぺこりとお辞儀をするので、ネコネはわあっと声を上げた。
「偉いねえ。ユイって漢字どう書くの?」
「ただって字。唯一の唯、です」
スーツ姿の水上さんがカバンを肩に掛けた。玄関で靴を履いてから、見送りに出てきた4人の方を振り返る。相変わらず化粧は薄いが、髪をまとめ上げてキリッとしている。働く女性という感じで格好いい。
「……じゃあユイ、あんまり迷惑掛けないようにね」
「うん!」
「よろしくお願いしますね」これはネコネたちに向かってだ。
3人で、「任せてください」と「いってらっしゃい」を込めて、お辞儀をする。水上さんは少し笑って、軽く手を振ってから出て行った。
がちゃん、とドアが閉まるのを眺めて、特に意味もなく無言になった。いよいよ始まったけど、さあどうする?とカミオとワタルとの間にテレパシーが通っている気がした。今のところノープランだ。適当に遊んだり喋ったりして打ち解けてから、直接的にでも間接的にでも「ルバ人」について尋ねてみるか──というのが昨日までに話した漠然としたイメージ。その分で行くと、今日1日は丸々仲良くなるために使ってもいいけれど。って、いけないいけない。頭だけで考えて黙り込んでいる暇はない。とりあえず何か喋らなきゃ。ユイくん困ってるよね……と、ネコネが低いところにある頭を見下ろそうとした時。
「ねえ、お母さんには一体なんて依頼されたわけ?」
一瞬誰が喋っているのだろうと思った。だが、変声期前の甲高い子供の声を持つのは、この中に1人しかいない。カミオは特に表情を変えずに瞬きをして、ワタルはエッと軽く仰け反っている。
ユイくんは腰に手を当てて、俗に言うジト目で3人を見上げてきていた。
「だっておかしいでしょ、いきなり他人に預けるとか。しかもお兄さんたちさ、あのナントカって高校の事件解決部の人だよね」
子猫でも子犬でもない。天使がいきなり悪魔に変貌したかのようだ。タメ口に、横柄な態度。信じられない。さっきの「よろしくお願いします」とお辞儀したあの子とは完全に別人だ。衝撃で何も声が出ない。
と。
「今回の依頼は、水上さんが仕事でいない間、ユイくんの面倒を見ていることだよ」
カミオが微笑んでいた。「それだけだ。本当に」
この状況でこの余裕の表情ができるの、本当にすごいと思う。
ユイくんは束の間口を閉ざしてから、肩をすくめた。
「そう? それならいいけど。じゃあオレを見てる以外にやることないんなら、オレの依頼も受けてよ。〈ヒーローのカミオくんとその仲間たちがお助け〉してくれるんでしょ?」
ネコネは思わず笑ってしまった。そのフレーズは、ネコネが手作りした事件解決部宣伝ポスターのものだった。
だいぶ歩いた。
小さい頃ネコネもよく遊んだ公園を突っ切って、緑の柵をよじ登って超え、整備されていない坂を駆け下りて田んぼへと降り、そこから少し山がちな方へと入っていく。小さな山の中腹まで登ったところで、ようやくユイくんは立ち止まって振り向いた。
木々の隙間から差し込む光がそれぞれの顔の上に明るい水玉模様を落とす。足元に敷き詰められた茶色い枯れ葉は、一体何年分なのだろう。朽ち果てた小屋のようなものが、今すぐ麓に転げ落ちてしまわないのが不思議なほどの様子で立っていた。最も、落ちてきたらネコネたちが真っ先に下敷きになる立ち位置にいるのだが。
「ここだよ」
何がここなのかわからない。
「ネコネ大丈夫?」
ワタルに問いかけられて首を傾げた。「何が?」
「いや、こんなに歩いて疲れてないのかなって。制服のスカートだし動きづらいんじゃないかって」
「あはは」
思わず笑った。優しいなと思った。
「このくらい全然へーき。むしろ長ズボンの方が裾汚れちゃって大変でしょ。スカートって結構楽なんだよ、履いてみれば?」
「は?」
「それで……」
カミオが口を開いたので、2人で黙った。「ユイくんは何をぼくたちに依頼したいの?」
問いかけられて、ユイくんはまっすぐに小屋を指差した。「あれ」と。
