第三十五話『千の夜と一つの夜明け-Nyx-』
今から何千年も昔、ある所にシッダルタと言う王子が居た。
シッダルタ王子は生まれた時から王宮で過ごしていたが、ある時
似たような話は別の時代、別の地域にも存在する。
例えばギルガメッシュ大王はシッダルタ王子より二千年程前の人物だが、彼もまた親友との死別を経て恐怖感を覚えて恐怖を克服するための旅に出る。
シッダルタ王子は修行の果てに恐怖を克服し、その考えはまとめられて一つの教えとして多くの人に知られた。
しかしシッダルタ王子もこの話の主人公ではない。
* * *
今から
「不幸だ、不幸だ、大いに不幸だ。生きとし生ける者は
宇宙にある小さくて何も無い殺風景な星と表現したが、とどのつまり、ここは月だ。
彼は地球で生まれて地球で死ぬ運命だったのだが、死ぬ事が恐ろしくなってここまで逃れて来たのである。
そんな馬鹿なと思うかも知れないが、彼は実際に地球で生まれて地球で死ぬ運命にあり、彼の死は宇宙にとって意味の有る事なのである。
逆に言えば、地球の外に居れば彼は死ぬ事はない。そう言う運命なのだから、仕方が無い。
人は死ぬ運命にある。しかしそれはシステムがおかしい訳ではない、むしろ世界のシステムは人間を愛していた。
その
世界は人類を愛していた、しかし人類が世界の愛を拒んだのである。
地球から逃げた男は別段、死を恐れてはいなかった。
彼は
それどころか自分が死ぬと言う運命に対し、自分を殺す役目を
そして何より、自分が死ぬ運命を
だってそうであろう、ある日突然交通事故や落雷で死ぬかもしれないと恐れていたら、おちおち外出など不可能だとしか言えないのだから!
しかしある時、運命のいたずらが起きた。
ある時この男は何故だか知らないが心の底から
絵も言えぬ恐怖から逃げると言うと簡単だが、彼の場合は非常な困難だった。
何せ自分を殺そうとしているのは世界によって仕組まれた運命であり、引いては人類の為地球の為なのである。
仮に彼の現在の所在である帝国から逃げても、世界の運命が自分を絡めとって殺すだろうと言う確信が彼には有った。
自分の死が人類の為と言うならば、人類が誰も居ない所へ逃げれば殺される事は無いだろうと考えたが、彼はまだ母親の
つまりは前人未到の地まで行ったとしても、天が自分を殺しに雷でも落としに来るのではないかと言う恐怖心が湧いて出て来たのである。
彼は逃げて、逃げて、逃げて、遂に地球の外、即ち月にまで逃げおおせたのである。
何せ彼の運命とは、人類の為に死ぬ事にあるのだ。
人類の為に命を落とす事が決定づけられているのだが、月で死んでは犬死もいい所。
最早、世界も彼を運命で殺す事は叶わない。
さて、彼が死なない事によって世界に
これはいわゆる一つの世界線、一つのif、彼が死なないと言う思考実験に過ぎない。
誰も彼の事を知らないし、誰も事を記念しないし、誰も彼の事を祝わない。
世界は彼を愛していたし、人類も彼を愛する筈だったが、その機会は永遠に失われたのである。
* * *
壁面にツタが這って幻想的な雰囲気のする、昔の映画かアニメで見る様な、おまじないの品々を取り扱う小さな小間物屋があった。
店の中では、
「さて、今日は特別な日だし早々に店を閉めてお茶にしましょう」
店主の女性は
「えっと、今日は特別な日なんですか? えっと、このお店の創業記念日とか、もしくはアイネさんの誕生日か何かですか?」
従業員の青年は、店主の女性に腕を引っ張られる事など慣れっこな様子で、しかし店主の言う特別な日が全く見当のつかない困惑した様子で言った。
従業員の青年の予想は半ば当たったのか外れたのか、引っ張られた先のテーブルには小さ目ながらも立派なホールケーキが位置していた。
「今日はね……そう、ある人の誕生日!」
「ある人? アイネさんの誕生日じゃないんですよね?」
無邪気に子供の様にはしゃぐ店主の女性に対して、従業員の青年は落ち着き払った様子で応える。
「んー、
「神様の誕生日ですか?」
「うんう、違うわね。うん、今のは違うわ。忘れて下さる?」
店主の女性は自分の口から出た言葉を、従業員の青年の口から聞く事で、自分の表現が語弊を大いに含んだ物だと気づいて否定した。
「何と言えばいいかしら? 人類の失敗の記念日?」
「人類の失敗の記念日?」
「ええ。失敗の記念日だから、こっちじゃ誰も祝わないし、もっと言うと普通は認知もされてないわ。でもね、私にとっては大切な日なの」
従業員の青年のオウム返しに対し、店主の女性は自分の過去の憂いを回想する様な口調で話す。
「人類が失敗したから、世界中にお
「よく分からないのですけれども、普段はちゃんと仕事をしてくれる人が失敗して、その結果アイネさんが被害を
従業員の言葉を聞き、店主の女性は目を輝かせた。まさしく目から
「カナエは賢いわね、一を聞いて十を知るってところかしら? 彼も幼少の頃はそうだったらしいと言うか、文字通りの神童だったらしいけど、こっちの彼は本当にダメね。お茶を
従業員の青年は、突然
彼が出来る事と言えば、ただただお茶を淹れる彼女を見る事と、彼女の背後にある見慣れぬ緑の人工物らしい樹木を眺める事だけだった。
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