第7話 第二話 最終話 「さくら沼の姫」 02 悲しみはすべて水面の下に。
待ち人たちに合図を送るかのように小刻みなクラクションが鳴り右の方からバスが近づいて来た。
特急の停まる町からここを経由して山間の町へと向かうバスだった。
ドアが開いてひとりの少女が降り立つのが見えた。
「あ、彩音ちゃん!」
思わず私は叫んだ。
彩音ちゃんは、私の姿を見つけるとちょっとだけうれしそうに笑った。
「ふーん。あれがあなたのお友達?」
「そうなんです」
「へえ、きれいな子ね」
友達がほめられるってのはうれしい。
ふだんは彩音ちゃんといると容姿や家柄で比較されて落ち込むことも多い私だけど、今日はなんだか誇らし気に感じる。
「感謝。迎えに来てくれたの?
遠くから姿が見えてたから、もしかしてって思ったらやっぱりほのかだった」
手を振りながら彩音ちゃんはやって来た。
「うん。実は虹を見てたら、ここに来ちゃったってのが正解なんだけどね」
「虹ってどこかしら?」
彩音ちゃんは大空を仰ぎ見る。
「もう消えちゃった」
「そうなんだ。残念」
「すごくきれいだったよ。ね、さくらさん?」
私はベンチを振り返った。
だが……、そこにはさくらさんの姿はない。
「あれ? あれ? ……おかしいな。今までいたのに?」
「誰が?」
「さくらさんってきれいな女の人。
その人とずっと虹を見てたの。その人も誰かを待ってたんだ……」
「ずっと?」
「うん。彩音ちゃんが降りてくるまでいっしょだった」
彩音ちゃんはとたんに怪訝な顔になった。
「ほのか。……ここには、あなたしかいなかったわよ」
「え……?」
私は停留所の裏とか桜並木とかいろいろ探してみたが、さくらさんの姿はどこにもなかった。
翌日、彩音ちゃんが熱を出した。
広いたたみの部屋の真ん中にしかれた布団の中でうんうんうなっている。
外は今日も朝から雨だった。
昨日と同じくらい強い雨が降っている。
「なんだよ。鬼の錯乱か?」
部屋に入るなりカズキくんが彩音ちゃんをからかう。
「バカ言わないで。それを言うなら鬼の霍乱でしょ!」
「そうだったか?」
カズキくんはマナツくんの顔を見る。
「うん、そうだと思う」
マナツくんは大きくうなずいた。
「それよりも、……誰が鬼なのよ!」
怒って立ち上がろうとした彩音ちゃんだが、そのまま力尽きてふらふらと座り込んでしまった。
「彩音ちゃん。ほっとけば」
私は彩音ちゃんを寝かしつけて掛け布団を首のところまで引き上げる。
彩音ちゃんはうらめしそうにカズキくんたちをにらんでいる。
そしてぱたぱたと廊下を歩く音が近づくと政代さんが顔を出した。
「ちょっと手伝ってくれない?」
「はーい」
カズキくん、マナツくん、そして私が立ち上がる。
「ああ、女の子たちはいいの。力仕事だから」
政代さんはそう言って男の子ふたりを指名した。
「やっぱり頼りになるのは男だろ!」
「どういう意味よっ!?」
「女では役不足なんだよ」
ふすまが閉められて私と彩音ちゃんだけが取り残された。
「悔しいわね。ああまで言われると」
視線で他人を呪えるとしたら、まさに今の彩音ちゃんの目つきがそれだった。
「力仕事って話なんだから仕方ないじゃない」
「意地よ。
悔しいわね。私は今日ほど風邪を引いたこと後悔したことないわ」
そう言って彩音ちゃんの声がちいさくなる。
「私、男の子って嫌い。バカで下品で見栄っ張りで……」
「どうしたの?」
彩音ちゃんは目を閉じるとしばらく無言になった。
私はさっき飲ませた風邪薬が効いて眠くなったのかと思って部屋を出ようと立ち上がる。
「……昨日出かけたのはね。
実は男の子と会うためだったんだ……」
私は驚いて振り返った。
彩音ちゃんは目を閉じたままだ。
「……許嫁なのよ」
「許嫁? それってどういう意味?」
私は再び彩音ちゃんの枕元に座った。
「許嫁ってのは結婚する約束ができている相手って意味。
つまり婚約者ってこと――」
「違う、そういう意味じゃなくて、なんで彩音ちゃんに
「……
まるで他人事のように言う。
私は彩音ちゃんが自分のことを初めて話してくれると思ったので、楽な姿勢になって話に耳を傾けた。
「私の家。金持ちなのよね」
「そだね。彩音ちゃんは社長令嬢だもの」
「うん。
だから私が生まれる前から相手が決まってるんだ。
相手の家もやっぱり企業をいくつか経営している家柄なのよ」
「それって政略結婚ってこと?」
「……はっきり言うわね」
