第96話 銀色の神
スレンは自らの身体が底の底…人として一番大切な何かが押し込まれている芯の部分から震えているのがわかった。
吹雪からくる寒さではない。
そんなものを気にしている余裕などなく、下手をしなくても死につながるような冷気の中でさえ寒さというものを感じない。
ならばなぜ…こんなにもこの身体は震えているのか。
それは恐怖。
理解できないものを、隔絶した何かを前にしたときに覚えるものだ。
身一つで大海原の中心に投げ出されたかのように。
蟻となって迫りくる象の足を見つめているかのように。
視線の先にいる人の形をした何かが理解できないほどに大きくて恐ろしいのだ。
「す…ストガラグさん…あ、あれはいったい…」
痛む腹すら意識の外にし、微動だにしない上司に縋るように声をかける。
「…そうだな。俺にとっては最悪に近い状況だがキミにとってはむしろ運が良いのかもしれないな」
「は…?」
こんなに恐ろしいのに、運がいいとはどういうことなのか。
スレンは信じられないという感情をさらに視線に込めるもストガラグはスレンの方を見ようともしない。
…いや、見ることができないのだ。
一瞬たりとも彼の眼前に吹雪を纏いながら佇んでいる存在から目を離せば…その瞬間に全てが終わってしまいそうな気がするから。
そんな精神状態であるにもかかわらず、それでもストガラグは職務遂行中の社会人として口を開く。
「よく見ておきたまえ新人…スレン特務執行官。あれこそが我々教会に属する者の敵――龍だ」
「龍…」
「やがてはキミもあれを相手取って戦うことになる。しかし今は大人しく見学しているといい。キミは上からの預かりもの…いわゆる期待の新人と言うやつだ。そんなキミに経験を積ませ、俺が学んだものを学ばせ、そして守り抜く。それが上司たる俺の仕事だからな。ふぅ…しかし龍との直接対峙となると…あとで職務外手当を申請せねばな」
寒さの中でもとめどなく噴き出してくる汗を拭い、ストガラグは銀の龍と向かい合う。
人の形こそしているが、それは生物と言うよりは「現象」だ。
災害に天変地異。
矮小な人間では太刀打ちできないそんなものを人の形に無理やり押しとどめた…そんな存在。
「…初めまして銀の国を統べる龍よ。意思を持ち、言葉を操る社会人としてまずは話をさせてほしいのだが構わないかね?」
「…」
銀龍は何も喋らない。
ただただ鋭い無数の牙のような冷気が流れるのみだ。
「まま!あんな奴の話聞いたらダメだぞー!あの人間はユキをいじめたんだ!悪い奴だっ!」
「そ、それにあの人…私と…おねえちゃんも攫おうとしてた…ふぇ…」
「…」
銀龍は服の裾を引っ張りながら何があったのかを説明する子供たちを一瞥だけし、すぐに視線を外す。
撫でてやるでもなく、声をかけるでもない…冷たい対応のようにも見えたが変化は劇的に訪れた。
吹雪の中からまるで意志を持っているかのように氷の枝がストガラグに襲い掛かってきたのだ。
「ぐっ…!」
ギリギリで身をかわすことができたストガラグだったが、すぐさま氷は進路を変えて追いかけてくる。
その先端は鋭利に尖っており、勢いを付けられて刺されれば人体など簡単に穴が空いてしまうだろう。
「いや…相手は龍…それで済むと考えるのは希望に縋りすぎというものか!」
おそらく一撃でも貰えばそこで終了。
実際にその攻撃の真価を見たわけではないが相手は龍…ならばただ尖った氷の枝が襲い掛かってきているだけのはずがないと確信できた。
そう言う理不尽を相手にしているのだと。
だがストガラグにも人智を越えた力がその手の中にあった。
黒々とした靄を吐き出し続けるそれを握りこみ、銀龍に向かって指を突きつける。
「死よ!銀の龍を飲み込め!」
放たれた【窒息】が銀龍に向かっていく。
先ほどまでの殺しきらないように手加減されていた力ではない。
正真正銘の全力で放たれた「死」。
ストガラグの持つ呪骸に込められた【窒息】はすべての生命に作用する。
健康でも、外部的手段で呼吸を補っていても…呼吸自体を必要とせず、窒息と言う概念がない存在でも等しく窒息させる。
これこそが理不尽、その権化。
そのはずだった。
「…」
「くっ…やはりか。そんな気はしていたさ」
呪骸の力は銀龍に一切作用していなかった。
「教皇様から聞いていた情報によると…銀の龍の概念としての「名」はシルバーオブリフレクト…反射を司る龍だったか…なるほど呪骸の力さえも跳ね返すか…どうりであの方が警戒なされるわけだ」
そもそもストガラグは呪骸の力が通用するとは考えていなかった。
出力を下げていたとはいえ、カナレアに通じなかった時点でだ。
カナレアはおそらく銀龍の加護を受けている。
ユキも同様だろうがその身に秘めた魔力の総数が膨大な分カナレアのほうが力をわかりやすく発現しているのだろう。
だから一部銀龍の力をカナレアは使うことができた。
それをもって【窒息】を防いだのだろうと予想ができていた。
ならばその力の大本である銀龍にはなおさら通用するはずがない…そう分かっていながら、それでも呪骸を使ったのは最大出力でも銀龍の力を突破できないのかどうかを確かめるため。
つまるところデータが欲しかったのだ。
そして結果はどうであれストガラグはこの時点でほとんど仕事を終えた。
「スレン特務執行官!」
「は、はい!?」
「俺の手を掴みたまえ!早く!」
言葉に突き動かされるままに、意味も分からずスレンはストガラグの手を取り…次の瞬間に氷の枝がストガラグの身体を貫いた。
そして次の起こったのは目を覆いたくなるほどの歪な現象だった。
ストガラグの全身から枝が刺さった場所を中心に氷の花が咲いたのだ。
皮膚を内側から氷の枝が貫き、血が凍った真っ赤な花が咲いていく。
何本も何本も…枝が現れて花が咲く。
やがてそれが人の形をしていたのかすらわからなくなるほど白と赤に覆い尽くされた彫像が出来上がり…黒い帽子が雪にまみれながらゆっくりと地に落ちた。
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