第93話 不幸
「呪骸…」
小さくその言葉を口の中で転がし、ソードは拳を握りしめる。
枢機卿…そして呪骸。
話にだけ聞いていた龍の敵…その手先が今目の前にいる。
体が震えているのは…寒さによるものではない。
緊張感と高揚感からだ。
「どうした?かかってこないのかね?」
男が帽子に隠された顔でにやにやと笑い、挑発するように何度も何度もパチンと指を鳴らす。
それを受けて深呼吸を一つ…そして構えを取りながら口を開く。
「ソード」
「む?」
「僕の名前だ。白神領、聖白教会所属執行官にして聖女様を守護する剣。覚えておくといい…これからキミの顔に土を付ける男の名前だ」
「男…?まぁいい。せっかく名乗ってもらったところ恐縮なのだがね…俺は仕事で殺す相手の名は覚えないようにしているんだ。キリがないだろう?それに何人も殺すのにいちいち受け止めていたら身も心ももたないからね」
「そう…なら僕も今回限りでキミの名は忘れよう。名無しの誰かとしてここで倒す!」
ソードが地面を蹴って走り出した…かと思えば次の瞬間にストガラグの視界いっぱいに巨大な二つの肉の塊が広がった。
その速さはストガラグをして異常なものだと言わざるを得なかった。
一歩、地面を蹴るだけで距離を詰めたかのようにすら感じる一瞬…そしてさらに次の一瞬には太く肉付きのいい右足が顔面に向かって迫ってくる。
「っ!」
間一髪、ストガラグは身体ごと首を後ろに引くことで何とか蹴りを躱したが、なんとそのまま…鼻を掠めていったはずの右足が逆再生をするかの如く戻ってきた。
ブーツに覆われた硬い踵がストガラグの頬を捉えようとするその瞬間になんとか腕でのガードが間に合う。
「甘い、よ!」
「うぐっ!?」
構わずソードは踵で蹴りつけ、ストガラグの腕からの何かが折れるような音がはっきりと周囲に聞こえた。
だが痛みに悶える暇もなく今度は左足での前蹴りが無造作に放たれ、それを防ぐ間もなく腹に叩きこまれたストガラグは悶えるような声と共に胃液を吐き出しながら数メートルほど後方に蹴り飛ばされた。
そのままソードは先ほどまでストガラグがいた位置に倒れているエクリプスに近づき、その身を抱え起こす。
「大丈夫かいエクリプス」
「ソー…ド…」
エクリプスはよっぽど疲弊しているのか空気を求めて浅い呼吸を繰り返しており、風のなるような異音を喉元からさせていた。
しかしソードはそこでおかしなことに気が付いた。
それはエクリプスにほとんど外傷がないことだ。
全身が汚れているし、雪が溶けたのか濡れてはいるがどこにも大きな傷は見つけることができない。
「…おかしい…エクリプス…キミは何をされたんだ…?」
「に、げ…て…あいつは…いきを…」
「いき?」
聞き返そうとしたが、その前に積もった雪の中から、ストガラグが立ち上がる音がしてソードはエクリプスを再び寝かせ…再び向かい合う。
ストガラグは無事な右腕で全身の雪を払い落とし、少しズレた帽子をかぶり直す。
「あぁ~痛ぇなぁ…白神領にその執行官ありと言われるだけの実力はあるわけだ。油断させられたよ…ただの破廉恥な女ではないようだ。簡単な仕事だと舐めてかかった職務怠慢の罰には些か重すぎる気もするが…この左腕はそれと受け入れよう」
「…意外と冷静だね。腕、痛いだろう?それにお腹も。内臓に損傷がでる程度には力を込めたはずだよ」
「くっくっく…先ほどのキミの言を真似するわけではないが俺もこれでそこそこ鍛えているのでね。この程度では涙は流さんよ」
「なるほど見た目に似合わず根性があるんだね」
「根性?そんな汗くさいものではないよ。俺のこれは…職務意識と言うのだ。キミのような若い子には理解できないかもしれないが…いいや、若い者にこそ知っておいてもらいたい大切なことなのだがね」
「…案外僕の方が年上かもしれないよ?」
ストガラグはソードの言葉を鼻で笑い、ゆっくりとソードの顔を指さす。
「職場を選べないというのは不幸なことだとは思わんかね?理念に合わない職場、やりがいを搾取されるだけの職場、自分の希望が通らない職場…そのような場所に当たった者は等しく不幸だ。人生などその大半を働いて過ごすことになるのだから納得できる場所で働けるという事は人生の豊かさにつながる。そうだろう?」
「…突然何の話かな」
「白神領で執行官などをやっているお前は不幸だという話さ」
「呼び方が「お前」になったね。してやられて怒っているのかい?」
「いや?むしろ同情と親しみを持ったからこそと思ってくれたまえ…とにかくお前は今不幸なのだ。今一度自分を、そして職場を見つめ直してみろ。本当にやりがいを感じているか?働きのそれにふさわしい報酬を得ているか?その職に殉ずることに納得をしているか?」
「僕は何も不幸ではないよ。やりがいも報酬も納得もすべて得ているからね」
「やれやれブラックな職場の家畜はこれだから困る。いいか?白神領は我らが教皇様から何らかの理由で見逃されているだけの粗悪会社だ。その理由は内部にいるお前が一番よくわかっているだろう?」
「…」
白神領は国と認められているすべての領の中で唯一赤神領の統治を受けていない地だ。
厳密には赤神領からの要求をセラフィムを筆頭とする聖白教会が跳ねのけ、疑似的な独立国となっている。
おそらくストガラグはそのことを言いたいのだろうとソードは予想した。
「我らが偉大なる上司…教皇様の紡ぐ世界の経営をお前たちは踏みにじり、この世界に無用な混乱を招く一助となっている。社会人に大切なのは協調性…国と言う巨大な企業に対して安定と安寧をもたらすことこそがそこに生きる我々の義務であり職務だ。そうだというのにお前たちは…なんとまぁ嘆かわしい…」
「…言っている意味はよく分からないけど、いいのかい?教皇様だなんて都市伝説のような者の存在を肯定しちゃって」
「構わんよ?というか知っているのだろうお前たちは。教皇様の存在を…そしてそれを踏まえて俺は一度だけお前にチャンスを与えようじゃないか。赤神領(うち)に転職しろ。攻撃を受けてみてわかった…お前はこちら側に来るべき人間だ。ある意味で身分もはっきりとしている。表に出ているものだけで実績も申し分ない…有能な人材は最高の職場を与えられるべきなのだ。わかるだろう?」
「僕に白神領を裏切ってそちらにつけと?」
ストガラグはそうだと頷く。
ソードは身を屈めると積もっていた雪を両手で掬い取り、こねるようにして固めて雪玉を作った。
そしてそれをストガラグの顔に目掛けて投擲し、一切の身じろぎもせずにそれを受けた。
「…一応言葉でも返答を聞こうか?俺とお前では生活文化が違う。ならばこそそこに行き違いや誤解があるかもしれないからね」
「職場見学をするまでもなく辞退させてもらうよ。僕は僕の意思で白神領にいる。僕の意思で聖女様に付き従っているんだ。僕からすればそちらの方が十二分にブラックな職場だよ」
「くっくっく…残念だ。しかしチャンスの流れを読めない者に我が領の土を踏む資格もないのもまた事実…やはり当初の予定通りお前を殺すとしよう。後悔するな悪くも思うな。これは仕事で、お前の選んだ選択なのだから。さぁ呪骸よ…そこに込められし「死」を具現せよ」
ストガラグを覆っていた黒い靄が空を舞う雪に交じるようにして拡散し、そしてソードの身に明確な変化が起こった。
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