第63話 その名はうさタンク

「あ~…死ぬかと思った…」


赤く腫れた頬をさすりながらアザレアは執務室への道を引き返していた。

しばらくメアがいない日々が始まることを考えると気が落ち込みそうになったが、ふと肩のあたりになにか風に煽られている長いものが引っかかっていることに気が付いた。


「これって…まさかメアたんの…!?」


指でつまんでみるとそれは長くて細い黒髪だった。

黒神領と言えどここまで純粋な黒を長く伸ばしているものなど一人しかいない。


なのでそれがメアのものだと確信したアザレアはその髪を口に近づけていき…。


「黒キ…英雄…その片割れ…たる…慈愛の…蛇よ…」

「え?きゃああああああ!?」


突如として目の前に現れた深紅に驚き、それを手放してしまった。

黒髪は風に乗り、流れて空に溶けて消えてしまった。


それを残念に思いつつも、アザレアは恐る恐ると現れたたそれに目を向ける。


燃えるような紅…それを持った女は何故かアザレアの目の前にある木に鎖で首をつられるようにしてそこにいる。

赤く裂けたような口が不気味な笑みを形作っており、見た目の痛々しさと笑みのアンバランスさがとにかく不気味であった。


「ノロ…何でこんな場所に…」


それがノロだと認識した瞬間、アザレアは無意識に数歩後ずさった。


いや、アザレアでなくとも生きている者なら誰だってそうするだろう。

むしろ数歩下がるだけで踏みとどまった彼女は称賛されるべきなのかもしれない…それほどまでにノロは恐怖を振りまいているのだから。


そこにいるだけで「死」を感じさせる。


ただ正面に存在しているだけなのに、常に首を絞められているような息苦しさを感じる。


瞬きをすれば…次の瞬間には心臓が抉り出されているのではないかと、ありもしない恐怖を感じさせる。


誰にも…なぜそんな感覚を覚えるのか、なぜ恐怖心を抱くのか説明はできない。

なぜそれを感じるのかすらも…しかし事実としてノロを見た者は口をそろえて言うのだ。


――彼女は「死」だと。


「…私は…あなたに…報告を…持ってきました…」

「報告…?」


「あなたは…伴侶様に好かれている…いいえ、この場所自体を…我が愛しの伴侶様は…愛しているの、でしょう…ならば私は…それを守るため…伴侶様のために…口を開くのです…」

「どいつもこいつも…どうして物事を簡潔に話すって事ができないのかしらね?言いたいことがあるのならハッリと言いなさいよ!」


恐怖を塗りつぶすために。声を張り上げたアザレアだったが、ノロを睨みつけた瞬間に息苦しさが増した。

誰かに首を絞められているようであった感覚は、すでに首の骨をへし折ろうとしているそれに代わっている。

メアが共にいる時はこのような圧力は感じない…その確かな事実にやはり底知れない何かがあるような気がして…そちらの方がアザレアには恐ろしかった。

自分に降りかかる死よりも…メアに何かがあるかもしれないと考える方がよっぽど怖いのだ。


だから彼女は逃げずにそこに立っている。


「…この地に…「呪骸」を持つ者が…立ち入り…まし、た…そのものは…この地に血の災いを…もたらす、でしょう…」

「なんですって…?呪骸…?」


「彼の者こそは…死が中心…赤の境界線に集う…七つと一つの星が一(いち)…貧狼星…さぁ逃げましょう…迫る死が追いつく前に…」


それだけを言い残し、ノロの首をつっていた鎖が木の枝から外れた。

地面に激突するはずだったその身体は…空に溶けるようにして消えてしまった。


「呪骸…この地に…彼の者という事は人間…?まさか…――センドウ!!誰か!センドウを呼んで!」


そう、アザレアは思い至ったのだ。

ついにこの地に…「枢機卿」が現れたのだと。


────────────


「近づくな!その女に近づくんじゃない!!」


そんな誰かの叫び声とほぼ同時に首のなくなった胴体から血しぶきが上がった。


周囲からは少し遅れて悲鳴が上がり、それに交じって楽しそうで朗らかな笑い声が聞こえてくる。


「うっふふふふふ!穢れた者たちの癖に一人前に血は赤いのですね。なんて傲慢な事でしょう…やはりあなた方には捌きと言う名の浄化が必要です。それを受けて天に還ることで初めてあなたたちは赦しを得るのです。うっふふふふふ!」

「このぉ!!」

「おい!まて!よせ!!」


教徒の一人が武器を手に修道服の女、リムシラに勇敢にも向かっていくが、その気概が届くよりも先に首が飛ぶ。


リムシラはその間、ただただ笑みを浮かべていただけで指の一本すら動かしていない。

何をどうやっているのか…なぜ人の首があんなにも容易く飛んでいくのか…何も理解できないまま、ただ死体と、赤だけが広がっていく。


人智を超えた出来事に、それを向けられた人間たちはただ逃げることしかできなかった。


「くっ…逃げろ!全員逃げるんじゃ!」


いち早く駆け付けたシルモグが周囲に指示を出し、状況が飲み込めず呆然としていた者たちを逃がしていく。


逃がすわけがないとリムシラは黒神領の国民たちを追いかけるが、決して急ぐことはなく、優雅に…散歩をするかのような気楽さで歩みを進めていく。


「みんなわかってるな!」

「ええ!なんとかお屋敷から…メア様の帰る場所があるところからは引き離すのよ!」

「メア様から留守を預かっているのだ…決してよそ者に好きにさせるわけにはいかん!」


敵が攻めてきた。

状況はほとんど呑み込めていないが、それだけははっきりとしている。

そうなればメア様教の信徒たちは自分たちの崇拝するメアを…何よりもようやく見つけた自らの居場所を守るために行動を始めた。


しかしどこまで言っても彼らは普通の人間だ。

超常の力を操る枢機卿に対して出来ることなど一つもなく…やがて追い詰められていく。


「うっふふふふふ!人生最後の追いかけっこ遊び…満足いくまで楽しめましたかぁ?ではそろそろ天に召しましょうねぇ~それがあなたたちの幸せなのですから」


笑みを浮かべたまま、リムシラがゆっくりと腕を振り上げた


――その時、リムシラの背後の木の上から小さな何かが彼女に向かって飛来し…その頬に一筋の傷をつけた。


「…は?」


頬の傷から伝うようにして血が零れる。

それを指で拭い…飛んできた何かに目をやった。


それは小さく、そして黒いふわふわの何かだった。


「なに…?毛玉…?」


毛玉と思われたそれからぴょこん!と長い耳が現れ、血のように赤い瞳がリムシラの姿を映す。

それは手のひらよりも小さいのではないかとすら思う、黒ウサギ。

またの名を…。


「う、うさタンク様!」


教徒の一人が自分たちとリムシラの間に割り込んできた黒ウサギの名を叫んだ。


「う、うさ…?た…?いえ、名などどうでもいい。見たところ魔物の幼体でしょうか?汚らわしい許されざる色を持った下等な魔物の分際でよくも神が命をもって救いをもたらす私の頬に傷をつけてくれましたね?…なるほど、この国はそこまで穢れてしまったのですか。まさか魔物と手を組んでいるなどとは…あぁ…!なんたる救い難さ…!しかしそれでも私はあなた方を救いましょう…そうすればきっと亡き大司教様も、そして教皇様もお喜びになることでしょう」


頬の傷を撫でながら、酔っているかのように言葉を紡ぐリムシラの姿に困惑しつつも教徒たちはうさタンクを捕まえて逃げようとした。


しかし手を伸ばしてきた教徒の顔を蹴り飛ばし、うさタンクはそれを拒否する。


「うさタンク様!どうかお逃げください!あなたに何かあればメア様に示しが…!」

「逃げることなどできませんよぉ。魔物に様付などと、なんと悍ましい…一切すべからく皆殺しにてこの悪鬼が蔓延る地を浄化しましょう」


リムシラの手の中に大きな炎が現れた。

魔法…それは誰にでも理解できる現象ではあったが、その規模は桁違いだった。


人一人が産み出すには大きすぎるはずの炎は無造作にリムシラの手の中から放たれ…周囲のすべてを飲み込んだ。


「うっふふふふふ!穢れた存在達でも、その命が奏でる終焉は美しいものですねぇ…あら?」


違和感を感じた。

轟々と燃え盛る炎だったが、何かがおかしい。


リムシラはその違和感の正体を突き止めようと、じっと炎を見つめ…そして気が付いた。

その炎が何も燃やしていないという事に。


周囲は木々や草花…そして人を巻き込んでいる。

燃えるものはいくらでもあるのにもかかわらず、炎が着弾しているその場所さえ…何も燃えていないのだ。


地面生い茂る草も花も…そのままの姿でそ風に揺れている。


「いったい何が…?」


そうリムシラが呟いた瞬間、炎が黒い霧に飲み込まれた。

まるで炎を内側から食い破るかのように…ドス黒い霧が現れ炎を塗りつぶしてしまったのだ。


そして広がった霧の中からガシャ…ガシャ…と金属同士がぶつかり合って擦れているかのような音と共にそれは姿を見せた。


まず目に入るのはその重厚な鎧だろうか。

黒以外の何色も携えていない…光をに見込むほどの鈍重な黒で彩られた鎧だ。


次に鎧と同じく黒で彩色されたヘルムから覗いているのは真っ赤な光。

目…なのだろうか?射貫くほどの刺々しい赤が、流れるように漏れ出していた。


全身を黒で固め、露出している部分など一切ない鎧の人物。

その中身に何が入っているのか…一切伺い知ることができないが、鎧の形からそれが女性の身体をしていることだけは辛うじて分かった。


「…いったいどちら様でしょうかぁ?」


突如として現れた鎧の女にリムシラはやや不快さを含んだ質問を投げかけた。


「我こそはこの地及び人民の守護を主より承りし者」


ヘルムの中で反響しているためか、その声はくぐもっており、年齢や性格等はくみ取れない。

ただ異様な威圧感を放っているという事は枢機卿であるリムシラをして感じていた。


「名前を聞いても?」

「我が名は――うさタンク。主が見守り、祝福するこの地を守護し…汝に死という呪いを与える者である」

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