第4話 母の完全主義の始まりと凍死
さて、家は少し奥まったところにあると言ったが、その国道沿いで商店を営んでいる家屋があった。
ここの子供に同級生がいて友達になった。
家が近いこともあり毎日のように友人付き合いをしていた。
彼の好きなものに店舗用の文字看板の収集があり、黒色のものに金色などの塗装をしたものが彼は一番好きだった。これを彼はキンジョウクンと呼んでいた。(文字看板とは文字を一字一字そのまま立体的な文字に
子供が持ち出せるものだから一文字のものをコレクションしただろうが、おそらく古い家屋の廃屋や瓦礫の中から見つけたものらしい。
他の看板についてはあまり覚えていないが、キンジョウクンよりもランクが下だったものもあった。
しかし俺はそんなものには興味はなかった。
俺は田んぼに引き込む用水路の水の中に見えるドジョウを見て、生きている魚に強い興味を抱き始めた。
まだこの頃は子供が魚を捕えると言うことは出来るものではなかった。
手に出来るものは昆虫と小ガエルくらいだった。
他にも友人は何人かいた。
友人の1人に線路トライアルをするやつがいた。
それは何かと言うと以下の違法行為である。
幼い子供が鉄道の敷地内に入れる程緩い時代だったが、列車が来ている時彼が線路の側にいるのが見えた。国道の坂の歩道の上から線路が良く見える位置にいた俺は呆気にとられてそいつを見て立つくした。
するとそいつは走る列車の直前に線路を横切って見せた。
「うわぁ、危ねえ」
そう言ったがどうか覚えていないが、非常識の極みだ。
後で考えたことだが、おそらく列車は子供である友人を確認するとかなり減速をしたのだと思う。
彼と列車の距離はそうなかったからだ。
これを見て何日もしないうち彼に会ったので話してみたが、彼はもっとぎりぎりで渡れたはずだと悔やんでいたが、幼心の俺でも呆れかえって何も言えなかった。
これは明らかな犯罪だ。大人に知れると親同伴での厳重注意以上の叱責にあっただろう。
後でボコボコに殴られたかも知れない。
当時
小学生に進級した者がこれにかかると命が危ないと言われていた。
覚えているのでは1名が小学4〜5年生で命を落としている。
俺が麻疹にかかったのは小学生になっていない頃だと思う。
熱が出て風邪の症状で苦しかったのを覚えているが、それ以前にインフルエンザなどでこんな症状を経験したかどうかはっきり覚えていない。
熱が出て暑いので布団から足を出すと母に布団から足を出すなと言われた。それで布団の中で汗をかいて苦しんでいた。
年齢も年齢だから普通の生活の中でも母が側にいると言うのは日常と変わらなかったが、遊びに行けないのは辛かった。
闘病の床であえいでいる時近所の親友はやって来てキンジョウクンを持って意気揚々としたが、これに母が苛立ってそいつを追い返した。
何日かして症状が落ち着いて家の中を普通に歩きまわれるようになると、また別の友人がやって来て外へさそい出した。
この時母が不在のためと元気なこともあって勝手にゆかた姿で外出し水場で遊んでいた。
水場に落ちた何らかの持ち物を取り戻すため協力したが、身体半分まで水に浸かってまでした。
病人を引っ張り出して、こき使うのもなんたが幼児同志の認識はそんなものである。
帰宅すると母は激怒していた。
激怒するなら家にいたら良いものを。
まあ、母と言ってもまだ若者である。俺が1歳頃の記憶が無いと述べたが、彼女の実家に取り残された記憶はある。
母依存の必須の赤子の頃だ、いつもとは違う家に取り残された俺は母を探したが、どうもいない。
伯父を母と勘違いしてついて行くとつばを吐きかけられ毛嫌いされて泣き出した。
そこへ祖母が抱き寄せる。
まだ20代の遊びたい時期の母だ、実家に赤子を預けて羽伸ばしたかったのだろう。
こんなエピソードでやっとのこと思い出した記憶である。
そんな彼女の息子だ、幼児とは言え外に出る羽根のついた俺であった。
今では幼い子供の単独行動など想像もつかないのだろうか。
そして幼稚園時代には弟が生まれる。
妊娠中の母はよく俺に嫌味ばかり口にした。
「お前がうるさいから腹の子が蹴ったぞ」とか、うるさいの他に暴れたからだとか、嫌味だからとか、遊び方が気に食わないとか何でもあった。
期間が長いだけに色々ある。仕方ないことであるが。
まあ暴れたと言うのはおそらくずいぶんあったのだと思う。
俺には頭部に傷がある。傷の部分が剥げていたのでこれを小学生になっても中学生になってもいじめの口実にされた。
原因は俺がその頃のこと石をハンマーか何かで砕こうとして、飛び散った石が窓ガラスを割りその破片が頭に当たって傷を負わせた。
その後どうしたかあまり覚えていないが、手当を受けたか病院へ行ったらしい。
頭の手当ての状況は忘れた。
母が弟の出産間近の頃祖母がこちらへ援助に来た時近所のガキ共の盛り上がりをさそうために水溜りの泥水を飲んで見せたことがある。
祖母は呆れ果てて母に告げ口をした。すると母は下痢止めをくれた。
冬になると雪が積もる地方なので雪の丘の上からそり滑りをした。
あるとき、あまりにも雪が積もったため近所の家の2階にまで外から入れる程だった。
この2階の窓の傍からそりで下界へ滑り降りると言う楽しみを覚えている。
ここは夏になるとスーパーの裏手にあたる土地で、夏のある日何やらおじさんが作業していた。
その作業後のそこには鳥がいるようなので見に行くとかわいいと思えだが、もう解体された残骸だったのでギョッとした。
こんなところで肉を作っているのかと、商品についての理解はあった。
その後鶏肉は嫌いになっていなく、これを見ても別に鶏肉は好きで食べていた。
冬の思い出は楽しいものばかりではなかった。
生まれた町も冷えるところだったが、この地方も気温が下がる。
ある日の朝気温がものすごく低下し、子供にとっては生死にかかわるほどのものだったのを覚えている。
何もわからない俺は母に無理やり手を引かれ幼稚園へ登園させられようとしていた。
友人の住む店のあたりまでのわずかな距離を歩くだけで呼吸困難に陥るほどで、もう死ぬことを覚悟したかのような気がした。
まぁ後の人生を考えるとそれで人生が終わってもアリだなと思うのだが。
あまりの冷気に喉がやられ、何も話すことが出来ず、鼻でも口でも殆ど呼気出来なかったと思う。
ここですでに意識が朦朧としていた。
国道の歩道に出たところで母親の知人に会い、そこで幼稚園は休園であることを知ったようだ。
この一事で俺は死ぬか、あるいは喉を破壊されてしばらくはあるいは一生口のきけない、声の発せられない身体になっていたかも知れない。(そんな話は聞いたことがないが)
この知人に会っていなかったとすると俺は氷点下40℃の冷気の中数10分間の旅をしたのだろうか。
休園で閉鎖している幼稚園を折り返して、どこにも暖を取ることなく帰宅したとして、下手をすると凍傷で手足を失っていたかも知れない。
幼稚園でさえ絶対休ませないぞと言う母の狂気に満ちた完全主義的生き方が表れ始め、これが俺を一生苦しみ悩ませていくのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます