第6話 「さくら沼の姫」 01 出会いは虹とともに……。
「……ほのか、もしかして起きたの?」
彩音ちゃんが話しかけてきた。
真夜中のことである。
起きてしまったのは外の音がすごいからだった。
「うん、寝てたけど目が覚めちゃった」
「せっかくあのバカたちが静かになったと思ったのに……」
ため息がひとつ漏れた。
彩音ちゃんが消灯時間になっても大騒ぎしていた男の子たちをしかりつけに行ってからずいぶん時間がたつ。
「そだね」
私は答える。
きっと今頃は、マナツくんたちはふすま一枚隔てた向こうで静かな寝息を立てているんだろう。
彩音ちゃんが寝返りを打って私に背を向けるのが真っ暗な部屋の中でも気配でわかる。
きのうから降り始めた雨はしだいに強くなっていた。
屋根を叩く激しい雨音に目が覚めると、やがて雷の音も聞こえた。
――外はとんでもない嵐だった。
風が強く吹くたびに屋敷を囲んだ木々の枝がきしみ葉がちぎれんばかりにわさわさと揺れる。
その度に建て付けのよくない木の雨戸ががたがたと音を立てる。
まるで巨大な怪物が屋敷ごと揺らしているようだ。
ここに来る前の私だったらきっと怖くて固まっていたに違いない。
ちょっとは強くなったのかな?
もちろん隣に彩音ちゃんがいてくれることがいちばん大きい。
それに初日にお屋敷さまに驚かされたことに比べればなんてことはない。
そう言えばの話、あれ以来お屋敷さまはすっかりおとなしくなっていた。
ときおり廊下を静かに歩く音が聞こえてくるだけだ。
なんだか私たちに遠慮しているみたいだった。
「ほのか、私、明日出かけるから……」
風が止んだつかの間、彩音ちゃんがつぶやいた。
「どうして? ひとりで?」
「……うん。ちょっと訳ありでね」
なにか言いにくそうな雰囲気で彩音ちゃんが告げた。
私はその言葉のつづきを黙って待っていた。
が、しばらくして聞こえてきたのは静かな寝息だった。
夜が明けた。
外は相変わらずの嵐である。
「こんな天気なのにでかけるの?」
朝食のときである。
いろりを囲んだのは私と彩音ちゃんのふたりだけだった。
マナツくんとカズキくんの寝床はすでにもぬけの殻になっていて、政代さんも朝から納屋で仕事をしていたからだ。
私の問いには答えずに、たくあんを箸でつまんだ彩音ちゃんが、これ、おいしい、とつぶやいている。
「明日にすれば?」
聞こえていないと思ったのでもう一度彩音ちゃんに尋ねた。
「……そうもいかないのよ」
箸の先を見つめながら彩音ちゃんが小声で答えた。
寂しそうな横顔――初めて見る顔だった。
私と彩音ちゃんは仲がいい。
でもまだ出会って三ヶ月しか経っていない。
まだまだ私が知らない彩音ちゃんがいるのは少し寂しいことだけど仕方ないと思った。
そして彩音ちゃんのその顔は私が尋ねてはいけない理由があるんだということも伝えてくれていた。
「ごちそうさま……」
立ち上がった彩音ちゃんは傘とレインコートに身を包んだ。
「午後のまだ明るいうちに帰れると思うから……」
そして、じゃ、と元気なく手を振って彩音ちゃんは雨の中を出かけて行った。
雨は午後を回っても一向にやむ気配を見せなかった。
粒の大きい雨は激しく地面を叩き飛沫をあげている。
することもなく話す人もいない私はただぼーっと縁側に座ってそれをながめていた。
読み終えたマンガがだらしなく積み上げられている。
さっき読んだマンガの中に出てきた大地を沈めたノアの箱船の物語に出てくる伝説の大雨も、きっとこんなだったんだろうなあ、なんて考えていた。
雨は憂鬱。
ふだんならそう思って窓の外を恨めしげに見ている私だけど、こうも派手に降り続けられるとぶちまけられる雨粒弾丸の跳ねる音も心地よいものに思えてくる。
そしてその通り私は縁側の黒光りする板の上でまどろんでしまった。
――どれくらい眠っていたのかはわからない。
やがて私はまどろみつづけた浅い眠りから覚めた。
「あ、やんだ……」
先ほどまでの天気が嘘のように辺りが静かになっていた。
雨脚が弱まり西の空がだんだん明るくなって青い晴れ間が姿を見せたのだ。
雲の間から差し込んだ光の束が地面へと何本も降りている。
「わあ、虹!」
すごく大きな虹が現れていた。
虹なんて今までなん回も見たことはあったけど、その空にかかる虹はとんでもなく大きかった。
そして、とんでもなくきれいだった。
私はなんかうきうきした気分になっていた。
なんだかとっても大事な時間が始まった気持ちになっていた。
そして気がつくと私は靴をひっかけて走り出していた。
地面には水たまりがたくさんできていた。
水たまりはまるで鏡のように、頭の上いっぱいに広がった青い青い空と真っ白な入道雲を映している。
私はそれをときには避けてときには飛び越えて走っている。
目指すのは虹だった。
雨上がりの野原はなにもかもがきれいで輝いて見えた。
いちばん虹がよく見える場所へ行こう。
しゃわしゃわと騒ぎ出したセミたちの声を聞きながら私はずんずん走って行った。
そして私がやって来たのは日の当たる大きな沼だった。
そこは「さくら沼」という名前の沼で、私たちが研修に来ている集落にいちばん近いバス停があるところだ。
その道の両側には大きな桜並木があって、春には一面さくら色に染まって、それはそれは見事だと政代さんが言っていたのを思い出す。
だけど今の私はこの景色でもじゅうぶんに美しいと思った。
沼の湖面はきらきらと輝いている。
そしてその向こうに緑に広がる田んぼと野原があって、そのずっとずっと先に虹がかかっていた。
はるばる走ってきたかいがあった。
「きれい……」
私はうっとりとしてながめていた。
「そう、きれいね」
バスの停留所の中から声がした。
女の人の声だ。
停留所には屋根と壁があるので姿に気がつかなかったのだ。
「こんな虹はめずらしわね。あなたここは初めて?」
のぞき込むと、まだ若いおとなの女の人がベンチにちょこんと座っていた。
きれいな人だった。
真っ白なワンピース姿で頭には、つばの広い夏向きの白い帽子をかぶっていた。
「はい。私……、神林ほのかって言います。
夏のふるさと実習で来てるんです」
「そう。……いい名前ね。
私はさくらというの」
「さくら……さん?」
――それが私とさくらさんの出会いだった。
後から考えれば、さくら沼の桜並木で、さくらさんに出会うってのは偶然とは思えないんだけど、そのときの私はただ虹がきれいだったことですっかりうきうきしてたから、そのことにはまったく気がつかなかったのだ。
「……あなた。運がいいわ。
そう言えば毎年あなたくらいの子たちが来るけど、この虹を見られる子はそうそういないわ」
「へえ、じゃあ私ツイてるんですね?
ちょっとうれしいです」
さくらさんが手招きしたので私は隣に腰かけた。
さくらさんは咳払いのひとつもせずに風に流れる長い髪もそのままに、ただ座っていた。
背をきちんと伸ばして両膝の上に置いたバッグに両手をそろえてちょこんと座っているのだ。
やがて虹が消えた。
現れたのも突然だったが消えるのはもっといきなりだった。
「消えちゃいましたね」
「そうね……」
私はなんとなく気まずくなっていた。
なにか盛り上がる話題でも浮かべばいいのだけど、こんなときに限ってなにも浮かばない。
かと言ってこのまま去るのも気が引けたので私は彩音ちゃんを待つことにした。
軽いクラクションの音が鳴りバスが右の方から近づいて来た。
特急の停まる町からやって来たバスで、ここを経由して冬はスキーでにぎわう山間の町に向かうバスだ。
ぬかるんだ道で泥を跳ねながらスピードを落としたバスは、停車するときにキーッとブレーキを軋ませた。
そしてドアが開いた。
誰も降りなかった。
「バス来ましたね」
「そうね」
私はさくらさんを見た。
さくらさんは腰を上げる気配を見せない。
「乗らないんですか?」
「うん。私は待ち人だから」