彩音ちゃんが目を開ける。
「ごめん……。ほかに適当な言葉が浮かばなかったから」
「うん……、ううん、ほのかの言う通りなの、実際……」
「……」
「小さいときから毎年一回か二回くらい会って遊んでたんだ。
互いの相手と仲良しにさせたいって親たちの考えなんだと思うの」
「そうなんだ」
「うん……、それで去年お父様たちから聞かされたのよ。
お前はあの人と将来結婚するんだってね。ま、それまでもうすうすは感じてはいたのよね」
彩音ちゃんはそこまで言うとため息をついた。
とても苦しそうな重苦しいため息だった。
私はそれだけでそのことが楽しい秘密ではないんだとわかった。
目を閉じている彩音ちゃんを見つめる。
……ファッションモデルにならないかとなんども街で声をかけられた学年一の美少女。
……ちいさくて細い顔、なめらかな眉、長いまつげと二重の切れ長な目、そしてすっと通った鼻と形良い唇。
……髪の毛は柔らかい自然なウェーブがかかっていて、折れそうなくらい細い首と女らしいなで肩。
……そして大企業のひとり娘。
私とはすべてが全然違うこの恵まれている親友に、私なんかじゃあり得ない苦労があったんだと知ったらなんだかとってもとっても悲しくなってきた。
「……やめちゃえば……いいんじゃない?」
思わずぽつりとそんな言葉が出てしまった。
彩音ちゃんはすでに寝息を立てていると思ったので、これは私のひとり言になると思った。
「……やめる? 簡単に言うわね」
ところが返事が返ってきた。
「ごめん……私そういうの経験ないから」
「……私個人の問題じゃないのよ。
親とか会社とか銀行とか、そんないろんな世間がからんでいるのよね」
彩音ちゃんが手を伸ばしてきたので私はコップを握らせた。
そして上半身だけ起こした彩音ちゃんが水を飲むのどの動きをぼんやり見ていた。
「あのさ、その人ってどういう人なの?
やっぱり金持ちだから性格悪いの?」
私は思いきって尋ねてみた。
「性格?
うーん、やることなすことそつがないのよね。
わかりやすく言えばスマートなタイプなのかな」
「へえ? じゃあカッコイイんだ」
「そう? 違うんじゃないかしら?」
彩音ちゃんは遠い目になる。
「去年の夏に会ったときカブトムシの話題になったのよ」
「カブトムシ?」
「うん。そういえば先日大きなカブトムシを入手したんです。
よろしかったら見に来ませんか? って」
「それで見に行ったの?」
「見たわ。
ヘラクレスカブトムシっていう虫で初めて見たのよ。とっても大きかった」
「ヘラクレス……? なにそれ? どうやって捕まえたの?」
彩音ちゃんが口を押さえて笑う。
「捕まえた訳ないでしょう。
ペットショップから取り寄せたに決まってるじゃない」
「ペットショップ? どうして?」
「マレーシア原産の世界でいちばん大きなカブトムシらしいの」
「へー」
私は感心するしかなかった。
カブトムシに興味はないので返事のしようがなかったからだ。
窓の外で稲妻が光り、遅れて激しい音が来た。
「……男だったらテメーで捕まえたものを見せてみろってんだ」
ぽつんと言った言葉だった。
……私は彩音ちゃんが男言葉を使うのを初めて見た。
なんだか思い詰めたようで少し怖く見えた。
「……あの人はそういうタイプなのよ」
「ま、いわゆるお金持ちタイプらしい、ってことなのね?」
「そうね。で、それで昨日は私自身がカブトムシだったのよ……」
彩音ちゃんは私を見た。
その目は悲しそうとも怒っているとも言える目だった。
「なにそれ……」
「私のことやつは学校中に言いふらしていたらしいのよね。
私が会いに行ったら知らない男の子がうじゃうじゃいて指さして見てるのよ」
「ひどい……」
「あの人にとって、私ってカブトムシと同じで、手に入れたコレクションのひとつみたいなものだとそのときわかったのよ」
「それでどうしたの?」
「だから……私は思いっきりひっぱたいて帰って来たの。
プライドが高い家柄の人だから、間違いなくご破算ね」
きっと今の話からして彩音ちゃんはその婚約者と会うときは、思いっきりネコをかぶっていたに違いない。
でもそのネコの正体は実はトラだったのだ。
牙をむいたトラの一撃はさぞかし強烈だったに違いない。
私は日頃カズキくんと言い争いをして、ときにはひっぱたいたり蹴っとばしたりしている彩音ちゃんを思い出していた。
だから思わず、あははと笑ってしまった。
「ほのか、どうしたの?
