第10話 「まぼろし鉄道」 03 車中で再会したこどもと、その駆け引き。
そのときだった。
しゅしゅしゅ……という蒸気の音が聞こえてきたのだ。
「汽車?」
「まさか?」
ぼくたちは駅舎ロビーに戻り改札を抜けた。
するとそこに霧の中で黒々と横たわる巨体――十両編成の列車が停車していたのだ。
先頭は真っ黒な蒸気機関車だった。
誰もいないプラットホームになんの前触れもなく列車が停まっていたのだった。
「どういうこと?」
「俺が知るか」
「さっき私たちをひき殺そうとしたヤツかしら?」
「違うだろ? 向きが逆だ。
蒸気機関車は電車と違って、反対方向に走るには方向転換しなきゃならないだろう?」
「そう言えばそうね」
会話をしているカズキと彩音ちゃんを置いて、ぼくは出入り口の手すりに掴まった。
「乗ってみよう。
他に選択肢はないしね。乗せてもらえれば帰れる」
この手の客車に車外と隔てるドアはない。
ぽっかり開けた乗り込み口のステップに足をかけるとぼくはそのまま車内に入った。
「マナツくん大丈夫?」
外からほのかちゃんの声が聞こえる。
「ああ平気。
……っていうか誰もいない」
車内はがらんとしていた。
十数列にも並んだ対面シートの座席には誰の姿もない。
「誰もいないって?」
いつの間にか乗り込んできたカズキがぼくの背後で言う。
「来いよ」
窓ガラスの向こうでぼくたちを不安そうに見ている女の子たちに、カズキが指で合図した。
そして女の子たちが乗り込む気配。
すると突然汽笛が鳴った。
そして客車はガクンと揺れるとコトコトと動き出した。
「おい、動いてるぞ」
カズキがぼくの袖を引く。
「ちょっと、どういうことよ」
「ねえ、なんで動いてるの?」
あわてて客室に入ってきたふたりが口々に言う。
ぼくたちは互いの顔を見合わせて、しばらく揺れるがままに立っていた。
「と、とにかく座ろう。立っていてもしょうがないし」
「そうね」
ぼくの提案でみんな手近なシートに腰を降ろした。
四人がけのボックスシートには、ぼくの隣がカズキ、そして向かいがほのかちゃん、そしてその隣に彩音ちゃんが座った。
ぼくたちはそのまましばらく会話もなくただ流れる景色を見ていた。
そしてふいに彩音ちゃんが口を開いた。
「隣の駅で降りましょう。そしたら位置がわかるもの」
「でも俺たち無賃乗車だぞ。
今更飛び降りるって訳にいかないし」
カズキが答える。
「車掌さんが来たら切符を買えばいいんじゃない?
駅は無人だったんだし」
ほのかちゃんがもっともな答えを言う。
「それもそうか」
ぼくたちはそれぞれ財布を見た。
「でも……。私お金持ってないよ」
ほのかちゃんが悲しそうに言う。
「あ、ぼくも」
もちろんぼくの中身もすっからかんだ。
そもそも山奥にお金を持って行く必要がない。
「ジュースが買えるくらいにしか持ってない。
ま、でも大丈夫か。ここにはお嬢さまが乗ってるんだし」
自分の財布をにらんでうなっていたカズキが言った。
「ちょっと、それいったい誰のことかしら?」
財布をぱたんと閉じて彩音ちゃんが返答する。
「バカなこと訊くな。男の俺がお嬢さまな訳ないだろう?」
カズキが胸を張って答える。
「ぼくもいちおう男だな」
念のためいちおう返事をする。
「私、女だけど……。
私のお父さんただのサラリーマンだから」
ほのかちゃんが真っ赤になってうつむいた。
「……わかったわよ」
投げやりに彩音ちゃんが言った。
「わかったわよ。私が出せばいいんでしょ。
でもね、後でちゃんと返してもらいますからね」
「ケチくせえなあ、おごってやるって言えないのかよ」
「それは頼み方が悪いのじゃないかしら?」
ぼくとほのかちゃんは互いの顔を見て笑った。
がらりとドアが開いた音がした。
振り返るとドアに制服制帽の車掌さんが立っていた。
帽子を目深にかぶっているので、つばで顔が見えない。
「この度はずーっと
車掌さんは妙なことを言った。
「今、
カズキがぼくを見た。
「言った、と思う」
「ふざけているのかな?」
「どうしてふざけるの?