「あれはオレたちの秘密基地なんだよ」
「オレたち?」
「そ。だけどあの小屋、ボロいでしょ? だから中もごちゃごちゃしてるんだけど、オレたちだけじゃどうしようもなくって、人手が欲しかったんだよね」
「掃除を手伝ってほしいっていうこと?」
「そういうこと」
隣でげんなりした顔になるワタルを、ネコネは軽く肘で小突いた。
「まあいいじゃん、楽しそうじゃん、ああいう秘密基地みたいのって夢だったんだよね」
数段の階段を上がって小屋に足を踏み入れると、当たり前のようにギシギシと音がした。壁も木なら床も木だ。湿気を匂いとして感じた。ところどころ苔が生えた部分もあるし、柱も半分ほど腐っていそうだ。人が住んでいたと言うよりかは、誰かが趣味の日曜大工で遊び半分に造ってみたような、粗末な小屋だった。少し身動きをするたびに軋むのが、限界の呻き声のような気がして怯む。
「これ、あたしたちが入っても大丈夫な感じ?」
恐る恐る忍び足になりながら呟くと、ユイくんは小さい肩をすくめてみせた。
「さあ。知らないけど。もし穴が空いたら塞ぐのも依頼するから」
「誰に?」
「わかってるでしょ」
信じられないぐらい生意気なガキだな、とワタルが目を丸くして呟いた。本心があまりにも隠しきれていない1言だと思ったが、「言われ慣れてるよ」とユイくんは素っ気なく答えた。
「言われ慣れてるんだ……」これはネコネとカミオ。
と、その時ユイくんが真正面の小さなテラスの方を向いて「やあ」と声を放った。ネコネは驚いてその背中を見つめた。誰かいるのか。いや、そうは見えない。じゃあ、やあって誰に……?
ユイくんは笑っているようだった。
「オレだよ、ルバ人。1人でさみしくしてた?」
ルバ人?
でも、だれもいない、よね?
水上さんに依頼について説明をされてからの1週間の間に、「ルバ人」という言葉をスマホの検索バーにワタルがふざけて打ち込んだことがあった。意外にも引っかかるものがあった。ルバ人とは コンゴ民主共和国南部に居住するバントゥー系民族のことであるらしい。絶対求めてる答えじゃないねと部室で3人、苦笑した。民族が日本の、こんな小さな街になんているはずがないじゃないかと。……だが。
ルバ人。
今、ユイくんは確かにそう言った。
ワタルが呆気に取られたように立ち尽くす。その横でカミオが口を引き結んで、ぐっと顎を引いた。何かわかったのだろうか。わからない。ネコネはわからないから、そのまま訊いてみるしかない。
「ルバ人ってだれ?」
ユイくんはくるりと振り向いて、にやっと笑った。それは今朝初めて出会ったときから1番年相応だと思える、無邪気な笑顔だった。
「オレの友達だよ! いっつもここにいるんだ」
「今、そこに、いるの?」
「お姉さんたちには、見えないの?」
見えない。テラスから差し込む光で、ユイくんは影になって見える。小さな広間とテラスの間には窓がない。その直結した空間のどこにも、誰もいなかった。ルバ人なんて、ネコネには見えない。
ただユイくんの背後のずっとずっと向こうで、山の木々が群れになって1つの意思を持っているかのように、ゆらゆらと枝々を動かしているばかりだ。
ワタルが右手と左手を組み合わせて、ぐんと伸びをしながら「いいいいい……」と謎の声を上げた。それから、
「ここを掃除しろって?」
がくんと肩を落とす。
この小屋は、一応薄い木の壁で部屋とも言えない2つの空間に分かれているようだ。さっきまでいた、テラスと繋がっているのが「リビング」。そこから1枚のドアを開けて奥に進んだところにあるこの空間──リビングの3分の2ほどの大きさのここは、「物置」とユイくんは呼んでいた。今回の掃除をして欲しいという依頼は、小屋全体の掃除と物置の片付けであるという。
「もともと散らかってた物は全部物置に入れちゃったから、足の踏み場もないんだよね」とユイくんは他人事っぽく言い放った。