私のしたことそんなにおかしい?」
私はにっこり笑う。
「ううん。その方が彩音ちゃんらしいよ。
難しいことはわからないけど私はそう思う」
「そう、そうだよね……。それの方が私らしいか」
彩音ちゃんもにっこり笑った。
まるでいきなり花が咲いたような明るい笑いだった。
「ずいぶん楽しそうじゃないの?」
ふすまが開いて政代さんが入ってきた。
私と彩音ちゃんはなんとなく居住まいを正す。
「あらあら、駄目じゃない。
病人はちゃんと布団に寝てなきゃ。夜にはお医者さんが来てくれるのよ」
「暑苦しくて眠れないのよ」
政代さんは有無を言わせず彩音ちゃんを寝かしつけた。
「だったら政代さん、なにか話をしてくれるかしら?」
「話?」
「うん。私が眠れるようなお話」
「そうね。
でも眠れなくなるようなお話しか浮かばないわね」
「それでもいいわ」
政代さんはしばらく考えて、やがて昔話を始めた。
「……この辺りには昔人喰いギツネが出たのよ」
「人喰いギツネ?」
「そうなの、道に迷った旅人を助けるふりをして食べてしまうのよ」
「へえ、なんだかおもしろそうね」
「でも旅人には一度だけチャンスが与えられるの」
「チャンス?」
「うん。キツネのこどもが現れて旅人が大事にしている物を欲しがるの――」
政代さんは話ながら私に目配せをした。
この場は任せなさい、っていう意味だと思ったので私はうなずいて部屋を出た。
縁側に出て外を見たら驚いたことに雨が上がっていた。
そして空には昨日と同じに大きな虹がかかっていた。
「すごい!」
私はすぐに屋敷を飛び出した。
昨日と同じに地面には水たまりがたくさんできていた。
水たまりはまるで鏡のように頭の上いっぱいに広がった青い青い空と真っ白な入道雲を映しているのも同じだった。
そして私はやっぱりさくら沼を目指していた。
野原を越えて走っていると田んぼで仕事をしているマナツくんたちがいた。
里の人のお手伝いで用水路の土手を崩したり大きな石を沈めたりして田んぼに入る水を調整している。
「ねえ、見て見て!」
私は、はしゃいでいたので大声で空を指さした。
「おお! すげえ!」
「ホントきれいだね」
虹があんまり見事なのでカズキくんもマナツくんも作業をやめて空を見上げていた。
「ほら、きれいでしょ?」
私はまるで虹が私のものだと言わんばかりに得意気だった。
「うー。確かにすげえ。悪かった」
カズキくんがぺこりと頭を下げた。
「こんな虹見たことないよ」
マナツくんは感激しているようだった。
「わかればいいのよ……。
ってのは冗談。私これから行くとこあるから」
「どこに?」
「バス停。
もっと虹がきれいだし、もしかしたら、さくらさんにも会えるかもしれないし」
「さくら……さん?」
マナツくんが怪訝そうな顔をしたが、私は気にせず手を振って走り出した。
停留所にはさくらさんの姿があった。
私は手を振って走った。
「こんにちは、今日も虹を見に来たの?」
さくらさんは、今日は空色のワンピースだった。
そろえた膝の上には夏らしい藤編みのポシェットが見えた。
「はい。ホントは友達と来たかったんだけど」
「あの彩音ちゃんって子?」
「ええ」
私たちはベンチに座り大空を見上げた。
木々や山が邪魔しないここは虹を見るには最高で、やっぱりこの場所に来てよかったと思った。
「そのお友達はどうしたの?」
「ええ、熱を出して寝てるんです」
「熱。
……それは大変ね。やっぱり昨日の雨?」
「はい。雨もそうなんですけど、それよりも精神的なものもあったんじゃないな、って思ってます」
バスが通過した。
気がつけば私はさくらさんに彩音ちゃんのことを話してしまっていた。
後で彩音ちゃんに叱られると思ったけど、彩音ちゃんの婚約者のことを誰かに相談したい気持ちもあったし、なによりもさくらさんが持つ雰囲気が話しやすいからだったんだと思う。
「……その子の場合は別れて正解だったと思うわ」
「やっぱりそう思いますか?」
私はうれしくなった。
「だってその子は相手のことが信じられないんでしょう?」
「はい。とっても傷ついていたみたいなんです」
「それじゃ駄目ね」
気がつくと虹は消えていた。
だけど私はこうしてさくらさんと話しているのが心地よかった。
「……それに政略結婚って良くないと思うんです」
「そう?
