第三十六話『時代を経ても尚尽きぬ食料-Sæhrímnir-』

 壁面にツタが這って幻想的な雰囲気のする、昔の映画かアニメで見る様な、おまじないの品々を取り扱う小さな小間物屋があった。

 店の中には、飾り気の無いシンプルな黒のイブニングドレス風の姿をしたすみを垂らした様な黒髪が印象的な店主と、どこか刃物の様な印象を覚える詰襟姿つめえりすがたの従業員の青年とがガスマスクを着けて、厳重げんじゅうな雰囲気の金庫の前に居た。

「それで、なんでマスクを着けないといけないんですか? シュールストレミングか何か開けるんですか?」

 ガスマスクを着けた従業員の青年は、不思議そうな顔と声色でそうたずねる。

「ええ、今から開ける商品なんですけど……完全に腐敗ふはいしているの!」

「……腐敗ですか? 発酵はっこうじゃなくてですか?」

 ガスマスクを着けた女店主の心底嫌悪感けんおかんを隠しもしない態度たいどの発言に、従業員の青年はに落ちない様子で聞き返した。

「ええ、腐敗で合っているわ。腐敗も発酵も同じ物と言う人も居るけれど、これは絶対に腐敗だわ! どうしようもなくくさっているの!」

「ええと……アイネさんはなんでそんな腐った物を手元に置いているんですか? そんなに嫌なら、最初から仕入れなければ良かったと言うか、早くに処分でもすれば良かったのでは?」

 従業員の青年心底不思議に思い、疑問を口にした。

 何せ、この小間物屋は店主が伊達だて酔狂すいきょうの道楽でやっているのだ。

 要らない商品は処分した方が良いだろうし、それによって損害をこうむったとしても店主からしたら大きな痛手ではない筈だ。

 しかしそれを聞いた店主の女性は、ばつが悪そうな表情を浮かべて言葉にまった。

「それは、その……これを仕入れた時はまだ腐ってなかったし、冷凍庫にでも入れておけば劣化しないと思ったの! でも、ダメだったわ! あのお肉はその日のうちに食べないとダメだったの! それなのに私ったら……なんて信じられない、バカバカバカバカ……」

 店主の女性は自分で自分をなじる様に、沈んだ口調で頭を抱えながらつぶやいた。

 従業員の青年は、そんな自分のやとい主を見て、何故その腐った肉とやらを処分しないか疑問に思い、しかしそれを口に出すべきか否か迷っていた。

「……ええ、分かっているわ。どうして処分しないのか聞きたいのでしょう? このお肉はね、切り取ったり食べたりすると一日かけてよみがえるの。要するにコレは、ゴミにてたら焼却しょうきゃくしても野犬が食べても一日経ったら元に戻っちゃうの」

「すごい肉じゃないですか!」

 従業員の青年はおどろきの余り、明るい調子で反射的に言ってしまった。

「そう、すごい肉なの。でもね、このお肉は食べられるために再生するの。つまりお肉にとって食べられるのが正常であって、食べられないのが異常事態なの。一日食べないだけで腐ってしまって、それでいて腐った状態から元に戻らなかったの……もうあれは元に戻るお肉じゃないの、どうやっても処分も出来ないし、無限に再生し続ける腐ったお肉でしかないのよ!」

 店主の女性は機嫌きげんが悪い事を隠しもせずに、一息に言った。

「実物は見なくていい……と言うより私が見たくもないから、このままで運んでちょうだい。うーん、店先にも店のすぐ外にも置きたくない……」

 店主の女性に命じられ、従業員の青年は厳重な雰囲気の金庫を地下から一階の展示たなへと運び始めた。

「ところでこんな厄介な物、一体誰が買うんですか?」

「知らないわ! 知りたくもない! でも買うって連絡が確かに入ったのだから、引き取ってもらうわ! 絶対に引き取ってもらうったら、本当に引き取ってもらうんだから!」

 従業員の青年はヒステリックな様相の店主の女性を尻目しりめに、今手に持っている金庫の中で、腐肉がモゾモゾと不気味な蠢動音しゅんどうおんを立てて今この瞬間しゅんかんも増殖しているのでないかと言う、嫌な汗を覚える想像をしながら、黙って金庫を運んだ。

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