そんな必要ないんじゃないかしら?」
彩音ちゃんたちも意味がわからないようだ。
ぼくたちは互いの顔を見る。
みんなぽかんとして状況をつかめずにいた。
「これはこれは、かわいらしいお客さま方だ」
いつの間にか車掌さんがぼくたちの横に立っていた。
いやに甲高い声だ。
白い手袋で制帽のつばを更に下げたので顔はまったく見えない。
両の耳がいやに長いのが印象的だ。
「あのー。
実は私たち切符買ってないんです」
あっけにとられているとほのかちゃんが代表して答えてくれた。
「どちらまで?」
ひとつ咳払いの後、車掌さんが言った。
「取りあえず隣の駅まで。
……山で道に迷ったんです」
「それはそれは……。お困りですね」
車掌の長い耳はぴくぴく動いている。
「隣の駅までならばいいでしょう。無料でけっこうですよ」
「ホントですか!」
「ありがとうございます」
ぼくたちは笑顔になった。
車掌さんはぺこりと一礼すると元来たドアの方へと歩みを進めた。
そのときだった。
彩音ちゃんがいきなり立ち上がった。
その顔は険しい。
「この列車、見たところ私たち以外は誰も乗っていないみたいですけど……?」
ぴたりと車掌さんが止まった。
「……最近乗る人が少ないんですよ」
背を向けたままだ。
「教えてくださらない?
この列車どこに行くのかしら?」
彩音ちゃんが背もたれを掴んだ指にぎゅっと力を入れるのが見えた。
「おい、いい加減にしろ」
小声でカズキが彩音ちゃんの袖を引く。
「余計な事を言ったら機嫌悪くして切符を買わされるぞ」
彩音ちゃんは無言だった。
そしてするどいまなざしのまま車掌さんの背を見つめる。
「……決まってるでしょ?
終点までですよ。……
「それはどういう意味かしら……?」
「彩音、いいから座れ」
カズキが力任せに彩音ちゃんを引っ張った。
すると彩音ちゃんは糸が切れた人形のようにへなへなと崩れる。
「おい、どうした!」
カズキがとっさに支え、座席に座らせた。
「あの車掌。……消えたわ」
「えっ?」
ぼくたちは立ち上がった。
すると開け放しのドアが、列車の揺れにまかせて開いたり閉じたりしていた。
そしてそれは向こうの車両も、そしてもっと向こうの車両のドアも、同じように右に左に開いたり閉じたりを繰り返していた。
こんな列車のずっと遠くまで見通せる状態なのに、車掌さんの姿はぼくたちの目には映らなかった。
「どういうこと?」
「わからん……」
ぼくたちは、ただただそのドアたちを見つめていた。
列車ががくんと揺れてぼくたちが我に返ったときだった。
「うわっ!」
いきなりカズキが叫んだ。
見るとカズキの服の裾を掴むちいさな男の子がいた。
目が細くやせて手足の長い男の子だ。
「あれ? 僕、どうしたの?」
ほのかちゃんが男の子に尋ねた。
「さっきのガキじゃねえか!」
カズキが言ってぼくはうなずいた。
「さっきってどういうこと?」
「……山ン中で会ったんだよ。
このガキに。こらっ、手を離せ」
カズキが手を振って追い払おうとするが男の子はひらりと身をかわす。
「ぼくたちが虫を捕まえてたら現れたんだ。そしていきなり消えたんだ」
ぼくは言ってて気味悪くなった。
なんだか車掌さんと同じだと思ったのだ。
「ねえ、それ見せてよ」
すさまじいまでの執着で男の子はカズキにまとわりつく。
「さっさと行けよ。殴るぞ」
カズキがこぶしを振り降ろした。
だがそれも空を切る。
「ちょっと乱暴じゃない?」
彩音ちゃんが諭すように言う。
「ねえ、見せてよ」
だが男の子はそんなカズキにも彩音ちゃんにも興味がなく、ただカズキの袖を引いている。
「ねえ、いったいなにを見たいのかな?」
ほのかちゃんが男の子に訊く。
「そのカブトムシやクワガタじゃないかしら?」