……親同士が決めた結婚って聞こえは悪いけど、そう悪いことばかりじゃないのよ」
「そうなんですか?」
私は驚いてさくらさんを見る。
「うん。……私の場合もそうだったから」
さくらさんはにっこりと笑う。
「……さくらさんって、結婚してたんですか?」
「見えない?」
「うん。……だってきれいだし。恋人くらいはいるって思ってたけど」
「ありがと。
……でも恋人ってのは当たってるかもね」
「どういう意味なんですか?」
「うん。私たち結婚して、すぐに別々に暮らしているの」
「別々なんですか?」
「うん。仕事だから仕方ないんだけど。
お互いに好きだったからちょっと寂しいんだけどね」
「……そうなんですか」
さくらさんは遠くを見ていた。
西の空が少しずつ赤く染まり始めていた。
「明日はきっと晴れね」
つぶやくさくらさんの目はとても悲しそうで、恋人がいる場所がきっとずっとずっと遠くなんじゃないかな? と私は思った。
私たちの会話に邪魔することを恐縮するような遠慮がちなクラクションが鳴って、右の方からバスが近づいて来た。
特急の停まる町からここを経由して山間の町へと向かうバスだった。
そしてそのバスは今日の最終のバスでもあった。
誰も降りず誰も乗らない。
やがてバスは走り去る。さくらさんはその姿を見えなくなるまでながめていた。
道の上の土手ではマナツくんたちが作業の後片付けをしているのが見えた。
マナツくんが手を振ったので私は振り返した。
「あーあ、私は今日も待ちぼうけね。
信じられなくなりそうだわ」
突然さくらさんがつぶやいた。
「なにが、……ですか?」
私は尋ねる。
「好きな人のこと……よ」
「だって好きなんじゃないですか?」
「好きよ」
さくらさんはさらりと言う。
私はそれがとてもすてきに見えた。
「でもね……、あなたに好きな人がいたとして、どんなときでもその人のこと信じられる?」
「どういう意味ですか?」
「うん。
あなたが例えば寂しかったりピンチだったりするとき、その人が絶対に助けてくれるって信じられる?」
「はい。信じられると思います。
だってそれこそ好きな人の条件じゃないですか?」
私はなぜだか即答した。
自分でも不思議だった。
「そう、……そうね。じゃ私は失格ね。
私がこんなに寂しくてずっとずっと待っているのに、あの人は全然迎えに来てくれないのよ」
並木からはセミの声がしゅわしゅわと響いていた。
さくらさんはゆっくりと立ち上がって道を横切って沼の茂みへと足を踏み入れた。
「さくら……さん?」
私は立ち上がって声をかけた。
さくらさんは返事をしないで、一歩一歩濁った沼の水の中に入って行く。
真っ白な足の膝が沈み腰まで水につかっている。
私はあわてて走り出した。
「待って、待ってよ!」
私は走った勢いのまま水に入った。
水底の泥に足を取られながらもじゃぶじゃぶと駆けた。
あとちょっとで追いつける。
さくらさんはもう背中まで水の中だった。
私はつまづいた。
「ねえ、待ってよ。さくらさん……」
身体を起こして走り出した私はまた転んだ。
もう服はぐしょぐしょだった。
「――ほのかちゃん! なにやってんだ!」
声がする。
マナツくんの声だ。
さくらさんの頭が見えた。
……そして沈んだ。
ちいさな波紋だけが波のない沼に広がっていた。
「マナツくん! さくらさんが、さくらさんが……」
私は沈んだ。
急に深くなったのだ。水草が足にからまった。
水を飲んだ。激しくむせた。