確かに足の踏み場もない。元は腰掛けだったらしい木箱のようなものや、その他原型のわからない木材の数々。照明として使われていたのかなんなのかキャンプ用のランプが数個。びりびりの寝袋、錆びた釘の入ったケースにトンカチやドライバー。それらは当然のように吹きさらしの雨ざらしで、砂まみれだった。埃が積もっているのよりもひどい。片付ける、と1言に言ってもどこから手をつけたものか。
ワタルが「ふざけるなー」と言って、ネコネは笑った。
「依頼を受けたんだから仕方ないよ」
カミオが屈んだかと思うと、ボロ切れのようなものを何枚か拾い上げた。誰が使ったのかもわからない古い軍手だ。彼はひょいっとそれを投げ上げて、ワタルが反射的にという様子でキャッチした。擦り切れているところもあるし、全体的に黒く汚れているが、ないよりはマシか。
カミオはにやっと笑った。
「2人分だね。ネコネはじゃあ、ユイくんの相手よろしく」
微妙に嬉しそうな表情を見るに、街のヒーローであってもあの少年のことは扱いかねていたようだ。
まあいいけど。あたしはあの子、まだ慣れていないけれどあんまり嫌いじゃないし。理由をつけて女子である自分を力仕事からわざわざ免除してくれたのにも、気付いている。ネコネはオッケーと短く返して、物置からリビングに通じるドアを開けた。
ユイくんはテラスにいた。
「何してるの?」
ネコネが呼びかけると、ユイくんはぱっと弾かれたように顔を上げた。
「お姉さん」
「あたし、ネコネってあだ名なんだ」
「お姉さん、暇なの?」
「……まあまあ暇だよ。物置掃除は他2人でやるって」
「そう」
ユイくんは少し逡巡して、ややあって「じゃあ手伝ってくれる?」と言った。
「うん」
手招きするので、ぱたぱたと走っていった。床に振動がしっかりと伝わる感覚があった。
テラスとリビングの堺あたりに立っているユイくんの前には、小屋と同様に手作りらしい木箱が2箱置いてあった。空っぽだったらユイくんがすっぽりと入れるんじゃないかという大きさだ。だが、今は土で埋まっていて、これ以上とてもじゃないが何も入らない。
いや、土だけではない。ネコネは目を
「ユイくんが育ててるの!?」
「うん。いい感じの木箱が、壊れずに残ってたから、そのへんから土取ってきたのと、お母さんが家庭菜園で使ってる種をちょっと盗んできて……」
「これは何かな? レタス?」
女子だからといって花やらの植物に詳しいというのは大間違いだ。ネコネはこれまで雑草や野菜を育てて愛でる暮らしをしてこなかった。絶対違うだろうなと思いつつ訊いてみると、案の定ユイくんは「かはっ」と声を立てて笑った。
「違うよ、レタスなわけないじゃん。形が全然違う」
「あ、そうなんだ」
「この箱を、本当はもうちょっと向こうに動かしたいんだ。でも1人じゃ持てなくって」
向こう、と言って指を指したのはテラスのもっと外側だ。確かにその方が木々の間から差し込む光が当たりやすくなるだろう。
薄い板1枚を隔てた物置から、ドスドスと音がする。カミオとワタルが何やら運んでいるのだろう。結局こっちでも力仕事だけどなあと内心で笑いつつ「わかった」と返事をして、木箱を持ち上げようとしゃがみ込んだ。その時。
「あのさ」
ぽつんと落とされた声にネコネはぱっと少年の顔を見上げた。暗く影が落ちて、ユイくんの表情はよくわからない。
「ネコネって呼ばれてるの、名前が猫見ねねだからネコネなの?」
なんだ、そんなことかと頷いた。
「そうだよー、縮めただけ。すごい単純でしょ」
ユイくんがしゃがんで木箱の反対側の2つの角に指を当てると、顔が見えるようになった。少年はにこっと笑った。植わった背の低い葉っぱの上で視線が合った。
「うん、単純。信じらんないぐらい単純だね」どうしてか少し嬉しそうに、ユイくんは言った。
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