第3話 「姿なき足音」 02 眼福だけど目に毒です。
「あらあら、にぎやかな声が聞こえると思ったら?」
突然の声に振り向くと農作業の格好をした女の人が立っていた。
その人はまるまる太っていて年齢はおばさんと言うよりも、おばあさんと言った方が早い。
手ぬぐいで汗を拭うと人なつっこそうな笑顔が現れた。
「あなたたちが今年の研修生ね?
男の子と女の子の組み合わせは初めてね」
そう言ったおばさんはずかずかとゴム長を脱いで屋敷に上がった。
「さあさあ、お上がんなさい」
そして手招きをする。
「あなた、この屋敷の使用人?」
靴を脱ぎながら彩音ちゃんが尋ねた。
「ま、そういうことね」
おばさんが長い廊下をずんずん進んだ。
ぼくたちはその後をついて行く。
「使用人なのに荷物を持ってくれないのね?」
彩音ちゃんが不満そうにつぶやく。
「仕方ねえだろ。ここはお前ん家じゃないんだから」
カズキが言う。
「それに私たちお客さんって訳でもないしね」
ほのかちゃんの言葉にぼくはうなずいた。
やがて屋敷のかなり奥まで進んだとき脇の戸を開けておばさんが手招きした。
「あ、こういう部屋もあるんだ?」
ほのかちゃんがつぶやくのも無理はない。
ここは他の古い和室と違ってスチール机が並べられたオフィスだったからだ。
しっかりとクーラーが効いていて生き返る心地がした。
「ここは事務室なのさ。
あなたたちに書いてもらわなきゃならない書類があるんだよ」
辺りを見回すと部屋の中央に鬼女の面が飾られていた。
真っ白な顔と金色に爛々と輝く目、するどく伸びた角、そしてむき出した牙が特徴だった。
「怖いお面ね。あれは鬼なの?」
ほのかちゃんがぼくに尋ねた。
「うん。たぶん般若だと思う」
おばさんはそんなぼくたちにお構いなくどんどん奥へと案内する。
そこには上等な執務机があった。
立てられた札には「研修所所長」と書かれていた。
おばさんはそこまで進むと引き出しを乱暴に開けて数枚の書類を机に並べた。
「所長さんはいるのかしら?」
彩音ちゃんが尋ねた。
その声は勝手振る舞うおばさんに対しての嫌みに思えた。
「あら、いるわよ」
ぼくたちは部屋を見回した。
事務室はがらんとしていて、ぼくたち以外の姿はなかった。
「どこかしら? ご挨拶したいと思ってるの。
呼んでくださる?」
おばさんはにっこり笑った。
そして野良着のままで革張り椅子にどっかと腰かけたのだ。
「え?」
ぼくたちから怪訝な声が漏れた。
「私の名前は上田政代。
私のことは好きに呼んでいいから」
ぼくたちは絶句した。
まさかこのおばさんがそんな人だとは思わなかったからだ。
「しかしおもしろい子たちね。
かんぬき抜いてひとりで門を開けちまう男の子もいれば、さくら沼の姫みたいにかわいい女の子もいるし。
今年はおばさんもちょっと楽しめそうね」
「さくら沼の姫……?」
ぼくは尋ねた。
「さくら沼という沼にまつわるきれいなお姫さまの話さ。
いつまでも恋人を待ち続けた話」
「あら……、そんなお褒めくださっても」
彩音ちゃんがとたんに上品ぶった。
「……お前のことじゃねえだろ?」
「ちょ、ちょっとどういう意味よ?」
彩音ちゃんは口をとがらせてカズキをにらんだ。
政代さんはそんなぼくたちをおもしろそうに見ていた。
「この施設の研修は他のとは違って大人に混じって働くことは基本ないから好きに過ごしていい。
こういう昔ながらの里や屋敷で過ごすってこと自体が研修なのさ。
ま、それでも食事を作ったり掃除したり、ときにはちょっとした農作業の手伝いとか雑用は頼むけどね」
「俺たち遊んでていいってことか?」
カズキがこわごわと訊く。
「ああ、そうさ。だがね、まだ『ようこそ』とは言わないよ」
ぼくたちは黙る。
「ここに来た生徒たちはみーんな次の日には怖くなって帰っちまうんだ。
もしあんたたちが明日の昼まで残れたらそのときに言わせてもらうよ」
おばさんはにやりと笑った。
「……そのことなんだけど。
おばさん、質問してもいいかな?」
カズキが訊く。
「ええ、どうぞ」
「ここにはなにがあるんだ?
駅員もバスの運転手もタクシーの運転手もみんなここ水神の里に行くと言ったら変な態度を取りやがるんだ?」
彩音ちゃんがうなずいた。
「それだけじゃないわ。
去年もその前の年もここに来た生徒たちはみんなリタイヤしている。
それにみんな口をつぐんでなにがあったかを語らない」
「……それに」
ほのかちゃんが玄関の方角を指さした。
「……それに姿が見えないのにちいさなこどもが走り回る足音が聞こえたの」
「足音?」
おばさんが聞き返す。
「ええ。空耳なんかじゃないと思うの。
私だけじゃなくみんな聞いてるの」
ぼくたちはうなずいた。
「……なるほどね。まあ無理もないわね。
ここは特別な里なのさ。口じゃ説明できないものが不思議と残されている土地なんだよ」
「口じゃ説明できないもの?」
ぼくは尋ねるとおばさんは胸を張る。
「そうさ。だからそんな体験も研修なのさ」
カズキ、彩音ちゃん、ほのかちゃん、そしてぼくは互いの顔を見た。
不安、疑問。……そして好奇心が入り交じった複雑な表情だ。
「ま、命まで奪われることはないと思うけど用心に越したことはないわね」
そういっておばさんは豪快に笑った。
これがぼくたちと政代さんの出会いだった。
やがてぼくたちは寝泊まりする部屋に行くことになった。
この屋敷には部屋の数は当然多いのだけれども、研修なので個室が与えられることはない。
案内されたのは、二十畳はある広い和室だった。
「ちょっと政代さん。これだけはやめてくださらない?」
彩音ちゃんが抗議した。
ほのかちゃんもうなずいている。
「俺は別にかまわないけどな」
カズキが言う。
「私たちはかまうのよ」
「寝相が悪いのか?
恥ずかしがるな、俺だって負けないぞ」
「違うわよ! そういう意味じゃなくって」
「着替えとかあるから?」
ぼくが訊く。
「そうなのよ。……だって困るでしょ?」
「そうか? 俺なら平気だぞ。
見られて減るもんじゃないしな」
「あなたのなんか見たくないわよ!」
彩音ちゃんは地団駄を踏んでいた。
にやにや成り行きを見ていた政代さんが言う。
「わかったわよ。別々がいいんでしょ?」
女の子たちの顔が笑顔になる。
おばさんの頃はそんなこと気にしなかったんだけどねえ、と言いながらつかつか歩いた政代さんはふすまをがらりと開けた。
「じゃあ、女の子たちはこっちにしなさい」
隣の部屋が現れた。
こちらと同じくらいの広さのまったく同じ作りの部屋だった。
「……鍵がかかる部屋とかないのかしら?」
荷物を持ちながら彩音ちゃんが言う。
「あなたたちは研修に来てるの。自宅じゃないんだから贅沢言わない。
それに和室ってのはこういうものなの。
思いやりと察しが信条なんだからね」
そう言い捨てて政代さんは去った。
ぶつぶつ言いながらも彩音ちゃんとほのかちゃんは移動する。
そしてふすまを閉めながら言う。
「開けたら……、わかるわね?」
ぼくは無言でうなずいた。
その目が怖かった。
そしてぴしゃりと閉じられた。
しばらく隣の部屋からごそごそとした音がしていた。
カズキがぼくを見てにやりと笑う。
「おい、ちょっとのぞいてみようか?」
小声でささやく。
「やめなよ」
「平気だよ。ばれないようにちょっとだけだから」
そう言ってカズキはそろそろとふすまを滑らした。
……そこで凝固した。
「……や、やあ」
カズキが愛想笑いを浮かべた。
隙間の向こうに見えたのは鬼のような彩音ちゃんの険しい目だった。
怖かった。
カズキがあわててふすまを閉じたがぼくにはその目が焼き付いていた。
ぼくたちは着替えを持って廊下を歩いていた。
政代さんから取りあえずお風呂にでも入りなさい、と言われていたからだ。
ここには大きな風呂があると説明された。
しかも温泉だ。
だけど政代さんいわく、湯量があり余るほどには多くなくて、いくつものホテルや旅館が並ぶ温泉街にはとてもなれなかったらしい。
だけどそのお陰で廃村になることもなく昔のままに里ごと保存されたのだから物事どっちに転ぶかわからないものだ。
そのときだった。
「――まったく油断も隙もないんだから」
そんなぶつぶつ言う声とともにぼくたちは鉢合わせした。
「また、のぞく気?
あなたたちは後に入りなさいよ」
「おいおい、俺たちの方が先だったんだぜ?」
浴衣を持ったままカズキと彩音ちゃんがにらみ合う。
「ジャンケンで決めたら?」
と、ぼくが言うと、
「その必要はないみたい。ちゃんと分かれてるみたいね?」
ほのかちゃんが答えた。
見ると廊下の先に青いのれんと赤いのれんが揺れているのが見えた。
「彩音ちゃん、ここちゃんと鍵がかかるよ」
ほのかちゃんが板戸を開いたり閉じたりしながらうれしそうに言う。
「とーっても残念だったわね? 同情を禁じ得ないわ。
……これなら隙間からのぞくこともできないしね。
せいぜい欲望に身を焦がして苦行のように湯につかるのね」
そう言って彩音ちゃんはぴしゃりと戸を閉じた。
そしてこれ見よがしに鍵をがちゃがちゃさせる音がした。
「ほんの出来心だろ?
……ったく、ひとこと多いんだよ」
ぶつぶつ言うカズキとぼくは「男」と書かれた青いのれんをくぐった。
「まったく高慢ちきな女だよな。
あー、頭に来る。マナツもそう思うだろ?」
ここは脱衣場。ぼくたちはすでに裸だ。
「でもさ……」
がらりと風呂へと戸を開けながらカズキが言う。
「でもさ……彩音って性悪だけどスタイルはめちゃくちゃいいよな?
出るとこは出て、引っ込むとこは引っ込んでる。
正直見てみたいよ?」
「……殺されるよ」
「そんなことないって。
女なんてホントは男に裸を見てもらいたいんだぜ?
『ねえ、私の身体どう?』って訊いてみたいのさ。『いやん、そんなに見つめないで……恥ずかしいから』って言いながら身をよじらせてさ。くー、たまんないぜ」
カズキが全裸でそれを熱演してくれた。
……見るんじゃなかった。目をつぶれば良かったとぼくはそのとき激しく後悔した。
「……見せたい人って誰でもいい訳じゃないと思うよ?」
「あ、でも……、おっぱいだったら神林の方が断然大きいよな?」
言われてぼくは思わずほのかちゃんのその姿を思い浮かべてしまった。
「し、知らないよ!」
真っ赤になってしまった。
だがぼくのそんな態度にはカズキはまったく気にかけず、ひとりで絶叫していた。
「おお、すげー! 見ろよ露天風呂だよ!」
そこには岩で囲まれた大きな露天風呂があった。
その作りはかなり大きくてもうもうとわき上がる湯気に煙った向こうは見えない。
「すげー! まるでプールじゃん!」
カズキはそう言って泳ぎ始めた。
確かに広かった。と、言うか広すぎた。
だからぼくはふと疑問を感じた。
「塀はどこにあるのかな?」
「塀?」
「うん。男湯と女湯を仕切る塀のこと」
カズキはにやりと笑う。
「わかってんじゃねーか。マナツ」
ぼくの肩をぽんと叩く。
「塀越しにのぞいてみようって言うんだろう?」
「ち、違うって! そういう意味じゃないって」
「いいって、いいって、俺とお前の仲だろう?」
完全に勘違いしたカズキはどんどん奥へと進んで行く。
湯気に煙る向こうにぼんやりと黒い固まりが見えていた。
「おい、あっちに岩山があるぜ。行ってみよう」
カズキがぐんぐん泳ぐので、ぼくも仕方なくついて行く。
見えたの丸い岩だった。
それはまるで風呂の中に浮かぶ島のように見えた。
泳ぎ着いたぼくたちは岩に手をかけた。
そのときだった。
上から、キャー! という悲鳴が落ちてきた。
「もーイヤッ!」
「きゃー、見ないで!」
見上げると……一糸まとわぬ姿の彩音ちゃんとほのかちゃんが岩の上に座っていた。
その姿は船乗りたちを惑わす伝説の人魚さながらだ。
ぼくたちは惚けたように真っ白な肌をあらわにしたふたりをただただ見つめてしまった。
その時間はわずか数秒。
だがぼくとカズキの目にはしっかり焼き付いてしまった。
ぼくの疑問は間違いなかった。
塀がないからこれだけ広いのだ。
「むふーっ!」
カズキの荒い鼻息が聞こえた。
……たぶんぼくのも重なったはずだ。
「カズキくん。あなたってホントに恥知らずなのねっ!?」
怒りで彩音ちゃんがぶるぶる震えている。
「……マナツくん。最低」
ほのかちゃんは見開いた目で固まっている。
やがてふたりは身をよじってお湯に飛び込んだ。
そしてぼくたちに壮絶なお湯飛沫とありったけの悪口が飛んできた。
「わ、わざとじゃねえんだっ!!」
「ご、誤解だよっ!!」
ぼくたちはあわてふためいて逃げた。
お湯から上がって湯気が消えてもぼくたちの心臓はまだどきどきしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます