第2話 その朝オレはユナエリに出会ってしまった

 春。

 この四月からオレもとうとう高校生になる。



 だからなんだと問われても困るんだが人生の区切りのひとつってやつには違いないだろう、とオレは思ったわけだ。



 それでなにかこれを機会に新しいことをやってみようと考えたオレは、早朝ジョギングを始めてみたのだ。……まあ、金もかからないしな。



 でも、小学校時代中学校時代となにをやっても今までだいたいぜんぶ三日坊主になるオレだから、はっきりいうと実は自分自身でも長つづきにあんまり期待していなかったんだが、これは意外だった。

 まだ人が少ない朝靄が残る中の街を走るのはけっこう楽しかったんだ。



 そんなわけで気がつけばもう始めてから六日たっていた。

 そして、……それは四月六日。高校の入学式がある朝だったのだ。で、オレはその日も午前六時きっかりに家を出たわけだ。



 走るコースってやつはいつも決まっていて、事故にはあいたくないし、クラクションを鳴らされるのも癪だから、表通りを避けて住宅街を中心にだいたい五十分でのんびり走れる距離にしていた。



 そしてそれは三十分ほど走ったときだったんじゃないかと思う。



 今はまだ葉っぱもまばらだが、秋になると柿の実がたわわに実るひとり暮らしのじいさん宅の裏路地の角を曲がると、ずっと向こうに高校生が二人見えちまったんだ。



 その高校生のひとりは男でひとりは女だった。

 二人は県立烏沼からすぬま高校の制服を着ていた。……遠目だったんだがよく見かける濃紺ブレザーの制服だったんで間違いようがない。



「カップルだろうな?」



 とオレは判断した。

 だがどうもアツアツベタベタな感じじゃない。

 内容はさっぱりわからないんだが、どうやらいい争いの真っ最中らしくて女の方が声高になにか叫んでいるのを男がなだめているように見える。



 こんな朝っぱらから痴話ゲンカかよ。



 ……待てよ。



 もしかしたら二人はオトナへの壁を乗り越えちまった記念すべきはじめての夜を過ごしちゃったりした朝帰りで、親への言い訳を考えているうちにケンカになったのかもしれねえじゃねえか? 



「ちぇ。いい気なもんだがそれは自業自得ってやつだ」



 なんて思った。……それはそれでちょっとうらやましいけどね。

 ところがだ。男の方がどうやら向かって来るオレという存在に気がついたみたいでオレの方を指さして女の肩を叩いたわけだ。



 そしてなにやら女に話しかけると二人はオレから逃げるように走り去ったのだ。それも全速力でだ。

 ……まあ、気まずいところを誰かに見られたくなかったんだろうな。



 そこから先にちょいと走ると表通りから一本外れた道にマンション群がそびえる一角があって、その並びにもうしわけていどの丘になったちょっと大きめの公園がある。



 そこはオレがまだガキの頃によく遊んでいた場所で、背の高い木々が樹齢の古さを自慢するがごとく我が物顔ではえていて、その中心にはプールくらいの大きさの池があった。



 その楕円形の池には近隣住民が飼えなくなって勝手に放流した金魚やコイが泳ぎまわっていて、その周りにはブランコとすべり台と公衆電話とベンチがある地域住民いこいの公園だ。



 この公園はおかしなことに富士見丘公園という立派な名前がついている。……だが嘘誇張も一切なしに断言できるがここからは絶対に富士山なんか見えやしない。



 ……まあ、百メートルくらい飛び上がればその頂くらいは小さく見えるかもしれないがまだ試したことはないのでなんともいえない。



 オレはジョギングの途中にいつもそこによって水を飲むことにしている。それがまたウマイんだ、これが。



 ……そしてその朝もそうしようと思っていたところだった。公園の大時計を見るといつも通りの午前六時四十分だった。



 オレはクールダウンのために駆け足をゆるめて水飲み場に近づいた。

 遠くの芝生がはえている辺りには体操している老人たちの姿がまばらに見えるが、まだ七時前ということもあって、乳飲み子を連れた母親たちも、愛を語らう恋人同士なんかもまったくいない。いるわけがない。



 ……だから静かなものだった。



 ……妙だな。



 オレはこのときこの風景をすでに見たような感覚がいきなりしてきた。……そりゃ、もう六日間もジョギングをつづけているんだから、見慣れた景色には違いないんだが、それとは違う。



 それは、なんだかあることを思い出せなくて、その答えが出そうで出なくてのどに引っかかっているような、あの感覚だ。



 ……まあ、気のせいだろうな。



 オレはそう思うことにした。実際ばかばかしい話だしな。

 ま、そんなことからオレはぼんやりしていたみたいで、勢い余って水道の栓をひねり過ぎちまったわけだ。



 で、オレは盛大に飛び出した水から飛び下がって、おうっ、と叫んだんだ。



 そのときだった。突然にムサシ、ムサシ……と何者かが誰かを呼ぶ少し押さえた声が聞こえてきたのだ。それは女の声だった。



「なんだ、いったい?」



 オレはしばらく辺りを見回した。

 芝生の方に視線を送ると老人たちのあるグループは一糸乱れぬ太極拳のゆるやかな体技を見せていた。



 だが、いくら元気なお年寄りが増えた高齢化社会ニッポンであっても、やつらがこれほど離れた距離でオレの耳元に声を届けるくらいの神通力を持っているとは、この公園の名前以上に信じられないし、信じたくもない。



 ……第一その声は若い女の声だったのだ。



 はてさてさっきの声はオレの空耳か、それともオレの脳内に巣くっているかもしれない願望が作り出した空想上の彼女がつぶやいた声なのか……。



 そんなとりとめもないことを考えていると、オレのすぐ近くの植え込みが突然がさがさと揺れやがったのだ。



「うぐっ」



 とオレは飛び退いた。

 するとでっかいイヌが飛び出してきやがったのだ。そのイヌは全体が明るい茶色で背と鼻先だけが黒いドイツ・シェパードだった。



 まだ若く毛並みがつやつやしている。そいつがハッハッハッと桃色の舌を出してぴょんと現れたのだ。

 オレは思わずうわっと声をあげちまった。



 ……だが間違っても怖かったわけじゃないぞ。決して言い訳じゃなくて単に驚いただけなんだ。そいつはオレの腰の周りをくるくる回りながら用心深く黒い鼻をふんふん動かしていた。



 身体に震えがくるぞ。もう駄目だぞ。そろそろ限界だぞ。



「……わ、わんこーっ!」



 オレは次に瞬間にはやつの前足をすくい上げて抱きしめていた。

 オレだけじゃない、やつもオレ同様にとんでもなくご機嫌だった。まるで生き別れになった親友と再会できたかのようなほどに、その顔でその身体で喜びを全身に表していたのだ。

 やつの耳の後ろががしがしと爪を立ててやるとオレの口辺りをやたらになめてくる。



「もう、たまりません」



 オレは極度のイヌ好きなのだ。それも超が付くくらいだ。

 自慢じゃないがオレは五秒あればどんなイヌとも親友になれるし、ここら辺りのイヌはみな顔見知りだ。交際範囲も斉藤さんちのドーベルマン、山本さんちの土佐犬、加藤さんちのブルドッグなどと幅広い。



 だがこのシェパードは初顔合わせだった。

 オレは背後の二十階建てのマンションを見上げる。おおかた公園裏にできたこの新築マンションに越してきたやつだろうな。以前オレの家のポストに入っていたちらしではあのマンションはペット可だったはずだったし。



「オレは飛鳥井あすかい速人はやと、お前はムサシっていうのか?」



 オレがイヌとの友情を暖めるこつはまず自分から名乗ることだ。ここ数年このやり方は一度も間違ったことはない。



 ……ただしこの方法はオレ限定だと思えるので責任は取れないんだがな。



「ん? お前は男だな。相手が欲しければ紹介してもいいぞ」



 オレはムサシのオス自身を確かめた。雄々しくてほれぼれするほど立派なものを持っている。

 ……うむ、なによりだ。



 オレはイヌに限っていえばメスの知り合いが多いからな。残念ながら人間の女は別だけどさ。

 そのときだった。



「変態。……オス同士でなにやってんの」



 ……天地が割れたかと思った。

 めちゃくちゃきつーいとんがった声が、オレの背中にどかんと風圧を持ってやって来たのだ。



「聞こえないの? ひとんちのイヌになにしてんの、って訊いてのよ」



「ふえっ?」



 オレはマヌケな声で振り返った。すると……、いつのまにか人が立っていた。



 オレ絶句。すげー美人だった。



 ヘアバンドで長い髪をまとめて、パステルピンクのジョギングウェアに身を固めた手足がすらりとした女の子が両手を腰に立っていたんだ。朝陽のまっさらな青白い光を全身に浴びてめちゃくちゃ輝いていた。



「……」



 身体の色素が薄いためなんだろな。どう見ても天然物にしか思えない栗色のさらっさらのつやつや髪の毛と雪よりも白いんじゃないかと思えるきめ細かい肌がすごく際だっているのだ。



 でも、すげー目つきが悪かった。ぐぐぐっとオレににらみつけていたのだ。



 ……うわっ、参ったよ。



 オレはとたんに真っ赤になっちまったさ。……そりゃ男なら誰だってこのオス同士の抱擁を見られたらそうなるだろ? 



「……いや、あの、その、まあ、なんだ」



 確かにオレの行動はちょっとだけ常軌を逸した行為ではあるけど、ま、それはそれ、現にムサシも喜んでるしな……。



 オレとムサシは思わず顔を見合わせた。んでもって、オレたちは互いに秘め事を見られたバツの悪さを顔に浮かべていた。



「ムサシおいで」



 と少女が愛犬ムサシを呼び寄せた。で、オレはといえば不覚にもムサシをあやす少女に見とれてしまっていた。

 動けないぞ、声も出ないぞ、呼吸だってあやしいぞ。



 ……はっきりいうとホントに時間が止まったかと思ったのさ。



 そのとき突然がさがさと植え込みから音がした。

 歩道に沿うようにしてはえている丈が一メートルたらずのツツジだったかシャクナゲだったかの植え込みだ。さっきムサシが飛び出してきた辺りだった。



 ……小鳥やネコじゃなさそうだな。



 オレはそのときなぜだかやばそうな気がしたんだ。気づかずにこの場を立ち去った方がいいような感じがする。



「誰かいるの?」



 だが女の子はつかつかと植え込みに向かって行っちまった。

 ……あのさ、不用心に近づいたらあぶないって。



「きゃっ」



 ……ほれみろ。短い悲鳴があがった。



 もちろん女の子の声なんだが、オレはそれよりも植え込みから突然ぬっと立ち上がったやつに驚いた。なんとそこには男が隠れていやがったのだ。 



 で、その男。すくっと勢いよく立ち上がったのはいいんだが長い間しゃがんでいたのか足のしびれと立ちくらみに同時におそわれやがったみたいで、はうっ、と、うめいて二、三歩よろめいたのだ。



 ……なんだかいろんな意味であぶねえ野郎だな。……っていうかお前はそこでなにしてやがったんだ?

 そいつは制服姿の高校生だった。



 だがその服はさっき裏路地でオレから逃げた朝帰りの二人連れの男女とは違って深緑色のダブルのブレザーを着ていやがった。あれは確か私立鷺鳥さぎどり高校の制服のはずだな。



 ……それにお前、そのハンカチはなんのつもりだ?



 この野郎はなんの理由があるのかわからんが、目元から下を白いハンカチで隠していやがったのだ。



「いやー、いい朝だね」



 まるで大怪獣がビル街を壊しながら進むようにがさがさと男は植え込みからはい出してきやがった。そして、わざとらしく咳払いをすると、やつはまるでそれですべての事が終わったかのようにオレと少女の間をすり抜けて大またで通り過ぎていったのだ。



 ……オレあぜん。

 ……少女沈黙。

 ……。……。



「まさか知り合いってことはないよな?」



 気まずいから話しかけただけだ。他意はない。



「やめてよね。あんなのが知り合いだったら大変よ」



 まあ、いい。どう見てもあの男は知り合いじゃないし別に危害があった訳じゃない。



 ……よくわからんけど、とにかく春なんだからああいう変わったやつがひとりくらい現れても不思議じゃないだろうしな。



 それに、……どうでもいいが最近は制服姿で早朝に出歩くのが高校生の間で流行っているのか?

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