……そして意識が遠くなりかけたときだれかが私の手をつかんでくれた。
私は今、広い部屋に寝かされている。
あの後私はマナツくんに背負われて屋敷に帰ってきたらしい。
白衣のお医者さんはさっき帰った。
彩音ちゃんのために往診に来たのだけど私もお世話してもらったのだ。
「……さくら姫に魅入られたんだね」
政代さんが言った。
枕元にはマナツくんとカズキくんもいた。
彩音ちゃんは今眠っているらしい。
「さくら……姫?」
私は尋ねた。
「ああ、さくら姫だね。こんな日にはよく出るんだよ」
「こんな日?」
「真夏の雨上がりの虹の後さ」
「さくら姫って?」
マナツくんが尋ねる。
「昔昔の話だよ。聞きたいのかい?」
私はこくんとうなずいた。
「戦国の時代。ここは小さな国だった。雨も良く降り、作物豊かで虹が美しいと評判の国だった。
そしてこの国の姫こそが、さくら姫だった。
姫はとても美しく、その噂は遠くの国々にまで行き渡っていた。
その姫を娶ったのが隣国の城主の嫡男だ。ふたりは幼いころからの馴染みだった。
隣国は大国だったので、その国とつながりが出来たことでこの国は安泰と思われた。
だが、そうは行かなかった。
戦上手で勇名をはせた隣国の城主が死に、姫の夫が家督をついだのだが、夫は詩歌は得意だが戦が苦手で、瞬く間に近隣の強国に領地を奪われ始めた。
そしてついに本城が落ち、夫は姫を連れてこの国に逃げてきたのだ。
だが、追っ手はそれを許さなかった。
小国の城など大軍の前には無力だ。
一夜で城は落ち、夫は姫を連れてこの沼まで逃げ落ちた。
追っ手の軍勢が鳴らすホラ貝が山々にこだました。
もはやこれまでとなったとき、夫が敵を引きつけると言い出した。自分が囮となるので姫は身を隠せと言うのだ。
そして次の虹が出る日までに必ず戻ると約束して、わずかな手勢を引き連れて馬を走らせた。
姫は里に身を隠し、夫を待った。
来る日も来る日も息を潜め虹が出る日を待ち続けた。
そしてある日虹が出た。
姫は沼へと向かった。
だが、夫は戻らなかった。
姫には知らされていなかったが、夫は激しく抵抗した末にすでに首をはねられていたのだ。
それを知らずに沼を訪れた姫を待っていたのは、追っ手の軍勢だった。
この戦は、もともと姫への横恋慕をした強国の城主が始めた戦だったのだ。
追っ手の狙いは初めから夫の国やこの小国ではなく、美貌の姫そのものだとわかったのだ。
あわれな姫は、もはやこれまでと観念して沼へと身を沈めた。
それ以来、沼は『さくら沼』と呼ばれ、ときおり沼に入って戻らない人々が現れるようになった
と、言う話さ……」
政代さんがそう言って立ち上がった。
密度の濃い空気がこの部屋に満たされていた。
「……ぼくは、なんか変だと思ってた」
「変てなんだ?」
カズキくんの問いにマナツくんはしばらく黙って、そして話し始めた。
「……昨日バスから姿を見たとき、ほのかちゃんが誰かと会話しているように見えたんだ。
そしてほのかちゃんが沼に入ったときも誰かを追っているように見えたけど、その姿は、ぼくには見えなかったんだ」
私は涙が出た。
止めどもなく両目からあふれてきたのだ。
「悪い人じゃないんだ。……ただ姫が美しすぎた。それだけなんだね」
マナツくんがそう言った。
「でも、でも……、それって悲しすぎるじゃない」
私はちいさいこどものように、いつまでもいつまでも泣き続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます