第113話 恐怖を超越せし者

――恐怖には抗えない。


恐怖とは生物に刻まれた防衛本能だ。

危ない事、未知なる物事、わかり切った良くない結果、自らよりも強大な敵。


それらに対し恐怖を感じることで危機から身を守る…恐怖を感じることができるからこそ生物は種族を発展させ、そして生き残ることができるのだ。


理性のある人間は元より、本能で生きる動物ですら恐怖という感情を持っている。

むしろ人より感覚を頼りに生きている野生の獣たちのほうがよっぽど恐怖には敏感だろう。

恐怖こそが命を守る最も強い本能なのだ。


故に生物は恐怖に抗えるようには作られていない。

いや、抗ってはならないのだ。


しかしそんな恐怖を克服することを美学とする生物が存在する。


人間だ。

この場合は知性を持つ生き物と言い換えてもいいかもしれない。

知性、理性、感情…それらを併せ持つ人間は生物に刻み込まれた本能に抗う事が出来た。

そうすることで人は地上を支配し、繁栄をしてきたのだから。


だからこそ本能を抑え込み、理性で動くことこそが人であると考え物語においても恐怖に立ち向かう人間は素晴らしいと語られる。


しかし実際はどうだろうか。

本能が告げる恐怖に抗い、逆らって…それが素晴らしいことだと危険に飛び込む。

その結果はほとんどの場合で悲惨な結果に終わるだろう。


当然だ。

そうならないために恐怖と言う感情があるのだから。


そして人は根本的に恐怖を乗り越えることなどできない。

いくら振り払っても、いくら乗り越えても、いくら逆らっても…同じ場面に遭遇すればまた同じ恐怖を覚える。

なんど勇気を振り絞ったとしても次に襲い掛かるのは別の恐怖。

それが抗い続ける限り一生続く。

それこそ死ぬまで…。


ならば恐怖に抗うという事は正しい事なのだろうか?

もし人間と言う存在を作った創造主とでも呼べる存在がいたのなら、その存在は首を横に振るだろう。

身を守るための機能なのになぜ…と疑問に思うだろう。


だがそれでも人は度々恐怖に抗おうとする。

なぜなら理性を持つが故だ。

人は人であるがゆえに恐怖と対峙しなければならない時が必ず来る。


そうしなければ掴み取れないものがあるから。

そうしなければ得ることのできないものがあるから。

そうすることにどうしようもなく価値を感じてしまうから。


それが人なのだ。


そしてここにも一人…恐怖に抗い大切なものを取り戻さんと戦いを挑む人間がいた。

その者の名は――


「アザレア・エナノワール…ついに魔道、に…落ちました…か、…」

「ブワッジャァアアアアアアアアア!!!メアだん”ん”ん”ん”ん”ん”!!!!!がえぜぇえええええええ!がぁぇぇぇえええぜぇええええええええわ”だじのぷにぷにメアたんヲォォォオオオオオオオ!!」


灰色の髪を振り乱し、節足動物かのように両の手足でしゃかしゃかと地面を這いずり回りながらアザレアは自らの屋敷で人間のそれとは思えない叫び声をあげていた。


その視線の先にいるのはメア…を抱えて逃げているノロの姿。


なぜそんなことになったのか。

それはここ最近のノロの変化にあった。


メアの奮闘により手足を取り戻したノロは、その日を境に首を吊ることをやめて自分の脚で地面を踏みしめるようになった。

それだけならばいい変化だね、で終わったのかもしれない。


しかしもう一つ変化は起こっていた。

それは何故かノロは常にメアを抱きかかえて行動するようになったことだ。


ノロは隙あらばメアを抱きかかえ、それどころか眠るときも食事をしているときも片時もメアを離そうとはしなかった。

常にメアと共にあり、メアにくっついているようになったのだ。


メアは自分で歩けなくなっていることに多少の違和感は感じつつも、「ノロちゃんがそうしたいのなら好きにやらせてあげよー」と考え、放っておいた。


ここで問題になってくるのはノロの性質だ。

ノロはただそこにいるだけで周囲にいる人間に底知れないほどの恐怖を覚えさせる。


つまりは誰もメアに近づくことができなくなったのだ。

メアへの信仰心が高いメア様教の信者たちでも遠巻きにするのが精いっぱいな有様であり、だがなにか不都合が起こっているかと言えば否だった。

なので誰も表立って行動を起こしたり、何かを言ったりすることはなかった。


――ただ一人を除いて。


そう、黒神領にはいたのだ。

メアに近づけないことそのものが生命活動停止の危機に繋がりかねない人物が。


その名はアザレア・エナノワール。

おそらくこの国において最も愛と言う名の欲望に殉じ、欲望という名の愛に生きる女だ。


そんなアザレアとてノロに近づくことはできなかった。

一定以上に近づこうとすると恐怖に足がすくみ、動けなくなるのだ。


あと数メートル進めばそこにメアがいるのに…触れることができない。


ノロがいない隙を狙おうにもそんな隙は一切ない。


日に日にアザレアの中で何かが壊れていった。

セラフィムとのやり取りや、情報交換代わりに行っている手紙の交換には数行ごとに「メアたん」という文字が紛れ込むようになり、末期を越えて最終的に文字はすべて「メアたん」で埋め尽くされ、最後の方には文字を書くことさえ忘れてしまったのか「メアたん」の文字すら読めない字で書かれていた。


後にも先にも恐怖から悲鳴を上げてしまったのはその時だけだったとセラフィムは語ったそうな。


ついに仕事が手につかなくなり、日常生活すら侵食されていった。

やがてメアを渇望する心は限界を迎え、アザレアを人ではない何かに変えてしまったのだ。


「ギシャァァアアアアアアアアアアアメアぁぁああああああたぁあぁああああああんんんんー!!!!!!かえぜぇぇええええええええええ!!!」

「っ」


アザレアの鋭く放たれた腕がノロの頬を掠める。

そう…すでにアザレアはノロに触れることが出来るようになっていたのだ。


――愛と執念により恐怖を超越した彼女こそ、まさに人というものを体現した存在なのではないだろうか――」


「いやその理論はおかしいだろうセンドウ…あれはどう考えても近づいてはいけない類の化け物だ」

「おやウツギさんいつの間に」


ノロとかつてアザレアと呼ばれていた怪物の攻防を観察しながら恐怖についての論文をしたためていたセンドウにウツギがツッコミを入れた。


他の者たちはアザレアと言う名の怪物に恐れをなし、近づかなかったがセンドウだけは興味深いと研究の対象にしていたのだ。

よく見るとセンドウの白衣は所々に爪で引掻かれたような跡があり、観察している道中で戦いに巻き込まれていたようだ。


どんな時でも自分の欲望を最優先…彼もまた人間らしい人間と言えるのかもしれない。


「あのバカを追っかけてきたんだが…どうしたものか」

「ふむ?アザレアさんにご用事でしたかぁ…またお金の無心でもぉ?私で良ければ少し融通しますがぁ~」


「いやそーいうんじゃねぇってか…やっぱ俺ってそんなイメージだよな。改めて突きつけられたよ。ありがとな」

「はて…?どういたしましてぇ?…そう言えばなんだか雰囲気が変わりましたねぇ~。ちょっと好青年ぽくなりましたかぁ?体形も変わっているようだぁ…ひっひ!これは興味深いですねぇ~」


「…なんも変わってねぇよ。これから変わろうとしてんのに目当ての女が化け物になってんだよ。なんだよあれ」

「ひっひ!なんでしょうねぇ~」

「ウブゥァッジャアァアアアアアアアアアア!!!!!!」

「っ!、っ!」


正直な話、ウツギには今の上程で言うのならばノロよりもアザレアの方に強く恐怖を感じた。

まるで化け物を題材とした舞台演技を見ているような気分になり、ノロの事がかわいそうな犠牲者に思えてくる始末だ。


「なぁあれ何とかできんか?」

「ふむぅ…まぁあの怪物をアザレアさんに戻すことは簡単ですけどねぇ…」


「お、じゃあ早く頼むわ」

「いえしかし私としてはぁ~もう少し観察をですねぇ…えぇ…」


「うるせぇ今すぐやってくれ。さもないと…アザレアにアンタが裏でこそこそやってる「アレ」をチクるぞ?」

「お、おやおや…それは…困りましたねぇ…ひっひ…」


こいつマジかよ…とウツギは心の内で思った。

完全にでまかせで鎌をかけてみたのだが、どうやら本当にアザレアに内緒で裏でこそこそしていることがあるらしい。


今日一日で何度目になるのかわからない「この国はどうなってんだよ!」であった。


「困るなら…な?ほら、この場で暴露されたくはないだろ?叫ぶぜ俺は」

「うぅ…仕方がありませんか…」


そう言うとセンドウはどこからともなく四角い何らかの装置と、風車のようなものが上面についた円柱状のものを取り出した。


「なんだ?これ」

「これはですねぇ…最近の研究の過程と言いますか、試作でできた発明品でしてねぇ…まずこちらの筒状の装置のスイッチを押します…すると…」


「おおなんか明かりがついたぞ。魔力もないのにどうなってんだこれ」

「中に魔力を内蔵した装置が組み込まれてましてねぇ…それで稼働するのですよぉ~。はい、そして軌道を確認いたしましたらこちらの装置で操作ができるということでしてぇはいぃ」


センドウが四角い装置に備え付けられているボタンを押し、レバーを動かした。

すると円柱状の装置の風車…いやプロペラが回転をはじめ、ふわりと空中に浮かび上がったのだ。


「うお!?なんだこれ!すげー!どうなってんだ!?」

「おやおや、気になりますぅ?」


「馬鹿お前!あったりめぇだろ!こんなのが空を飛ぶなんて…すげぇぞ!おい!」

「ひっひ!喜んでくれる方がいたのなら実験機とはいえ作ってよかったと思いますねぇ…ですがいまは先に問題の方を片付けてしましょぉう。この装置の先端部分にロープとお肉の破片を取り付けましてぇ…あとはこれをうまく誘導してぇ」


「なあなあ俺にやらせてくれよセンドウ!」

「むむ?そんなに興味がおありでぇ?」


「あぁ!なあ頼むよちょっとだけ!」

「ひっひ!どうぞどうぞ。操作はですねぇここをこう…」


思いのほか目を輝かせているウツギにセンドウは装置の操作を教え、そしてついにウツギが筒を発進させる。


肉が取り付けられた紐をゆらゆらと揺らしながら、装置はプロペラを回転させノロと怪物の戦いの場に飛んでいく。

二人は上空のそれに全く気が付いていないようだが、ノロの腕の中で寝息を立てていたメアは微かな肉の香りを嗅ぎつけて覚醒した。


「ひっひ!いいかんじですよぉウツギさぁん…そのままうまくアザレアさんの上に来るように操作して…」

「い、意外と難しいが…なれると余裕だぜ。よしよし…くいつけーくいつけよー…」


装置はメアに肉を認識させた後、アザレアの上空までたどり着くとその場に制止した。

あとは獲物がかかるのを待つのみ…そしてその時はすぐに訪れた。


「がうっ!」

「あっ!」

「よっしゃ釣れたー!」

「ひっひ!」


撃ち出された砲弾のようにメアがノロの腕の中から飛び出し、装置に繋がれた肉に食らいついた。

さすがに小さな機体では軽いとはいえメアの身体を支えることはできず…紐をパージすることになった。

しかしそれはウツギとセンドウの狙い通りで…空に投げ出されたメアの身体は怪物の上にぽんっと落ちることになった。


「め、メメメメメメメ…めーめーめー!…メアたん…!!!?」

「モグモグ…う?アザレアだ。なにしてるのん?」

「は、伴侶、さ…ま…」


怪物はわなわなと震える手でメアをひしっ…と抱きしめた。

そして――


「んあぁああああああああああ!メアたん!!!1!メアたんがようやくこの腕の中に!!1はぁああああああああああああ!!ぷにぷにであたたかーい!すーはー!すーは!甘い!匂いが!空気が!何もかもが!ミルクみたいに甘くておいしいーーー!!!ほっぺもモチモチすべすべでぷっくらしてて可愛いが過ぎりゅう!ちゅっちゅしていい?していい?あーぁあああああでもこの素敵なほっぺを私なんかが汚したら罰が当たっちゃうぅぅううう!でもスリスリだけはさせてぇええええ!スリスリー!あぁもうメアたんメアたんメアたん!こんなにちっちゃくて程いのに、どこを触ってもぷにぷにしてるのなんなのー!?まさに神が作りたもうた至高の存在、三千世界を飲み込んでなお輝くぷにぷにさ!ぽんぽんもポッコリしててかわちぃねー!指で触れるとどこまでも沈み込んでいくぅぅぅぅううう!骨がないの…?骨がないんでしゅかメアたん…?いいやある!この奇跡のバランスで作られた骨格がそれを証明している!!はい!完全証明!ハイ論破!!異議なしぃいいいいいい!でもその骨格をぷにぷになお肉が包んでわからなくなってるの尊い…もにもにあんよも最高よー!メアたんはいっぱい歩くから太ももから太くてかわちぃいね…かわちぃね…太いから太ももなの…?こんなに小さくても太くて太ももなの…?いいえ違う!これは神ももよ!ありとあらゆる物質の中で最も柔らかくてぽかぽかする奇跡の配合によって作られた究極のもも…神もも!いいえ、神ごときがメアたんの部位の名に食い込もうなんておこがましいわ。だから神をも超えた存在の名を付けるべきよ!そうなのよ!…つまりそれは…メアたん!今日からからこの太ももはメアももよー!もんくなぁし!文句付けるやつみんな死刑―!ああもう…もう!なんでこんなに尊いの…何でこんなにかわいいの…あぁもう!!!!!メアたんメアたんメアたんメアたんメアたんメアたんメアたんメアたんメアたん…メアたぁあああああああああああん!!!んはぁああああああああああああ!!!!」


ドン引きだった。

先ほどまで装置に熱中していたウツギもセンドウも…空気すらもドン引きしていた。

もはや何もいう事が出来ない。

怪物からアザレアには戻ったが、果たしてあれは現世に存在していていい生き物なのだろうかと真剣にウツギは悩み始めた。


「アザレアは今日も元気だねぇ」


明らかな異常をその小さな身体に叩きつけられているのにもかかわらず、のほほんとしているメアにもドン引きした。

もうこの国にはまともな奴はいないのかとウツギは絶望の中に沈み込む。


「む…ウツギさんウツギさん。起きてくださいウツギさん。面白いものが見れそうですよぅ」

「あ…?」


ウツギが顔をあげるとノロが狂気を発散しているアザレアの腕の中にいるメアに腕を伸ばしていた。


「か…かえし、て…ください…その方は…わ、たしの…伴侶…さま…で…」

「はぁー?今の今まで我が国の超究極最高保護対象に指定されてるメアたんを独占してたくせに何を言ってるの?今日はメアたんは私と一緒に寝るのよ!ねーそうでちゅよねーメアたんー?」

「う?」


伸びてくるノロの腕をバシバシと弾きながらアザレアは吠えた。

当人は気が付いていないが、もはや平然とノロに触れることができている。


「う…わ、た、しの…伴侶様…で…かえ…して…くだ、さい…うっ…」


ぽろりとノロの瞳から涙が一粒、零れ落ちた。


「え…!?な、泣いてるの…?」

「あーアザレアがノロちゃん泣かせた―。よちよち大丈夫だよノロちゃん。私はどこにもいかないよー」


よしよしとメアが手を伸ばしてノロの頭をなでると、そのままノロは呆然としているアザレアの腕の中からメアを奪い取り、ぎゅっと抱きしめた。


「もーみんな甘えんぼさんだにゃぁ」

「…」

「えー…これはちょっと…泣くのは…ずるじゃない…?わ、わかった…わかったよ。でもノロ…?ちょっと一回話をしない?メアたんの独占は行けないと思うの。ね?話し合いましょ?ね?」


「伴侶様は…わたし、の…伴侶…さ、ま…です…」

「でもメアたんは私のメアたんでもあるんですぅー!ママなんですぅー!私にも権利がありますぅー!」

「ねーねー二人ともーお腹空かない?おやつにしようよー」


ウツギは「ふぅ~~~~~~~…」と長く息を吐くと一言。


「何も面白くねぇよカオスじゃねぇか」

「ひっひ!」

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