空振りに終わった停車をうらむようにバスはもくもくと白煙を吹いて動き始めた。
遠くの空に水鳥の大群が見えた。
鳥たちは三角形に群れを作って空の端から端まで形を崩さずにきれいに飛び去った。
足下近くの茂みの中から一匹のカエルが姿を現した。
とても大きなカエルだった。たぶん図鑑で見たウシガエルだと思った。
カエルはとても歩みが遅いので、道路を渡りきるのにずいぶん時間がかかった。
やがてカエルはさくら沼の茂みの中へと姿を消した。
やがて、私たちに合図を送るかのように短いクラクションを鳴らして、バスが左の方から近づいて来た。
山間の町からここを経由して特急が停まる町へと向かうバスだ。
すでに乾き始めた路面に水たまりで濡れたタイヤの轍を作りながらスピードを落としたバスが、停留所に停車した。
誰も乗らず誰も降りなかった。
「あなたも待ち人なの?」
「はい。
友達を待っているんです」
バスはなに事もなかったかのようにドアを閉めて走り去った。
高い空に白くて細長い雲ができていた。
その先をなぞると銀色に輝く飛行機がちいさく見えた。
私たちにはあの飛行機が見えるけど、あの飛行機に乗っている人には私たちは見えないんだろうな、と思った。
このバス停とあの飛行機。距離は同じはずなのにどうしてなんだろうと考えたら不思議な気持ちになる。
目の前に咲いているヒマワリのそばに一匹のアゲハチョウが飛んでいた。
耳をすますとぶーんという眠そうな羽音が聞こえたので変だと思ったら、羽音の正体はチョウの向こうに飛んでいた大きなハチだった。
チョウとハチは空中で衝突とかしないのかな?
当たったらやっぱり痛いのかな? なんて考えていた。
眠気を覚ますように軽快なクラクションが鳴り右の方からバスが近づいて来た。
特急の停まる町からここを経由して山間の町へと向かうバスだった。
ドアが開いた。
降りてきたのはふたり。
マナツくんとカズキくんだった。
「あれ? 彩音の片割れじゃねえか?」
ずいぶんな言い方をする。
もちろんカズキくんの方だ。
「もしかして彩音ちゃんを待ってるの?」
マナツくんだ。
私はうなずいた。
「うん。
なんか用があるって言って、雨の中出かけて行ったの」
「ひとりでか?」
カズキくんも尋ねる。
「うん、そう」
「どこへ?」
「えっと。知らない……」
私は答えた。
「フン。ずいぶん彩音も冷てえな。
行き先も教えないで行っちまって、友人を待ちぼうけにさせるなんて」
カズキくんは鼻で笑った後、肩をすくませた。
「そんなんじゃないよ。
ここに迎えに来たのは私の勝手だし」
私は待ちぼうけになっているのが彩音ちゃんの責任じゃなくて、私の自己責任だということを強調した。
「そうじゃないだろう?
親友だったら行き先は教えるだろう?
いやそれ以前にいっしょに行こうってのがふつうじゃねえか?
お前付き合う友達ってのを選んだ方がいいぜ」
「……」
私は無言になる。
それは認めた訳じゃない。
さくらさんの目の前であけすけに話すカズキくんのデリカシーのなさに腹を立てたのだ。
「カズキ。言い過ぎだよ」
「なんだよ。お前、女の味方するのか?」
「いや……そんなんじゃなくてさ」
横を見るとさくらさんが口を押さえて笑っている。
その仕草はとても上品で、大人を感じさせる。
私は真っ赤になってしまった。
「じゃあ、お前朝からずっと待ってるのか?
バカだなあ」
カズキくんの無遠慮さに私はいい加減切れそうになる。
「……違うわよね?
ほのかちゃんは私と虹を見てたのよね?」
さくらさんが私にやさしく話しかけてくれた。
私は力強くうなずいた。
「そうなの。違うの。
虹がきれいだったからここまで来ちゃったの」
「虹、どこに?」
カズキくんとマナツくんは辺りの空をうかがった。
「もう消えちゃいました」
私はきっぱりと言う。
なあんだ、と男の子たちはつぶやく。
「虹なんか見てどうすんだ?」
カズキくんが不思議そうに私の顔を見る。
「どうするって?
だってきれいじゃない?」
「そうか? そんなもん見ても別に腹の足しにもならないし……、俺は暇なやつだとしか思わない」
「なによ。きれいなものを見て、きれいだと思わないの?」
「思わない」
「……つまんない人生」
私はため息をついた。
「ねえ? 虹を見るとどんな気分になるの?」
マナツくんが尋ねる。
「どんな……って。
なんか幸せな気分になるのよ。あー、きれいだなって」
「ふーん。お前って意外とロマンチストなんだな」
カズキくんが驚いたようにつぶやく。
「意外ってなによ!」
つい私はむきになる。完全にからかわれていると思ったからだ。
でも思った。
この態度じゃ、まるで彩音ちゃんだ。
すると。
……今まで私の顔を見ていたカズキくんが急に黙って二、三歩後ずさりした後につぶやいた。
「……神林。そこに……」
ゆっくりと指をさす。
「な、なによ?」
「……幽霊がいるぞ」
私はぞくりとした。
思わず辺りを見てしまう。
するとガハハと笑い声がした。
「嘘だ」
両手を腰に当ててカズキくんが馬鹿笑いしていた。
「な、なによ! 嘘つき!」
私は怒りでぶるぶる震えていた。
「カズキ、やり過ぎだよ。
ぼくまで驚いた」
マナツくんがフォローしてくれたので私の爆発は未遂ですんだ。
「そうか。悪かったな神林」
カズキくんは全然反省はしていないみたいだけど、とりあえず謝罪してくれたから許すことにした。
「まあいいや。マナツ行こう」
勝手に現れて、勝手に他人をからかって、勝手に男の子たちは去って行った。
もっとも勝手なのはカズキくんだけで、さっさと背を向けたカズキくんと違ってマナツくんは手を振ってくれたので私もバイバイをした。
「待ってたお友達じゃなかったのね?」
さくらさんがにっこりと笑って尋ねてきた。
「友達?
違います。男の子になんか友達いません」
「どうして?」
「だって男の子って嫌なんです。
きれいな花とか平気でむしったり、虫とかも平気で踏みつぶしたり……、乱暴なんです。
さっきみたいにすばらしい虹が出てたってまったく気がつかないし」
「男の子って、みんなそうじゃないの?」
「そうなんですか?
だったら私、男の子と仲良くなんかなれません」
「……ふふ。あなたまだ男の子を好きになったことないのね?」
いきなり私の頭にマナツくんの顔が浮かんだ。
私は首を振ってそれを追い出す。
「あ、ありません」
私は真っ赤になる。
「そう、……あのね、好きになるってことはね。
けっきょくは信じられるかどうかだと思うの」
「信じられる?」
「うん。好きになるって、相手のすべてが好きになる訳じゃないの。
今あなたが言ったように、どうしても嫌な部分だって好きな人にはあるのよ」
「……」
いつの間にかクラクションが鳴ってバスが左の方から近づいて来た。
山間の町からここを経由して特急が停まる町へと向かうバスだ。
誰も乗らず誰も降りなかった。
そして気がついたらバスは走り去った後だった。
「好きになる前の女の子って、かたくななのね」
「かたくな、なんですか?」
「うん。潔癖って言ってもいいかもね。
理想が高すぎるのよ。私が好きになる人は絶対にこういう人じゃないと嫌ってね」
「そんな。
別に相手がぜんぶ完璧じゃなくちゃ嫌ってなんか思っていません」
「そうかしら?
でもね、好きになる人っていきなり現れるのよ。
……ううん。違うわ。今までなんとも思っていなかった人を、ある日突然好きになっちゃうの。
それは嫌な部分よりも、信じられる部分の方がずっと多いと無意識に気がつくからなの」
「……信じられる部分ですか?」
「そうね。例えば好きな花が違ったり、読む物語が違ったり、好きな音楽が違っても、すてきなものに感動する気持ちが信じられるの。
そして嫌いな人のタイプとかどうしても嫌だと思う出来事がちょっとくらい違っても、相手にとっていったいなにが嫌なのかわかり合えるの。
そういう互いの気持ちが信じられるっていうのかな? ……だから安心して信じられるの」
遠くで里の人がイヌを散歩させているのが見えた。
イヌは二匹いて一匹はとても大きくて一匹はとてもちいさかった。
それでもイヌたちは仲良しみたいで、じゃれあって転び合って楽しそうに駆け回っている。
「好きになるってそんなものなんですか?」
「現実にはもうちょっと複雑なんだけどね。
でもきっと。あなたもそのうちわかるわよ」
「ふーん……」
さくらさんの話は、わかるようで実はあまりわからなかった。
ただ「気持ちが信じられる」ってのが、ちょっといいと思った。
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