彩音ちゃんがカズキが反対の手に持っている虫かごを指さす。
「ああ、これか? 坊主?」
カズキが虫かごを近づけた。
「うん。それ」
男の子は鼻がくっつくほど虫かごに近寄った。
「いっぱいいるね。いったい何匹いるの?」
「二十匹だ」
カズキが誇らしげに答える。
「ねえ、お兄ちゃんたち。ぼくにこれちょうだい」
男の子は細い目を更に細めてまっすぐにカズキを見た。
「バカ。
おととい来やがれ、ってんだ。せっかく捕まえたんだぞ。やれるか」
「ケチね。いいじゃない、また採ればいいんだから」
彩音ちゃんがあきれたように言う。
「そういう問題じゃない。これは尊い勤労の証だ。
その論理で言ったら、働く者が働かない者に無償でなんでも与えなければならなくなる」
「そういう理屈じゃないでしょ?
小さい子がちょうだい、って言っているんだからあげなさいよ」
「カズキ、一匹くらいならいいんじゃない?」
ぼくは言った。
これは妥協策だ。
「わかったよ。
じゃあ、仕方ないから一匹だけやるよ……」
カズキはしぶしぶと従った。
「どれがいい?」
「この大きなハサミのクワガタがいいんじゃない?」
「このカブトムシの方がいいんじゃないかな?」
ぼくたちの言葉にはまったく答えずに男の子は虫かごをじっと見つめていた。
やがて……。
「全部ちょうだい」
予期せぬ答えが返ってきた。
「このガキ! ふざけんのもいい加減にしろ!」
カズキの顔がみるみる赤くなる。
そして虫かごを両手いっぱいの高い位置に上げてしまった。
「ねえ、全部ちょうだいよ。いいじゃない?」
男の子はぴょんぴょんと跳ねてかごを掴もうとするが、カズキは決して降ろさぬ覚悟だ。
こうなってしまうとカズキは頑固だ。
ぼくはどうやって説得しようかと思案した。
そのときふと彩音ちゃんの顔が目に入った。
口の中でなにかつぶやいていて、すごく真剣なまなざしで遠くを見つめているみたいだった。
やがて視線が戻り、意を決したように立ち上がった。
「ねえ、カズキくん。
お願いだからその子に全部あげて」
ちいさいがよく通る声だった。
瞳はまっすぐにカズキの目を見つめている。
「な、なに言うんだよ!」
カズキが固まった。
彩音ちゃんのその視線に圧倒されたように見えた。
「お願い。
もし後でどうしても欲しいなら、私が買ってあげるから……」
「お前、お嬢さまだからってバカにするな。
俺は物乞いじゃねえ!」
「ごめんなさい……。
私の言い方が悪かったわ。買うのが嫌なら私もいっしょに捕まえるから」
驚いた。
まるで哀願するかのように彩音ちゃんはカズキの襟を揺さぶっている。
「やだね。
素人のお前になんか手伝ってもらったら、かえって足手まといだ」
「私がんばるから。捕まえ方教えてくれるなら素直に聞くから……」
「……」
ちいさな男の子だけがぴょんぴょんと跳ねていた。
カズキは動けずにいた。
……彩音ちゃんは目に涙さえ浮かべて必死の思いでカズキの返答を待っていた。
ほのかちゃんがぼくの袖を引いた。
……大丈夫。わかってる。
「カズキ」
ぼくは落ち着いた声で言った。
カズキはぼくを見、ほのかちゃんを見、そして胸元の彩音ちゃんを見た。
「わ、わかったよ」
両手を降ろして虫かごを男の子に差し出した。
「お兄ちゃん、ありがとう」
男の子は満面の笑みだ。
「いいってことさ。
礼を言うならこのお姉ちゃんに言え」
ふてくされた態度でカズキはどっかと座席に座った。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「いいのよ。
でもこんなにいっぱいの虫、どうするの? 飼うのも大変じゃない?」
泣き笑いしながら彩音ちゃんが男の子に向かって言った。
「飼う?
……ぼく飼わないよ」
ぼくはぞくりとした。
にやりと笑った男の子の顔が一瞬ケモノのように見えたのだ。
「じ、じゃあ、どうするの?」
男の子はそれには答えずかごのふたを開けると、まるまる太ったカブトムシを一匹取り出した。
そして角をつまんだまま口をあんぐりと開けると、いきなり
「……!」
ぼくたちは言葉を失っていた。
車内にばりばりと甲虫をかみ砕く音だけが響いた。
「ちょっと! そんなの食べるとおなか壊すわよ!」
男の子が掴みだした二匹目を彩音ちゃんが奪い取ろうとするが空振りになった。
ひょいと身をひるがえして避けたのだ。
「おいしいよ」
男の子は次々と虫を取り出しては食べ続ける。
甲虫独特の臭いが鼻につく。
「へえ、変わったやつもいるもんだな」
あんなにあげるのを渋っていたくせに、カズキはそれをおもしろがっていた。
足下にはこぼれた翅や足が散らばる。
ぼくにはそれがまるでばらばら死体に思えた。
「ちょっとどういうことなの?」
彩音ちゃんは顔をしかめている。
「ううっ……」
ほのかちゃんが口を押さえた。
それはぼくも同じだった。
胃から苦いものがこみ上げてきたぼくは車外に目を向ける。
列車はゆるやかにカーブしていた。谷川を越えて、森を越えて、鉄橋を越えた。
そして
「……あれ?」
谷川を越えて、森を越えて、鉄橋を越えて……。
「おい、変だよ」
ぼくは真っ青になって振り返る。
「なにが?」
下手物食いをむしろ楽しそうに見ていたカズキ、そして彩音ちゃんとほのかちゃんをぼくは窓際まで引っ張った。
「なにが見えたんだ?」
「別に変じゃないわね」
最初はぼくに対して不審顔だったみんなもやがて黙った。
そして全員が気がついた。
「これって。……同じ風景?」
「俺たちぐるぐる回っているだけなのか?」
「やめてよ……」
戦慄がぼくたちを襲った。
誰ひとり動けず。お互いの顔を見るしかなかった。
あはははは……。
突然の笑い声にぼくたちは振り返った。男の子が笑っていた。
「お姉ちゃんたち、帰りたい?」
ぞっとするような笑い顔だった。
すべての結果を手中に収めている力ある者のような顔だったのだ。
「……帰りたいわ。
そのためには、なにをすればいいのかしら?」
彩音ちゃんの声はかすれた。
男の子はおや、っとした顔になる。
「話が早いね。
チャンスは一度だけだよ」
男の子は虫かごを放り出した。
中身はもう空だ。最後の一匹を手に持っているのが見えた。
「ぼくが食べた虫の数だけ鉄橋を越えたらすぐに飛び降りて」
「飛び降りる?」
ぼくたちは顔を見合わせた。
列車はものすごいスピードで走っているのだ。
「無茶言うな! 飛び降りたら死んじまうだろ」
カズキが抗議する。
「もう教えたからね。
あとはお姉ちゃんたち次第だね」
ごうっと風が吹いた。
窓ガラスががたぴし揺れて、ぼくたちは思わず顔を両手で覆った。
「……消えた」
そして気がつくと男の子の姿はどこにもなかった。
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